「共通テストでも英語は絶対に裏切らない」講演会

 6月11日(水)に、鳥取県立米子東高等学校多目的ホールで三年生の皆さんに「英語は絶対に裏切らない!」講演会を行ってきました。かつて、この学校の専攻科で、三年生の皆さんに、保護者の皆さんに、そして昨年も三年生に、そして今回と五回目の登壇です。

 「こんにちわ~~!」(ギャグ)で受け、自己紹介の映像「八幡成人物語」を見てもらった後、冒頭私の恒例のマジック披露です。一人の生徒に(サクラではない)サイコロを振ってもらってその目を覚えてもらい、私が「1ですか?」「2ですか?」……「6ですか?」と聞くのに対して、全て「違います」で答えてもらいます。その1回だけのウソを見破るという演技で盛り上がりました。まぐれでないことを証明するために2回目は一切何も聞かずに頭に思い浮かべてもらい、生徒の脳の中に入り込んで完璧に当てて驚きが会場に響き渡りました。私の趣味」(hobby)「ブレインダイブ」(Brain Dive)に大きな拍手が送られました。

 今日取り上げたテーマは、大きく次の四つです。


 まず始めに、私の教えている勝田ケ丘志学館の生徒構成、年間費用、メリットを簡単に紹介しました。次に成績を伸ばすには、受験生として毎日をどのような心構えで過ごさなければいけないかを、私の松江北高時代の経験を交えていくつかのヒントをお話しさせて頂きました。今年から新しく実施された新課程の「共通テスト」の概要を振り返り、新課程の「共通テスト」では大幅な分量の増加、新傾向の問題のために、最後まで行かない生徒が全国的にものすごく多いことを紹介して、その主な原因は4つあることを、そしてそれに対処するには楽な方法などはなく、コツコツと努力を続けるしか道はないことも強調しました。問題を解いて答え合わせ、そしてまた新たな問題を解く、この繰り返しでは絶対に力はつきません。教材を使い潰す勉強が必要なのです。私は松江北高時代は単語集を7回繰り返しました。受験生が一番苦労している「単語の暗記」に関しては、音声重視、語根の活用、語呂合わせなど使えるものは全て総動員して取り組みましょう。リスニングが苦手だと相談を受けることがよくあります。苦手な人の共通点は、①語彙力不足、②聞く絶対量不足、③集中力不足の三つです。「リスニング八幡の三原則」は、①知らない単語は聞こえない!(語彙力)、②読めない単語も聞こえない!(音読)、③読めない英文も聞こえない!(スクリプトの精読)です。「共通テスト」リスニングでは、簡単な第1問~第3問で配点が58点もあるので、ここで取れるだけ稼いで、第4問~第6問は半分できればOKというのが八幡の作戦です。最後に「勉強の指針」を与えてくれる私のオススメの教材をいくつか紹介しました。講演の中で私が紹介した金言は、「英語は絶対に裏切らない」「当たり前のことをバカになってちゃんとやる」(ABC)、「微差が大差を生む」「すぐやる 必ずやる できるまでやる」「努力は夢中に勝てない」「まあいいか、その一言でもう一年」「楽すれば楽が邪魔して楽ならず、楽せぬ楽がはるか楽々」「散歩のついでに富士山に登った人はいない」

 一番盛り上がったのは、単語は丸暗記では絶対にダメで、アタマ・オナカ・シッポといった要素を意識しながら、目・耳・口・手を総動員しながら覚えるのだ、そのサンプルを『英単語はアタマ・オナカ・シッポで攻略だ!』(自費出版)で確認しようと、この本のデータが再録されたデータCD集とアクセントの法則を収録した私の著書『2019年度英語センター対策本』をセットで20人に差し上げるとして実施した「ジャンケン大会」でした(敗者復活戦までありました)。

 終わって生徒代表の女子生徒から謝辞を頂き、盛り上がった講演会を無事終了しました。当日配布した資料と共に少しでも参考にしてもらえれば嬉しく思います。熱心に聞いてくださった米子東高校の三年生の皆さん、どうもありがとうございました。お世話いただいた進路部長の長谷川先生、担当の河本砂流両先生にも厚くお礼申し上げます。

 最後に生徒たちに出した宿題をここに挙げておきます。「英語=日本語」の一対一対応が非常に危険な例です。考えてみてください。♥♥♥

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不得意と大得意

 昔、故・多湖 輝(たごあきら)先生の本を読んでいて、「不得意は、うなだれていた頭を上にあげるだけで、ただの得意ではなく大得意になる」という興味深いお話を読んだことがあります。「ああ、なるほどなあ~」と思いました。彼が言わんとするのは、不得意」大得意」は、文字の一画の違いであり、漢字「不」の字の縦の棒を、うなだれた頭と見たてて、これを「よいしょ」と上にあげれば、「大」の字になるということでした。オッ、この話は使えそうだなと思いメモしておいたのでした。

 実は、この奇妙な比喩も、心理学的に見るとあながち見当外れとも言えないところがあります。人間の心には「過補償」という作用があり、弱点を補おうとする傾向は、時にその弱点を補ったあともオーバー・フローして、飛躍的にプラスの方向へ伸びることがあるのです。この「過補償」の典型的な例としてよく挙げられるのは、ギリシアの雄弁家・デモステネスです。彼は、少年時代、極度のどもりに悩まされていましたが、このどもりを直そうと努力しているうちに、どもりが直ったばかりでなく、世間にその名を知らぬ人のない話術の大家になっていたというのです。デモステネスは紀元前384年頃のアテネに生れました。少年時代の彼はもっぱら本に親しむのを愉しみとし、体育の訓練などは別段受けていなかったといいます。薄っぺらな胸板から絞り出される声量ときたら貧弱で、かつ舌が意のままに動かず、よくどもりました・・・・。絵に描いたような青びょうたんの姿であり、ここから後年の大雄弁家たる彼の姿を想像するのはおよそ不可能でしょう。転機が訪れたのは16歳の時でした。伝承によれば彼はこの年、ふとしたことからアテネの政治家カリストラトスの弁論を聴く機会に恵まれ、彼の巧みな身振り手振りや、雄渾そのものな音声を至近距離から浴びせられたその結果、呆れるほどに魅せられて、まったく一大感動を発してしまったといいます。酒などものの数ではない陶酔が、いつまでも体腔の内側に痺れとなって残り続けました。かくの如く人心を震わせ、大衆の思想と目的とを活殺操縦する芸術を、是非とも自分も身に着けたいとデモステネスが願ったのは、必然であったことでしょう。

