最近、私が勝田ケ丘志学館でよく口にする「Festīnā lentē.」は、「ゆっくり急げ」を意味するラテン語です。「フェスティナ・レンテ」と読みます。festīnā はfestīnō,-āre(急ぐ)の命令法・能動態・現在、2人称単数で、「急ぎなさい」を意味します。不定法の形(-āre)から第1変化動詞とわかります。amō,-āre(愛する)と同じ活用をします。lentē は「ゆっくりと」を意味する副詞です。全体で「ゆっくり急げ」という意味になります。少しニュアンスは異なりますが、「急がば回れ」と意訳することも可能です。ローマの初代皇帝・アウグストゥスの座右の銘であった、とローマの歴史家スエートーニウスは伝えています。アウグストゥスは、元のギリシア語σπεύδε βραδέως(スペウデ・ブラデオース)を口にしました。「Festīnā lentē.」はそのラテン語訳です。スエートニウスは、アウグストゥスの座右の銘を三つ紹介していますが、その一つ目がこの言葉のギリシア語版、二つ目もギリシア語で「大胆な指揮官より慎重な指揮官がまし」というもの、三つ目はラテン語で、「立派にできたことは十分早くできたこと」。いずれも向こう見ずを諌め、慎重さを重んじる言葉と受け取ることができるでしょう。二千年も前のひとことが、今もなお語り継がれているのは素晴らしいことだと思いませんか?
最近、この言葉が意外な形で注目を浴びました。アメリカに2度目の関税交渉に出かけた赤沢経済再生担当大臣(鳥取県選出)が、「ある自動車メーカーのトップに話を聞くと、1時間に100万ドルずつ損をしていっている状況ですと。今、輸出すればしただけ損が出ますと。ゆっくり急ぐということをやらなきゃいけないと思っています」この報告を受けて、石破茂首相は、トランプ米政権との関税交渉を巡り、「ゆっくり急ぐ」と説明しました。首相は「これは『名言』と言えば『名言』なのだが、『ゆっくり急ぐ』ということなのであって早ければ良いというものではない」などとかわしました。
私の学生時代の恩師の故・安藤貞雄(あんどうさだお)教授も、授業中によく口にされていた言葉です。急ぐのに、ゆっくりせよ、というのは一見すると矛盾していますね。初めて聞いた時には何のことかよく分かりませんでした。年を重ねた今ならその価値を実感することができます。先人たちの素晴らしい知恵です。開拓社から2021年に復刻された安藤先生の名著『【新装版】基礎と完成 新英文法』の帯には先生からのアドバイスが出ています。
Fesstina lente!(ゆっくり急げ) 英語力という建造物を構築するには、文法というしっかりした骨組みが不可欠である。ただし、本書を1回読んだくらいで完璧になるものではない。何回も反復して読んで、英文法の知識を確実なものにしていただきたい。(安藤貞雄)
この言葉は、京都大学の日本初の西洋古典学の教授だった田中秀央博士の座右の銘でもありました。恩師・ケーベル先生から授かった言葉と聞きます。あれもこれも言葉を学ぼうとしてあせっていた田中先生にケーベル先生曰く、「フェスティナ・レンテ」だぞと。かなり意訳すると「あせるな、じっくりやれ」となるかもしれません。尊敬する故・外山滋比古先生が『人生を愉しむ知的時間術~“いそがば回れの生き方論』(PHP文庫)の中で、田中博士と研究社出版部の担当者とのハガキのやり取りの中で、この「フェスティナ・レンテ」が度々登場していたことを紹介しておられます。日本で西洋古典を学ぶ人は必ずギリシア語、ラテン語をマスターしなければならず、文字通り寝食を忘れて努力しないといけないわけです。その結果、それなりの力がついても、本人としてはまだまだ何も身についていないと思い、絶望にも近い気持ちが押し寄せるものです。田中先生もそうだったのでしょうか。
