戸田奈津子さん、お元気!

 疎開先の愛媛から帰ったばかりの少女・戸田奈津子(とだなつこ)さんの目に映った焼け野原の東京の景色は、どこもかしこもが灰色でした。食べ物も満足になく、いつもおなかを空かせていました。そんな中で、“娯楽”と呼べる唯一のものが、会社勤めをしていた母親と待ち合わせて、新宿の映画館で観た洋画でした。少女は、たちまち洋画に恋をします。「それから中学に進学して、英語の授業が始まったのです。あの映画の俳優たちがしゃべっている言葉を習うのだと思うと、胸がときめきました。とにかく映画が大好きだったので、『映画の中のあの言葉を知りたい!』と思ったのです」戦争で夫を亡くした母は、手に職もなくいろいろな苦労をしてきました。決して同じ轍は踏むまいと、娘は大学に進学。母娘の間では、卒業したら安定した職を得て、今度は娘が母を養うのだという暗黙の了解がありました。「周りの友人たちが、就職の話を始めるようになって、スチュワーデスやら公務員やら教員やら、いろんな職業を口にしても、私は、どの職業にも魅力を感じることができませんでした。そんな中、『映画と英語を両立させられる、字幕翻訳の仕事はどうだろう?』と、はたと思いついた。でも、字幕翻訳家になるにはどうしたらいいか、知っている人は誰もいない。それで英米映画の最後に必ず出てくる清水俊二先生のことを思い出して、電話帳で先生の住所を調べ、『字幕翻訳がしたいのですが』と、お手紙を書いたのです」

 それから、清水さんと会うことはできたものの、「とにかく難しい世界だから」と断られてしまいます。戸田さんは、津田塾大学の教務課に勧められるまま、大手生命保険会社の秘書室で、英語文書を扱う仕事に就きました。でも、初日で、「会社勤めは向いていない」と感じ、1年半で退職しました。「わがままというか、協調性がないんです。小学校の通信簿に、毎度毎度、『協調性がありません』って書かれていたくらいですから〔笑〕。そこからは、『翻訳なんでもうけたまわります』というアルバイトの日々。あとは、清水先生から、日本のテレビ番組を海外に輸出する際のシナリオの英訳を頼まれたり。私がいつまでも『字幕翻訳家になりたい!』という夢を諦めないものだから、時々、テキストを渡されて、字幕作りの基礎を教えてくださったりもしました」 30歳を過ぎた頃、様々な映画会社に顔を出しながら、買い付けのための、新作のシノプシス(あらすじ)づくりなども依頼されるようになりました。小さな映画の字幕を数本、手掛けるようになっていた41歳の時、日本ヘラルド映画という映画会社から、「フランシス・フォード・コッポラ監督が、今フィリピンで新作映画を撮っていて、フィリピンと自宅のあるサンフランシスコを往復するとき、必ず日本を経由していく。来日したときの通訳をしてくれないか」と頼まれました。コッポラ監督は、知識欲が旺盛で、東京にいる時も、何が食べたい、何が観たいと、好奇心の赴くままに行動するもので、定職に就いていなかった戸田さんは、東京でのガイド兼通訳を務めました。それで仲良くなったのです。「生涯を通しての運命的な出会いでした。それまでの20年間、私の中では字幕翻訳がやりたくてもやれない、長いウェイティングの時代が続いていた。字幕の仕事はあってもせいぜい小作品が1年に1本。それが、この映画によって、手のひらを返したように、だいたい週に1本。雨のように仕事が降ってきました〔笑〕」

 戸田さんは20年間、字幕翻訳家になるチャンスを待ち続けて、「地獄の黙示録」でそれを掴みました。それから、依頼があると、「嬉しくて嬉しくて」1週間から10日で1本の作品を仕上げるような超売れっ子の状態が、30年以上続きました。女性であったことが、何かいいほうに作用したことは?と尋ねられると、「フリーターでいられたことぐらいかしらね。男はそうはいかないから。だって当時は、30にもなってフラフラなんかしている人はいなかったもの。そういう意味で、41歳まで、“ナッシング”でも平気だったのは、女性だったからかもしれません」