 そこで、あなたがもし、不得手や苦手から脱出したいのなら、常にこの「不得意こそ大得意に転じる」という心理学上の一つの真理を思い出すのも、一つの有力な自己暗示の手段になることでしょう。不断の努力の支えになるは、いつもこのような強力な精神的バックアップなのです。♥♥♥

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小林誠司の復活!嬉しい

 巨人の小林誠司捕手(こばやしせいじ、36歳)は6月29日のDeNA戦(東京D)で8番に入り、今季2度目のスタメンマスクを務めました。ベテランらしい見事な好リードで赤星、田中瑛、大勢、マルティネスの4投手を完封リレーに導きました。

 赤星投手が初回、1番・佐野にいきなり四球を与えて塁に出すと、すかさず赤星に声をかけて修正を促し、それに応えた赤星は7回途中3安打無失点と好投してキャリアハイを更新する今季6勝目(5敗)をあげました。1―0で迎えた4回には外角攻めで宮崎を空振り三振に仕留めるなど、相手打者の裏をかく好リードで、若い赤星をぐいぐい引っ張りました。「誠二さんのリードに、自信を持ってテンポを意識して投げました」「全体的にゾーン内に集められたし、勝負するってことを忘れずにいけたのでよかった」と胸を張りました。

 試合を生中継していたBS日テレで解説を務めていた元メジャーリーガーの五十嵐亮太(46歳)さんは「外をこれだけ見せてそろそろ内くるんじゃないかなっていうところで外いき続けてるとかね。そろそろ内くるんじゃないかな、また外みたいな」と話したところで、宮崎が空振り三振。「あぁ~…。味がある!味がある。味があります」と口にして、小林のリードの妙にしみじみと感じ入っていました。「やっぱりバッター心理を知っている。もちろんね、特徴をつかんでるからっていうのもあるし。これだけ外見せてたらそろそろ内くる…コントロールいいピッチャーって両サイド投げ分けがしっかりできるじゃないですか。だからこそ内がそろそろくるって思うんだけど、外いって外いってずーっと外。宮崎に関しては全球外ですからね」とうなっていました。実にベテランらしい味のあるリードでした。

 試合が早く終わったせいか、試合後にはその小林捕手が監督会見エリアに呼ばれ、異例の「勝利捕手インタビュー」が放送で流されました。見事なリードだったとインタビュアーから話を振られると、「いやもう赤星が本当に頑張ってくれました」と7回途中3安打無失点と好投してキャリアハイを更新する今季6勝目(5敗)をマークした赤星優志投手(25歳)を称えて笑みを浮かべました。そして、タイプの違う4投手をどうリードしようと考えていたのか問われると「(赤星)優志には、とにかく(DeNAは)いいバッターそろってますけど、攻める気持ちだけは持って攻めていこうというふうには言ってました」と振り返りました。小林捕手のリードに応えて4投手も好投し、随所で珍しく小林のガッツポーズも見られました。「いやもうほんと(マウンドに)上がってくるピッチャー、気持ちもこもってましたし。1―0でほんとにマウンドでとても緊張すると思うんですけど、本当に最高のパフォーマンスを出してくれたなと思いますし、自信を持って腕を振ってくれたと思いますので。僕も自然と気持ちが出ました」

 2回に飛び出した中山礼都(なかやまらいと)のライトへの〔笑〕プロ初アーチによる虎の子の1点を守り抜いての完封勝利です。しびれる展開が最後の最後まで続きましたが、「1―0っていうのはチーム力っていうか…はい。ピッチャー陣の本当に凄さだと思うので。そこは本当に自信を持ってやっていきたいと思います」と、ここでも自慢の強力投手陣を立てた36歳です。

 最後に、小林の考える“捕手の魅力”を聞かれると「いや、もう本当にピッチャーのおかげだと思ってますし。こうやって1―0で勝てたっていうことは、またバッテリーとして強くなれたと思いますし。やっぱり勝った瞬間っていうのはみんなとてもうれしいと思いますんで、次も頑張りたいなと思います」とここでも、どこまでも謙虚な小林捕手でした。

 巨人が6月18日の日本ハム戦(東京ドーム)に2―1で競り勝ち、連敗を「4」で止めたことがありました。同点の7回に飛び出した丸選手の中越え適時二塁打が決勝点となりましたが、好機を演出したのは「ピンチバンター」として役割を果たした小林誠司捕手でした。無死一塁の場面で7回1失点と好投していた西舘の打席で「代打・小林」がアナウンスされると、球場内のボルテージは最高潮に達しました。ものすごい人気です。今年の小林は出場機会に恵まれず、これが本拠地での今季初出場でした。ただ、ベンチの阿部監督から出されたサインは一貫して「犠打」で、ファウルとなってもバレバレの送りバントのジェスチャーを送られました。そして、3球目をうまく一塁側に転がして成功させると、ベンチに戻った小林ウィーラー巡回コーチと抱擁して喜びを爆発していましたね。「助演男優賞」のようないぶし銀の働きで連敗ストップに貢献しました。

 阿部監督「代打で犠打だけど(球場も)盛り上がってくれてるんでありがたいですよね。やっぱりチームの士気が上がりますよ」と感謝。小林選手はこの日が今季通算2打席目で、チーム関係者も「代打の切り札とかではないのに、小林が出てくるだけで球場の空気が一変する。今のチーム内で彼ほどのムードチェンジャーはいないし、流れを引き寄せる力を持っている」と絶讃しています。

