長崎市出身のシンガーソングライター・さだまさしさん(73歳)が、被爆80年の8月6日、19年ぶりの平和の大切さを訴える無料コンサート「夏 長崎から2025」を稲佐山公園野外ステージで午後5時から開催しました。コンサートを前に平和への思いを語っています:「自由に音楽ができる場所が無数にあることが平和の1つの象徴」
「広島原爆忌の晩、長崎から広島へ歌おう」 1987年(昭和62)8月6日、当時35歳だったさだまさしさんは、長崎市の市営松山ラグビー・サッカー場で野外コンサートを開きました。タイトルは「夏 長崎から さだまさし」。ちょうど日本経済がバブル景気に浮かれ、日本人が少し間違った価値観へと向かって走り出した頃でした。この頃はまだ「平和」とか「原爆忌に歌う」という言葉を使うだけで「左翼」と言われるような、間違った価値観を持つ人がかなりいた時代です。「もの言えば唇寒し」という時代でした。「広島原爆の日に、長崎から広島に向かって歌う。それだけで伝わる人には伝わる」敢えて声高に「平和」を叫ぶことなく、集まった人々の心の中にある平和への想いを再確認する場にして欲しい、というさださんの思い。彼は意識して「平和コンサート」という表現を避けて、「夏 長崎から」という名前にこだわりました。ステージ上からこう呼びかけます。そこには政治的・思想的な意図はありませんでした。「このコンサートが終わるまでの間に、ほんの僅かな時間でよいから、あなたの一番大切な人の笑顔を思い浮かべて欲しい。そうしてその笑顔を護るために自分に何ができるだろうか、ということを考えて欲しい。実はそれが平和へのあなた自身の第一歩なのです。」 それを入場料無料で始めたのです(当時彼は莫大な借金の返済に苦しんでいました)。それは、広島原爆忌の晩に長崎で歌うという「平和を願う場所」は誰でも来ることのできる場所であるべきだ、という彼の切なる思いです。仮に500円でも1,000円でも入場料をとってしまえば、子どもや老人は家でお留守番になる可能性があります。無料にすれば家族連れで夕涼みがてら出かけようという気になり、家族が揃ってみんなで音楽を聴く、これこそが「平和」の姿の一つであるという強い信念でした。スタッフは青くなりました。野外コンサートには一夜のために数千万円という費用がかかるのに、それを「無料でやる」というのですから事務所スタッフの辛さはよく分かります。無茶だと憤るスタッフもいました。心ない人たちの間では「売名行為」「ただとは何か別の意図があるのではないか?」「長崎県知事になるための事前運動だろう」「いや長崎市長を狙っているらしいぞ」と中傷の言葉が飛び交いました。一部の尖った人達からは「中途半端」「趣旨が曖昧」などと言われたりもしました。当時、舞台制作費、交通費、宿泊費、スタッフ費用に1回3,000万円ほどかかりました。映画「長江」の借金返済で苦しんでいた当時のさださん(28億で金利を入れて35億円!)にとって、この金額は決してたやすいものではありませんでした。借金をさらに増やしてまで血の出る思いで、それでも始めたのには、どうしても伝えずにはいられないさださんなりの平和への熱い思いがあったからだと思います。苦しい時にさださんの心を支えてくれる故郷に恩返しをしたいという一存でした。それで、駄目になるまでやらせてくれ、とスタッフに頼み込んで、毎年「広島の夜」に長崎で歌ってきたのです。このイベントはたくさんの人に支えられて以降2006年まで、20年間も続きました。いつの間にか「長崎の夏の風物詩」と呼ばれるようになり、毎年稲佐山公園野外ステージに2万人前後が集いました。回を重ねる毎に誹謗中傷も消えていき、社会的な理解も広がり、徐々に理解ある協賛企業も現れ始め(パナソニックなど)、大規模になっていきます。それでも毎年費用1億円の半分近くはさださんの持ち出しでした。ようやく赤字を脱したのは17年目のことでした。
さださんは、1987年から平和コンサート「夏 長崎から」を毎年8月6日に開いてきましたが、開催から20回を区切りとして、2006年の公演を最後に身を退く決心をしました。さださんは自問します。
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最も借金していた頃に始めた思いはあれから20年を経て変化していないか?風化していないか?
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心の熱は下がっていないか?これが本当に必要なのか?
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お客さんはどうなのか?これが本当に必要なのか?
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20年間訴えてきた平和への思いは伝わっているのか?あるいは無駄だったのか?
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子どもでも成人すれば(20年)親の手を離れてもいいのではないか?
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自分が永遠に続けられるものでもないだろう?