 映画字幕翻訳者の戸田奈津子さん(90歳)が7月12日(日)の『日刊スポーツ』の特集記事で取り上げられました(写真上)。手掛けた字幕は1,500作品以上。多くのハリウッドスターの通訳としてもご活躍になり、映画文化の架け橋になってこられました。2025年、旭日小綬章を受章しておられます。神田外語大客員教授。左目の視力を失っておられますが、お元気そうで嬉しく思いました。

 昨年もトム・クルーズ主演の「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコンニング」の字幕を手掛けられたばかりです。7月3日に90歳になった今も、現役続行中です。「やめようと思ったことは一度もないです。好きだからやってきただけ。大谷選手もそうでしょう?見るからに楽しそうだもの。レベルはまったく違うけど、私も同じよ」「運動はしないし暴飲暴食。健康にいいことをまったくしていないけど、どこも悪くない〔笑〕。私の人生の一番のラッキーは健康だったことね」。 東京が焼け野原で食べ物もない、娯楽もない時代に、地球上にこんな別世界があるのかと、たちまち“ミーハーな映画ファン”になり、俳優たちが何を話しているのか知りたくて英語を一生懸命学びました。「英語力を生かすための翻訳業ではなく、私の場合は完全に映画が先。英語はそのおまけなの。今でも〔笑〕」。映画愛と豊かな知見、洋画ファンのミーハー心を外さない字幕で作品の魅力を伝えてきました。津田塾大学卒業後、字幕翻訳者への道を歩き始めましたが、夢がかなうまでに実に20年もかかっておられます。フリーの翻訳など、さまざまなアルバイトをこなしながらチャンスを待ちました。「好きなことしかやらない人間だから、組織には入らず、リスク覚悟で一匹おおかみで。自分で決めたことだけど、望みが何ひとつ具体的に進まない20年は本当につらかったわね」。40代の無名人材を推薦してくれたコッポラ監督への感謝に加え、強く感じているのは時代への感謝です。「文字ばかりで会話なんかやってこなかった人間に通訳やれなんて、今の時代じゃ絶対にない〔笑〕。『Right time,right place(いいタイミングでいい場所にいる)』。そういう時代にたまたまいたのよね。私の人生は全部それ。本当にラッキーな人間なんです」。飾らないハートで相手の懐に飛び込み、信頼を得、卓抜したコミュニケーション力で多くのスター人脈を築いてきました。「できる限りのことはやりましたね。苦労だと思ったことはありません。ミーハーからスタートしているわけだから、スターと会えたらうれしいに決まってるじゃないですか〔笑〕」「いろんな方と出会えたことは私の財産です」

 英語力より日本語力だと断言されます。1秒間に3~4文字、最大13文字×2行の26文字に収める字幕の世界。「直訳では到底入らない。4文字、5文字でストーリーやキャラクターのフィーリングが分かるように、どんな言葉を選んで字幕を作るかが翻訳者の腕の見せどころ」。求められるのは英語力より日本語力とし、「日本語8割、英語2割が私の実感」と話します。幼少期から、大好きな読書を通して豊かな日本語に触れてきました。「本を読んで、主人公の気持ちになるのが大好きでした。善人も悪人も、すべての登場人物になれるこの仕事は本当に楽しい。ベッドシーンだって、その人の気持ちになって考えます。でなきゃ字幕なんて作れませんよ」。直訳派からの批判は「字幕というものを分かっていないので、一切見ない」と言います。 「そもそも字幕はあってはいけないもの」とも語ります。「撮影現場では、俳優も監督もカメラマンも、自分たちが作った映像に文字が入るなんて考えてもいませんよ。パーフェクトな映像に厚かましくも入ってきて、極論を言えば必要悪なわけ。お客さんだって文字を見に来るわけじゃない」。理想は「存在感のない字幕」と言い、「見終わった時に、文字を読んだ記憶がない。記憶に残らない字幕がいちばんだと思います」

 今はスマホでどんな言語も瞬時に翻訳できる時代です。映画字幕の未来について聞くと「AIにわれわれのような字幕翻訳はできません」ときっぱり。「ビジネス文、論文など感情のない文章の翻訳はAIはとても上手。でも、エモーションがないコンピューターにエモーションの翻訳は無理。小説は無理だし、字幕制約のある映画字幕はもっと無理。またAIはデータがないと何もできない。人間の感情はデータじゃないから」。いつかはAIもそんな能力を身につけるかもしれないけれども、「私が生きている間は無理だからいいの」と笑顔です。「そういう意味でも、いい時代に字幕をやってこられてラッキー。いい映画をたくさん見て、いろんな人に出会って、話を聞いて。つくづく『Right time,right place』の幸運な人間なのよ」