 13日のオリックス戦(京セラ)で5回の守備から途中出場した際も、敵地ながら割れんばかりの大歓声を受けました。4回までで6失点と大乱調だった先発・赤星投手を立ち直らせ、7回まで無失点投球を引き出しました。「まだまだ若い選手に負けたくない」と奮闘するスーパーサブの力がキラリと光っていました。この光景が初のスタメンマスクを赤星投手と組むことになります。

 小林捕手は6月20日の西武戦(東京ドーム)に「8番・捕手」で先発出場し、6回に勝ち越しの適時打を放ち、ベテランの意地を見せました。この日が今季初スタメンマスクとなった小林は、先発・赤星を6回1失点と好リード。首脳陣の期待に応える働きを見せましたが、バットでも魅せました。1―1で迎えた6回二死二塁で打席を迎えると、相手先発・髙橋光の投じた初球131キロのスライダーをヒッティング。打球は左中間の前方に落ちるポテンヒットとなり、これが今季初安打&値千金の勝ち越し打となりました。塁上で笑顔を見せながら両手で力強くガッツポーズ。スタンドのジャイアンツファンからはこの日一番の割れんばかりの大歓声が飛びました。守っては、七回無死一、二塁の大ピンチの場面では、二塁走者をけん制で刺すビッグプレーも出ました。阿部監督は試合後、「(小林の活躍で)盛り上がったでしょ? たまにしか出られないのに、決めてくれるのは素晴らしい」と賛辞を惜しみませんでした。さる巨人OBがこう言っています。

 一時は正捕手まで務めた小林は、年々出場機会を失い、正捕手の座を追われて数年が経過しているが、FAで甲斐が加入した今年は、岸田、大城卓の後の第4捕手扱い。キャンプから二軍での調整を強いられ、一軍の実松バッテリーコーチは『甲斐が入ったのは球団の方針。捕手の層は厚くなったけど、誠司にも必ずチャンスがあるから腐らないでほしい。まだ衰えていないし、経験も豊富。必ず必要な時が来るから』と呼びかけていた。開幕一軍からも外れ、ようやく昇格したのが5月24日。それでも小林は腐ることなく、休日返上で練習をするなど、二軍では若手の手本になっていた。最高で1億円あった年俸も一時3,000万円まで下がった(今季は4,000万円)が、態度は全く変わらない。今の巨人の中で一番歓声が大きいのは、ファンもそういう姿勢を認めているからです。球団としても、あの人気面は捨てがたいですから。

 「世界の小林」「小林タイムリー」「小林誠司!!!!!世界のKOBAYASHI!!!!」「世界の小林が久々に凱旋」「世界の小林緊急来日!!」など、ネット上のファンも大歓喜となりました。赤星投手もヒーローインタビューで、「小林さんと組みたかった」と心情を告白していましたね。7月6日(日)にも、赤星投手小林捕手と組み、7回3分の2を1点に抑える好投を見せました。決して足は速くない小林捕手ですが、オコエのセンター前ヒットで二塁からヘッドスライディングで本塁でセーフになる活躍も見せました。

 昨年は菅野投手専任の女房役として、チームに貢献した小林捕手ですが、今年はその菅野もメジャー移籍して出番がなくなっていました。ここ最近の活躍で、今年は赤星投手とのバッテリーコンビが見られそうですね。♥♥♥

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集団の力

 私は現役の頃、「北高の強みは集団の力」ということを何度も何度も職員会議で発言してきました。個人ではできないことも集団でなら可能になる、という実例を数限りなく見てきました。当時は「受験は団体戦」という言葉をよく聞きましたが、本当にその通りだと実感しています。以前に北高を卒業した生徒が、私に次のような言葉で「共に闘う仲間」の大切さを痛感した、と寄稿してくれたことがあります。

 よく「受験は団体戦だ」と言いますが、私は浪人するまであまりピンと来ていませんでした。しかし浪人生の時はクラスメイトと相互添削をしたり、良い参考書を教え合ったり、と互いに切磋琢磨しあい、その言葉の意味がよく分かりました。共に同じ目標を持ち、足を引っ張り合うのではなく、高め合うことのできる仲間は私の宝物です。

 一人ひとりの力はそれほどではないけれども、みんなで一つの目標に向かって取り組むと、すごい力を発揮するものだとして、受験は団体戦だ」という言葉が、以前の北高の教室では飛び交っていたものです。かつて教えていた東大・理Ⅰに合格した生徒(この生徒のお母さんは私が教員1年目に担任した生徒でした)が、一人では妥協してしまうことでも、みんなで一緒にやるなら頑張りぬける。これが「受験は団体戦」の意味だと思う」と名言を残してくれました。集団(組織)の力」こそが北高パワーの源泉だということを、先輩の先生方から叩きこまれてきた八幡は、そのことを、生徒諸君・若い先生方にお伝えしておかねば、と奮闘していました。

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▲男女総合優勝を祝う「総体報告集会」

DSC03052 松江北高では、総体で男女総合優勝した時だけに、白地にスクールカラーのエンジ「疾風迅雷」(しっぷうじんらい)の横断幕を掲げます(写真上)。通常はその逆で、エンジに白字「疾風迅雷」です。私が現役の頃の北高は、「文武両道」を掲げ、勉強だけでなく部活動にも全力投球をしていました。総体が近づいてくると、学校は一週間前から全校を挙げて総体一色に染まります。文化部や部活動のない生徒達は、クラスごとに放課後各部の活動場所に行って、クラスメートを応援する「総体応援激励週間」が始まりました。そして総体本番の2日間では、授業を全部カットして松江市内で展開される大会会場に全校生徒が応援に繰り出します。この時必死に応援してもらった生徒たちは、総体後今度は文化部の活動の応援に回ります。総体が終わると、三年生は切り替えて今度は受験に向けてスタートを切るのでした。