「ゆっくり」とは、スピードを落とすこと。「急ぐ」とは、スピードをあげること。速くすることと、遅くすることは正反対の動きですから、一見矛盾しているように聞こえます。でも、実は、両者をうまく組み合わせるところに意味があるのです。ほどよい速さで着実に進むことで、また、途切れなく、毎日続けることでもあります。ものごとは、気持ちがあせると、身体の動きが鈍くなります。意識しすぎると、かえって、バランスがくずれてしまうのですね。長い目で見て、よりよい結果をもたらすためには、いっぺんにたくさんやろうとせずに、少しずつ、コンスタントに、進むこと。何かに到達するには、道の途中で疲れてしまわないように、自分をケアすることが必須条件になります。とは言うものの、「ほどよい速さ」とは何でしょうか?それは、何も考えなくても、いつも同じようにできるスピードのことです。つまり、いつも同じようにできる、続けられるような調子で、ということ。「いつも同じようにできる」ためには、鍛錬が要ります。
現代の私たちは、「急がなくちゃ」と思うことに慣れすぎています。問題は、急ごうとすることで、かえって、遅くなっていることに、気がつかないままでいる、ということなのです。ものごとは、いったん、slow downすることで、よりよく、習得できます。ゆっくりするには勇気がいります。自信がないと、走り出そうとする自分にブレーキをかけることは難しいのです。
世界中のことわざを集めた本を見ると、昔から、急ぎ、慌ててはいけないことに先人たちは気が付いていたことがよく分かります(下記参照)。時代と社会を超えて、その概念は世界で見事に一致しているのは驚くべきことですね。
急がばまわれ(日本)
ゆっくり行くことを怖れるな(中国)
ゆっくり行くものが遠くまで行く(イタリア)
急ぐなら、もっとゆっくりせよ(イギリス)
急いで行こうと思ったら古い道を行け(タイ)
ゆっくり行くものは確実に行く(フランス)
おそくても、ぜんぜんしないよりはよい(ドイツ)
急げば急ぐほど、まずくゆく(フランス)
外山先生の本を読むと、「田舎の学問より京の昼寝」という諺がよく出てきます。あることわざ辞典には「田舎で勉強してもたかが知れているが、都はただそこにいるだけで見聞を広める材料がたくさんあるので知識が身につくということ」などと、とんでもない間違った解釈が載っていたのですが〔笑〕、そんなつまらない意味ではなく、これは、「ゆっくり急げ」(フェスティナ・レンテ)ということと同義で、「一本調子ではなく緩急のリズムをつけることが、生活には大事である」という意味です。つまり、一心不乱に勉強する田舎「モノ」より、勉強の合間に昼寝をするゆとりがある都「ビト」のほうが、成果が出るという教訓なのです。田舎の人は純朴だから、一心不乱に他のことは一切顧みることなく学問に精進します。それに対して、都の学者は生活にリズムを持って学問をします。学問をする合間に、一休み、昼寝をするゆとりがあります。いかにも遊んでいるようですが、そういった学問の方が、学問一筋の田舎の学問よりもすぐれた成果をあげることができる、そのように解釈して初めて、このことわざのユーモアを理解することができるのです。「よく学び、よく遊べ」(←All work and no play makes Jack a dull boy.)と相通ずるところがありますね。やはり勉強一点張りではいけないことを教えています。
あの文豪・森 鷗外は、子どもに教えたと言われています。どんなに面倒なことでも、一つひとつ片付けていけば、かならず解決する。糸が絡んでなかなかほどけない時も、一挙にほどこうとしてはいけない。端の方から少しずつ少しずつほぐしていけばいい、と。ところが、たいていの人はこんぐらがった糸のかたまりを見ると、興奮してやたらなところを手当たり次第にひっぱってしまい、かえってよけいにほどけにくくしてしまいます。こういったことを、これまで人間はどれくらいしばしば経験してきたか分かりません。「フェスティナ・レンテ」は、そういったことを戒める言葉ともいえるでしょう。♥♥♥