 かつて戸田奈津子さんがアメリカの人気マンガ「ガーフィールド」の翻訳をされたことがあり、私は若い頃、その推薦文を書かせていただいたことがあります。今となっては懐かしい思い出です(写真下)。

 雑誌『CNN ENGLISH EXPRESS』11月号(2017年、朝日出版)に、そんな戸田さんのインタビュー「自分の「好き」を追い続ければ道は自ずと開ける」が載っていました。これが示唆に富んでいて、実に面白く読みました。ぜひみなさんにも読んでいただきたい文章でした。戸田さんの回答で、気に入った部分は下線を引いておきました。そこでは、字幕翻訳で最も大切なのは英語力ではないと断言しておられます。

 字幕は一瞬でわからないといけないから、ややこしい文脈はダメなんです。アメリカ文化と日本文化の違いもあるし、ジョークなどもそのまま訳したって、面白いわけがありません。ただ直訳すればいいというものではない。そんなギリギリのセリフを字数制限がある中で作り出すことができるのは、やはり日本語力です

 会心の字幕翻訳だという作品はあるか?との質問に答えて

 自信を持ってできたなんていえる作品は一つもありませんよ。今だって自信なんかありません。どんなキャリアだって、自信なんて持つようになったら終わりですよ。今でも「このセリフでいいかな、どうだろう」と不安に思いながらやっています。映画は題材によってワンパターンではなく、ケースバイケースで変わりますしね。ルールがあるわけじゃなくて、映画が「こういう言葉を使ってね」と語りかけてくるんです。お調子者のキャラクターが出てきたら、「チャラチャラした言葉を使ってね」と。こちらで決めているのではなくて、全て映画からメッセージを受け止めて、せりふをつくるのです。

 英語力の中で特に重要だと思うのはどの能力ですか、との質問には

 あえて言えば、書くことが大事だと思います。会話で話す英語は、少々間違えても通じますよね。そうすると、ただしゃべっているだけだと、自分の間違いが自分でわからない。書く英語には明確な正解があるので、実際に書くことで初めて自分の間違いが自覚できる。そこでしっかり学ぶことができます。書くことは英語の知識のダメ押しをすることだと思います。文法も重要ですよ。基本的な文章を書くための文法を身につけておくことは必要だと思います

 語学を学ぶ方は、英語が上手なことも大切だけど、それだけではプロにはなれないと思います。自分が志す分野の知識がきちんとないとダメですよね。英語はあくまでもツールです。道具の使い方だけがうまくなっても意味がない。大工さんがいくらカンナがけだけ上手でも意味がないでしょう。一番大事なのはその技で家を建てることです。言語も同じで、いくらうまく言語が使えても、「それで何をするのか」というところまで見えてないといけないと思います。何をすべきか見つけるのが難しいなら、自分の好きなことから入ればいいのです。人間、誰しも好きなものはあるでしょうし、それもないなんて言うのなら、自分をわかってないからです。そこから始めれば、結果的に自分をプッシュしてくれるはずですよ、私のように。

 私も同感です。私は尊敬する竹内 均(たけうちひとし)東京大学名誉教授から、①好きなことをやって、②それでメシが食えて、③時々人からお礼を言ってもらえる、そんな職業が最高だね、と教わりました。若い人たちへのアドバイスを。♥♥♥

 このスピード化、複雑化した社会の中で、今の若い人は先まで見なくちゃいかないから本当に大変だけど、必要なことでもあります。だからこそ「自分の好きじゃないことやっていっていいの?」と聞きたいですね。自分の好きでないことが、満足できるキャリアになるでしょうか?私もこの年になったからわかるけれど、一生なんてあっという間で、天から与えられたその何十年かを「いやだいやだ」と思いながら暮らすなんて、自分に対してもったいないですよ。せっかくもらった時間を無駄に過ごすことなく、やりたいことを探してほしい、自分で納得できる人生を送ってほしいと思っています

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