 コロナ禍で数年間は全校で応援に出かけることが困難な時期もありました。これは仕方がありません。コロナも落ち着いた二年前に私が頭にきたのは、総体本番当日、「応援に行きたい生徒は行け、学校に残って自習したい者は学校で過ごす」などという、あり得ない中途半端な全校指示が出たことでした。何を考えているのか?そして誰もこれに声を上げる者がいない、ということにも失望したものです。北高の伝統であった「組織の力」はどこへ行ってしまったんでしょう?私は北高の弱体化の兆しが始まりかけていた現役時代に、職員会議で何度も北高の強みは「組織の力」だということを繰り返し申し上げてきました。これがなくなってしまいました。伝統として引き継がれてきた「文武両道」は口先ばかりの学校になってしまいました。総体男女総合優勝を何度も勝ち取り、連覇も成し遂げた学校です。それが、高校入試でも定員割れが続いています。以前は住所を移してでも(以前の松江市は、住んでいる場所で入学する高校が決まっていた)、北高に行って勉強も部活動も両方とも頑張りたいという中学生が多くいた学校です。国公立大学の合格者数日本一を三年連続で成し遂げた学校でもあります(3年目に甲子園出場)。実に淋しいことです。今年の総体当日2日間は、なんと学校自体が休みになったそうです。やりたい者だけがやればいいということなんでしょう。これでは学校が一丸になることも期待できません。14位→12位→5位と今年は成績が良かったと喜んでおられますが、近隣の松江東高松江南高にも負けており、何を目標にしているのかと問いたい気持ちです。

 10年前に定年退職して、よんどころない事情から、常勤講師として復帰して一人でやった仕事が、この総体の全校応援態勢を計画立案する仕事でした。実に緻密さを必要とする骨の折れる仕事です。1週間前の「応援激励週間」の全校体制計画、壮行式の計画、報告集会の計画といろいろなものが含まれています。中でも一番大変だったのは、本番当日二日間の「全校生徒応援」態勢の立案です。これが結構気を遣う大変な労力の要る仕事なんです。まず居残った全校生徒たちに、当日はどこの会場に応援に行きたいか?を第3希望までアンケート調査をして、各応援会場に振り分けます。500人以上の生徒を競技会場のキャパを勘案しながら、上手に振り分けていきます。それぞれの会場の応援場所や駐輪場地図、集合時間、会場で応援する際の注意事項などを詳細に書き入れて、各生徒たちに連絡徹底をします。当日学校に残って引率・点呼をしていただく先生方の配置計画も作成します。点呼名簿を作るだけでも一苦労です。事前に、駐輪場の手配に松江市役所に届けを出しに行ったり、実際にこの目で駐輪場所や応援会場の観覧席を確認に出向いたりして、当日の混乱が起こらないように配慮しました。当日の朝、生徒から学校に欠席連絡が入ると、会場におられる点呼担当の先生に電話連絡をします。点呼に来ていない生徒がいると連絡が入れば、自宅に確認を入れます。困ったのは自宅も出ている、しかし会場には来ていない、という行方不明の生徒が出た場合です。途中で自転車事故に逢っていた生徒もいました。サボる生徒もいます。午後、各会場から「解散点呼無事終了」の電話が入るとホッと胸をなで下ろしたものです。こうやって総体の二日間を無事に乗り切って、私の大仕事が終わったものでした。このように総体を学校全体(組織)で応援する態勢が組まれており、そしてその応援に応えて各部が頑張ってくれました。優勝する種目は少なかったものの、ベスト8、ベスト4を積み上げてダントツの男女総合得点を記録したものです。まさに「集団の力」でした。このパワーは受験に切り替わってからも十分に発揮されたのです。一斉に休みにしてしまえば、こうした面倒くさい仕事もしなくていいから楽チンということなんでしょう。しかしその苦労に見合うものははるかに大きいのだということを決して忘れてはなりません。私に言わせれば、学校が一つになる絶好の機会を自ら放棄しているのです。♥♥♥

   楽すれば 楽が邪魔して 楽ならず 楽せぬ楽が はるか楽々

 

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ぬれおはぎ

◎週末はグルメ情報!!今週はおはぎ

 JR岡山駅の新幹線の改札口を入ったところにある「おみやげ街道」で、とても美味しそうなおはぎを見つけました。「ぬれおはぎ」という商品です。神戸の帰りに絶対に買って帰ろうとチェックしておきました。最近の「朝日新聞」の調査によれば、「記憶に残る和菓子」のナンバー1は「おはぎ(ぼた餅)」だそうです。確かに子どもの頃、母親が「ぼた餅」をよく作ってくれて楽しみだったのを懐かしく覚えています。(2位はたい焼き、3位は桜餅、4位は大福)。

 テレビで紹介されたこともあるそうで、より一層人気を博したのが、広島県にお店を構えるお餅屋「河岡食品」さんのおはぎです。餅は餅屋ということもあり、餅菓子からお赤飯、一升餅まで幅広く取り扱うお店には、甘党のみなさんに捧げたいという大人気のおはぎ「ぬれおはぎ」の、岡山県バージョンを今回はご紹介します。「今あるおはぎよりおいしいおはぎを作ってみよう」というところから始まり、素材を選び直し、北海道産の小豆を丁寧に炊いて作りました。開発当初は思ったほど売れずネーミングを変えようと社内会議で「ぬれおはぎ」と決定。すると爆発的に売れ出しました。よそにない商品をと、商標もとり自信を持って心を込めて作っています。

 上から見ると圧巻です。こちらのぬれおはぎを販売しているのは「瀬戸乃屋」さんという岡山県の風土の恵みを生かした特産品などを販売なさっているブランドなのですが、広島県の河岡食品さんにお願いして、岡山県産の糯米を使用して作っていただいているのだとか!岡山県産のヒメノモチを使用し、北海道産の小豆を丁寧に炊いて作られたおはぎです。さらりとした甘みにしっとりとしたあんこがクセになります。あんこをかけることを前提とした平らな糯米。

 一般的な餡子に比べると甘めではありますが、非常にさらさらと流れるような水分量を湛えているので、いつまでも口の中に残らず思いのほかすっきり。豆の食感も適度な粒立ちを保っているのですが、蜜が染みているのでざらつきなどもありません。これは確かに、ごくりと喉を鳴らして飲めてしまいそうなあんこ。上からかけるという新しいタイプです。

▲いかにも美味しそうでしょ?