これらを自分でもう一度客観的に見つめ直すために、一度現場を離れてみようという決意でした。長崎県は感謝状をさださんに贈ったり、稲佐山の野外コンサート会場を大規模ライブができるように改装したりの協力はしていましたが、コンサート自体はさださん任せでした。長崎市民にとって「夏の風物詩」と言われるまでになった特別のイベントなのですから、行政ももっと協力してあげてもよかったのではないか。私はそんなことを思いながら、灼熱の太陽の下、最後の長崎を後にしました。
あれから19年が経ち、被爆80年の節目を迎える今年、「音楽は平和の象徴」という思いから、再び開催することを決意しました。さださんは長崎のテレビ・ラジオ6局が初めて共同で立ち上げた「被爆80年 長崎メディア共同プロジェクト」に共鳴し、コンサートを前に報道陣に平和への思いを語りました。 「大量兵器でたくさんの人を殺すという戦争状況だけは僕は認めたくない。(Q.被爆80年をどう捉えるか?)これは戦争の名残ですから、戦争が終わったということが一番大事な事。次に、原子爆弾は戦争を終えるために使ったとアメリカの人たちは昔言っていたけどそれは正しくないと僕は思っている。どうあっても一般人を大量に人の命を奪うというのはいくら戦争でも許してはいけない。だからこれ長崎が最後でありますように」 「夏 長崎から2025」は 「希望を持ってあしたの長崎を、あしたの日本を、未来の長崎を、未来の日本を良くするためには、一人ひとりが自分の周りの人を大事にすることから始めないと」「核が安上がり」などと、核武装を肯定するような意見を述べる国会議員の存在を「時代の怖さだ」と指摘します。「戦争の果てに原爆が落ちたという事実がこの街にある。伝え続けていかないと」と語りました。「歌に大した力はない」としつつも、「でも人の心という碁盤に1個、石を打つことはできる。一人でも二人でも、届く人に届けていく」と力を込めました。音楽は平和の象徴なのです。
広島原爆の日に、もう一つの被爆地である長崎から、「今年で戦後80年、被爆80年という大きな節目ということに背中を押されて、あとで後悔してもいけないと思って、今年は強引にやる決意をしました」と、平和と生命の大切さを歌で届けるべく、2006年以来19年ぶりの復活です。さださんはこの形式での開催は最後と決意し、今後は後進にバトンを渡したい、と明かしました。今井美樹(62歳)、南こうせつ(76歳)、笑福亭鶴瓶(73歳)、立川談春(59歳)らがゲスト出演し、約1万3,000人のファンに平和への願いを表現しました。思いは変わりません。1000万ドルの夜景を見下ろす長崎・稲佐山のステージ。さださんが故郷を歌った、このライブのオープニングの定番「長崎小夜曲(ナガサキ・シティ・セレナーデ)」で幕が上がると、思い思いに芝生の上に座っていた約1万3,000人の老若男女が一斉に立ち上がりました。8月6日に、長崎から広島に向けて歌う。1987年から2006年まで開催された伝説の無料コンサートです。戦後80年、被爆80年の節目に19年ぶりに復活させたさださんは、毎年たった一つのメッセージを繰り返してきました。「いま、あなたの大切な人の笑顔を思い浮かべてみてください。そして、その笑顔を守るために何ができるかを考えてみてください」この日は、それにあえて一言だけ付け加えました。「そして、自分が何をなすべきかが分かったら、そこへ向かって歩きだそうじゃないですか」。分断と対立が続く今日の世界の中、自然と言葉に力がこもりました。
これまで、村下孝蔵、来生たかお、松山千春、谷村新司、都はるみ、小田和正、財津和夫、泉谷しげる、加山雄三、岩崎宏美、南こうせつ、小林幸子、平原綾香、スターダストレビューら大物アーティストが続々と友情出演した「フェスの元祖」です。19年ぶりのステージで、73歳のさださんは「最後」と決めて、ギターを抱えました。今回初出演となったのは、英国から今井美樹さんでした。「PIECE OF MY WISH」などを変わらぬ透明感で披露し、「いつも、遠くから祈る気持ちは持っていましたが、参加できたことで、ここにいられる意味を強く感じています」と、さださんの思いを受け取りました。「戦争が起きたら音楽が止められ、人が集まることが止められる。平和とは、どんな音楽でも自由に演奏できる、音楽会を開けること。最初の頃にコンサートに来た子供がお父さんお母さんになっている。その人たちが子供を連れてきょうここに来てくれた。バトンタッチの場になればいい」とさださん。「僕は今年73歳。何処まで走ることが出来るか分かりませんが、精一杯走ろうと思っています」。

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