 また、岡山県産の糯米はあんこの水分量を加味しているのか若干固めに炊き上げられているのでしょうね、あんこの下に隠れている部分でもべちゃべちゃにならず、もちもちというよりはふっくらとした食感と旨味が引き立つ素朴さです。噛みしめるたびに甘味がじわじわと滲むタイプの糯米もありますが、今回はあっさりとした糯米が確かに合いますね!通常のおはぎに比べ、小豆の粒粒感、さらりとした甘み、しっとり感すべてが違います。つつむ、ではなく、かけるという新しいタイプのおはぎです。実に美味しい!お土産候補に入れてみてはいかがでしょう。

 おはぎ好きの私は最近、松江市でも美味しいおはぎを見つけました。「根っこや」の限定おはぎです。手作りの味わいを楽しむことができ好評だそうです。スーパーみしまやのみで扱う商品です。♥♥♥

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「ラーメンを食べる。」

 BS-TBSで、不定期に(ラーメン好きの私としては毎週放送して欲しいのですが)火曜日の夜11時から放送していた(最近は土曜日の5時半から)「ラーメンを食べる。」という番組にはまっていました。実にストレートなタイトルですね。昨年の9月17日から10月8日までは新作を4週連続で放送していました。「あの店のラーメンはなぜうまいのか?」との語り出しで、普段はのぞくことのできない行列必至の人気ラーメン店の日常の裏側に密着する番組です(再放送回もあります)。お店の早朝の仕込み作業から閉店時間までの営業を密着取材して、そのラーメン作りをただひたすらカメラが追いかけます。そこから見えてくる、店主の「食べる人に感動を与えたい」という一杯のラーメン作りに込める想い・こだわり・歴史を取り上げます。スープや麺や具材の魅力も存分に語られています。そして最後には、店主の想いが詰まった珠玉の一杯を、ラーメン好きのゲスト芸能人がただただ味わい尽くすという30分番組です。店主はそれを厨房からただじーっと見つめています。ラーメン好きのためのラーメン・ドキュメンタリー番組ですね。かつてBS-TBSでは、「郷愁の街角ラーメン」という番組をやっていましたから、これはきっとその後継番組なんでしょう。何よりもラーメンが大好きで、全国の名店を食べ歩いている八幡にとっては、堪らない番組です。店主の一杯のラーメンに込めた工夫やこだわりや失敗談を余すところなく伝えていて、感情移入しながら観ることのできる番組です。ぜひ東京だけでなく、全国の地方の名店にもロケを拡大してもらいたいと希望します。今までの番組はコチラのYouTubeで見ることができます。♥♥♥

 今年のお正月の1月5日(日)には、この番組の新春3時間拡大スペシャルが放送されました。2025年注目のラーメン店を、芸能人やTRYラーメン大賞審査員、料理評論家、ラーメンライター、ラーメンユーチューバーに聞きました。番組が密着したのは「麺家たいせい」「塩そば時空」「ウチデノコヅチ」「味噌っ子ふっく」「お茶の水 大勝軒」の5店舗。これらの店が提供する珠玉の一杯を食べるのは、 増田貴久(NEWS)、岡田紗佳、松村沙友理、ユンホ(ATEEZ)、菅田愛貴(超ときめき?宣伝部)の面々でした。これも面白かった。 

           ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 朗報です!!これまで不定期で放送されてきた番組が、ついに2025年4月5日(土)からレギュラー放送化されました。毎週土曜日BS-TBSで午後9時54分から10時24分までです(次週の土曜日午後5時30分から再放送)。ラーメン好きには堪らない番組です。4月12日(土)の放送では、ゲストとして元・乃木坂の生駒里奈(いこまりな)さんが家系のラーメンを美味しそうにすすっていました(⇒私が生駒里奈さんが好きな理由はコチラに書きました)。♥♥♥

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広岡達朗の人生指南書

 広島県呉市出身で、プロ野球の名選手、名指導者として活躍した広岡達朗さん(ひろおかたつろう、93歳)の最新刊『93歳まで錆(さ)びない生き方』(幻冬舎)が発売になりました。巨人OBとして、巨人軍の戦いに常に厳しい目を向けられ、辛口の評論を寄せられ、炎上することも多々あり、「老害」との批判も見られます。でも私は歯に衣着せぬ物言いがとても好きです。現役評論家の土台をなす健康と長寿の秘訣や、80年を超す野球人生で得た学びを一つひとつ丁寧に伝えています。「せっかくこの世に生まれたのだから、愚痴や文句で人生を濁さず、積極的に生きたらいい」。前書きにこう記し、人生100年時代の同世代にエールを送っています。全6章の半分近くは、健康法と自らの心の持ち方を説いています。著者が“師”と仰ぎ、野球だけでなく、生き方の土台にもなったという、中村天風藤平光一。二人の先生の教えを観念論や理想論ではなく、自らがどのように人生に実践してきたか、具体的にまとめた人生の指南書でもあります。お馴染みの辛口の批評も健在です。

 世の中全体が「今さえよければいい」「この場さえよければいい」「自分さえよければいい」という感じで、視野が極度に狭くなっています。そこはとても心配です。目先の利益に囚われたら、未来は危うくなりますから。これは天地自然の法則でしょう。プロ野球だけでなく、政治も経済界も、あらゆる世界でスケールが小さくなっているのを感じます。どうにかしないといけないと氣がかりです。

 一年前に奥様が91歳でお亡くなりになり、都内で一人暮らしをしておられます。毎日、台所に立って料理をし、かむ力が弱くなってからは食物繊維やビタミンが豊富なリンゴをジュースにして飲みます。関節を動かす体操を欠かさず、加齢に合わせて自ら、飲酒も大好きな水風呂も辞めました。2度の脳梗塞も、風邪をひいた時も、体の状態を教えてくれたものと受け止めるといいます。「食べたくない時は五臓六腑(ろっぷ)が弱っているわけだから食べない。食べたくなるまで放っておく」。現実をありのままに受け止める姿勢を貫いておられます。

 第2章の題は「野球が教えてくれた、大切なこと」。大成した指導者の原点はで育まれたと自己分析します。海軍軍人だった父に「軍艦は沈むと全員が死ぬ運命共同体。ひとりが手を抜いたり、勝手なことをしたりすれば全体に影響する」と言われた幼少時のエピソードを紹介しています。その通りに監督時代は練習から試合にまで選手に目を光らせ、自ら体を動かして手本を示してきたと振り返ります。広岡さんには「根気よく教えれば人は必ず育つ」との信念があるのです。「監督は勝つのが仕事。選手の指導はコーチに任せればいい」といった思い違いをしている指導者が多いといいます。そうではなくて、監督の大きな仕事は「選手を育てて勝つこと」「コーチを育てる」だと断言します。選手を育て、コーチを育て、チーム全体を強くするのが、監督の務めなのです。広岡さんのすごかったところは「指揮官先頭」で、自ら模範を示し絶えず氣を入れておられたことです。氣を入れるためには、監督が目を光らせておくことです。本当は監督は選手と一緒に走らなければダメなのです。広岡さんは自ら一緒に走りました。だから選手は絶対にサボることができないのです。そういえば、伝説となっている「地獄の伊東キャンプ」で、あの故・長嶋茂雄監督も選手と一緒に走ったことは有名です。試合中も監督はベンチの奥にダラッと座らずに、最前線でギロッと目を光らせておられました。相手のベンチの動きにも注視して「おまえらの動きは全部わかっているぞ」という氣を出しておられました。当時は選手たちから「管理野球」だとして嫌われ、憎まれもしましたが、後になって改めて感謝されるという「理想の指導者」です。選手の能力を引き出すために、ダメなことにはダメと言い、必要なこと、やらなければならないことはどんなことをしてもやらせる、それだけのことでした。「やるべきことをやる」ことです。その証拠に、広岡さんに指導を受けた選手たちが、どれほどたくさん監督となっているかを思い起こして下さい。一番すごいことなんですが、監督時代に指導した選手の中から、後の監督経験者を16人も輩出しているのです。田淵幸一、東尾 修、森 繁和、石毛宏典、渡部久信、工藤公康、辻 発彦、秋山幸二、伊東 勤、田辺徳雄、大久保博元、若松 勉、大矢明彦、尾花高夫、田尾安志、マニエルの16人です。これは史上空前のV9を成し遂げた川上哲治や、知将・野村克也、闘将・星野仙一ですらも成し得なかった偉大な功績でした。立派な指導者を育成することも、監督の大きな役割なんですね。

 著書にはもう二人、人生の師が登場します。巨人に入団後、知り合った思想家の中村天風と合気道の藤平光一で、その教えを旧字体の「氣」を使って表現しました。「『氣』はエネルギーが八方に広がる様子を表している。氣を出して積極的に生きるのが大切」と説きます。学びを受けて知的好奇心を持ち続けています。「93歳になっても分からないことが多い。だから人生は面白いのだと思う」と語ります。今も巨人戦を中心にテレビで公式戦を見ながら、チームや選手の動きをチェックし、新しい情報を吸収しています。長寿の秘訣を尋ねるとこう返ってきました。「何歳まで生きたいと考えることはない。世の中に必要なければ天国に召されるだろうし、必要であれば生かされるのだろう」。自らの役目として同世代へのメッセージを込めた1冊です。♥♥♥

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自分との戦い

 今は島根県の英語教員となり活躍しているHさん。彼女が大学に合格した時に、後輩諸君に残してくれた言葉です。受験は他人との戦いではなく自分との戦いです。自分に厳しくなってください。そうすればその苦しみが本番には自信となって現れてくると思うのです。そして続けて、後輩達に次のアドバイスを贈ってくれました。

①問題集は1冊か2冊に絞り、それを何度も繰り返す。

②分からない所はそのままにしないで必ず先生あるいは友人に聞く。

③理・社を疎かにしない。やればやっただけ得点が上がるからです。

④授業を大切にする。私が受けた某女子大で授業でやったのと同じ問題が出題されたのです。ごくまれにそういうこともあるので。

 実にいいことを言っています。ぜひ参考にしましょう。いつも授業で当てられて答えられないと、涙していた生徒でした。時の経つのは早いものです。以下は私のコメントです。

①最近もある県外の高校で、問題集や単語集はいろいろなものをやった方がいいですか、それとも1冊を繰り返した方がいいですか、という質問を受けました。私は「繰り返す!」と即答しました。あれやこれやに手を出してどれも中途半端で終わるというのが失敗する典型的な例です。私が松江北高でセンター試験過去最高平均点を経験したときには、単語集は7回繰り返しました。受検した模擬試験も何度も繰り返して読み込みたいですね。当時は「模試は6回見直す」と実践していました(⇒コチラです)

②私が松江北高に赴任した頃は、授業が終わって帰ろうとすると、ズラーッと質問の列ができ、次の授業に行かなければいけないので、「ごめん、休み時間にまた来て」と断ってから移動したものでした。北高勤務最後の方では、誰一人質問する人もいなくなっていました。

③特に地方の公立高校で難関大学を受ける人のネックとなるのは理科・社会の遅れです。教科書が秋にしか終わらないのですから、とうてい間に合いません。1・2年生で英・数・国を終わらせて、3年生では理・社に時間を取るように指導していました。

④現役時代は「1時間の授業を大切にしよう!」と呼びかけていました。私の経験では授業でやったものと同じ長文が、二回国立大学の二次試験に出題されました。休みの生徒が少ないクラスはやはり受験結果も良かったです。❤❤❤

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「UNバランス」

 米子帰りの電車の中で、なぜか無性に昔のアイドル・河合奈保子(かわいなおこ)さんの「UNバランス」の旋律が聞きたくなったんです。家に帰るとすぐにCDをひっぱり出してきて聴きました。14枚目のシングル曲であり、アルバム『HALF SHADOW』のA面3曲目に配されている歌です。奈保子さんはこの曲で、1983年末の「紅白歌合戦」に、3年連続で出場しています。 「エスカレーション」に続いての、ヒットメイカー売野雅勇・筒美京平コンビの作品です。オリコンでは最高位4位(100位内12週)までいき、20.1万枚を売り上げました。前作同様、大胆さを盛り込んだ歌詞ですが、「UNバランス」ではより切なさの想いを強く前面に出しているように感じます。西風=秋という売野さんの得意な表現、これは後にリリースされた売野さん作詞の「デビュー~ Fly Me To Love」でも使われています。「エスカレーション」「UNバランス」、1983年の夏、秋にリリースされた同じ楽曲提供陣の作品ですが、どちらかと言うと私は「UNバランス」の方が好みの曲です。それはやっぱりメロディの切なさでしょうか。

 私は若い頃は、キャンディーズ」の故・スーちゃんの追っかけをやっていました!握手してもらった後、一週間は手を上げてお風呂に入っていたものです〔笑〕。当時のアイドルは、歌も上手かったんですが、それに比べて最近のアイドルはさっぱりですね。河合奈保子さんは、1980年3月に「西条秀樹の妹募集オーディション決勝大会」で優勝。2万7,000人の中から選ばれたシンデレラ・ガールでした。6月に「大きな森の小さなお家」で歌手デビューを果たします。「ピアノ、ギターには自信があります。珠算2級で暗算3級、マンドリンもこなせます」と底抜けに明るい16歳でした。「ハイッ、ハイッ」と体育系のノリで、さわやかに返事をする優等生のイメージだったと記憶しています。可愛らしいアイドルなのに、かなりの歌唱力を持ち、その人柄からも当時は「癒し系」とも言われていましたね。第2弾の「ヤング・ボーイ」がヒットして、「日本レコード大賞新人賞」を受賞。その後も、「スマイルフォーミー」「エスカレーション」などのヒット曲を連発して、アイドル歌手として活躍しました。島根県・出雲市・大社町出身の竹内まりやさんに提供された楽曲「けんかをやめて」は、彼女の見事な歌唱力がいかんなく発揮された私の大好きな曲でした。河合奈保子

 奈保子さんの曲では、Aメロ→Bメロ→サビという固定パターンが多いのですが、「UNバランス」では大サビ的フレーズを明確に使った最初の作品だと思っています。まず「アンバランスという英語は無く、imbalanceである」というもっともらしいことを言う人がいますが、これは誤りです。普通に“unbalance(アンバランス)”という英単語があり、辞書にも載っています(“imbalance”という単語も存在しますが)。「UNバランス」という曲名が“unbalance” に由来することは明らかでしょう。unbalanceよりもimbalanceの方が普通と思われます(『ジーニアス英和辞典』)。

 イントロのコーラスですが、この部分、当初はシングルリリースされたものとは異なっていまして、「UNバランス ア・UNバランス…」という形でした。これは、この曲が初めて披露された1983年7月24日のバースデーライブの映像(『Naoko Premium』ボックスの特典DVD)で確認できます。この曲、実は元のタイトルは「UNBALANCE」だったのが、ある時点で「UNバランス」と変更されるのに伴って「UN」を強調して「UN UN ア・UNバランス…」という形にコーラスが変更されたのではないかと思っています。

 冒頭の「ルルルルル…」で、ヘッドボイスを使っているのが印象的です。奈保子さんのヘッドボイスは、通常のミックスボイスでの歌唱と同じ強度で発声できるのが特徴です。「ルルル…」と歌われるとなぜか秋の雰囲気が醸し出されるのは不思議なところです。この曲での奈保子さんの歌い方も「エスカレーション」と同様、テレビやライブでの歌唱に比べるとスタジオ収録版の方が細かい表情づけが目立ちます(下映像参照)。「UNバランス」のキーは「エスカレーション」と同じくDマイナー(ニ短調)なのですが、曲調は大きく異なっており、Aメロはかなり低い音域で、かつ半音階の音型が多いために音程が取りにくいメロディーではないかと思います。ライブだとハイテンションなので、低音でも張りのある歌声が聴けてそれはそれで魅力的だったのですが、スタジオ収録の方はより情感豊かに「息づかい」が感じられます。実際歌詞の中にも「息」という言葉が使われていたりもします。Bメロ冒頭では1コーラスの「恥ずかしい…」と2コーラスの「向こう見ず」で表情を大きく変えていて、奈保子さんの歌が、曲調と詞を踏まえたストレートな感情表現であることがよく窺えるポイントだと思います。

 サビでの歌詞「愛しさは淋しさの別の名前ね」は、「エスカレーション」とよく似た言葉の使い方ですが、2コーラスの「恋しさはどこかしら苦しみめいて」といった詞は、より危うい世界を感じさせる方向に向かっています。作詞をした売野雅勇さんによると、この曲や翌年の「コントロール」では精神分析的なことをやってみようという意図があったようです。途中で入る “ah” のフレーズは、テレビやライブで歌う時は “ha” で歌われることが多い印象があります。いずれにしても、「エスカレーション」で一歩新しい領域に踏み込んだ河合奈保子さんでしたが、「UNバランス」ではよりその表現を一層深化させたと言ってよいと思います。お亡くなりになった筒美さんの素敵なメロディーがしみます。♥♥♥

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コダック社の誤り

 2012年1月、写真フィルム業界のあの巨人・コダック社は連邦倒産法第11章を申請し、倒産に至ります。市場を創造し、130年もの歴史を持つグローバル大企業にしては、何ともあっけない幕切れで、このニュースは日本のビジネスマンをアッと驚かせるものでした。同社は、世界の写真フィルム産業のリーダー企業で、しばらく前までは高収益の超優良企業でした。このような会社が倒産するなどというのは、日本ではまずありえない話です。ニュースを聞いて間違いではないかと思った人も多かったに違いありません。

 40年ほど前に起きた日本の富士フイルム(小文字の「フィルム」ではなく大文字の「フイルム」であることに注意して下さい)イーストマン・コダック社が、世界の覇権を目指して競争を繰り広げていた「フィルム戦争」を思い出します。当時はフィルムカメラ全盛の時代で、両社が世界的なシェア争いを続けていました。その時、コダック富士フイルムを潰そうと政治的な圧力までかけてきました。つまり自社さえよければそれでいいという利己的な経営戦略で挑んできたのです。それに対してはっきりとした対抗措置をとれない富士フイルムを見て、多くの人は命運が尽きたのではないかと危惧しました。実は、富士フイルムコダックだけを相手に考えてはいなかったのです。もっと広い視野で、将来を見据えて自社のフィルム技術を使って世の中に役立つものはないだろうか?と研究を推し進めていたのでした。その結果、カメラ用フィルムとは全く別の化粧品や医薬品の分野に進出し、現在も着実に成長発展を続けています。もう一方のコダック社は、フィルム戦争には勝ったものの、デジタル技術の急速な進歩に乗り遅れ、フィルムカメラは大きく時代後れになり、2012年に倒産してしまいました。自社の利益だけを考え、ライバル企業を潰すことのみに執着してしまうと、視野狭窄になって失敗してしまう好例です。競争相手のみを意識しすぎると発想が狭くなり、こだわりが生まれ発展を妨げるのです。「利己」ではなく「利他」の重要性です。興味を持った私は、このコダック社について詳しく探ってみることにしました。

 コダックは、1884年にジョージ・イーストマンが創業した企業です。家計が苦しかったイーストマン一家に生まれたジョージは、14歳から保険会社で働き始め、銀行へと転職して、家計を支えます。転機が訪れたのは彼が24歳の時でした。趣味として湿板技術による大きな写真機材を持っていたジョージは、湿板技術の不便さを感じるとともに、いつでも撮影できるようになる乾板技術の可能性にいち早く気づきます。そこで、銀行に勤めながらも、その傍らで乾板のプロセス技術の開発に精を出し、3年後の1880年、ようやく乾板そのものと乾板生産技術の完成に至り、その特許を携えて銀行を退職しました。確固たる技術をベースにしたベンチャー企業の誕生でした。ついに1880年10月、ヘンリー・ストロングという人の資金援助を得て、自ら製造工場を作り、「イーストマン乾板」と命名して市場に売り出しました。便利で安いというので注文が引きも切らず、その評判はたちまち全米に行き渡って、創業一か月で4千ドルもの売り上げがあったのです。ところが、翌年の春になると、注文がばったりと止まってしまいました。どうしたのだろう?と首をかしげていると、取引先の商人が怒鳴り込んできました。 「あの乾板は、一冬越したらまるで駄目になってしまった。あんな不完全なものを押しつけては困るじやないか。おかけでこのごろは、お客様から小言や苦情ばかり持ち込まれてえらい迷惑だ」 そこでイーストマンは自分でも試してみると、まさしくその通りでした。 「これはいかん。こんな不完全なものを売っては、信用にかかかる。人間は信用が第一だ」どうすればいいかと考えて、彼はあることを決心します。そして、早速印刷物を作って、全国の取引先に送った。それには、こういう意味のことが書いてあった。 「不完全な製品のために多大なご迷惑をかけ、なんともお詫びのしようもありません。残品があったら原価で引き取りますから、全部ご返送ください。思うところがあって、一旦工場は閉鎖いたしますが、いずれ完全なる製品を作ってお目見えするつもりであります。その節には、是非倍旧のご援助をお願いいたします」 イーストマンは、返ってきた残品を片っ端から壊してしまいました。そして工場を閉鎖すると、忽然と姿を消し、イギリスに渡りました。そこでニューカッスル写真研究所の研究生として約半年間研究を積み、ついに何年経っても性能の変わらない乾板の発明に成功しました。そこでまたアメリカに舞い戻り、工場を作ります。取引先では、彼が以前、残品を引き取って木っ端微塵にしたことを知っていました。新しく売り出す以上は必ず完全なものに違いないと考え、すぐに取引を開始してくれました。かくして、イーストマンコダックは全米を征服し、ついには世界のコダックに成長したのでした。不良品を売っては信用にかかかる。だから、全てを引き取って完全に壊してしまい、完成品を作り上げて出直す、その筋道を顧客に見せることによって、イーストマンは信用を失わずに済んだのでした。「正直」という一点について教えてくれる逸話です。ちなみに、コダックという名前が社名になるのは、創業後のことです。コダックという言葉そのものに特に何か特別の意味があったわけではありません。後にジョージが語ったところによると、彼はKという文字に力強さを感じ、Kで始まりKで終わる組み合わせの中から、「KODAK」という言葉を生み出したとのことです。そして、1888年にはこのKODAKブランドを付けたカメラが売り出され、1892年には社名もイーストマン・コダックに変更されます。

 ジョージは、写真というものはプロのためだけではなく、一般の家庭に浸透するべきだ、という考えを持っていました。面倒なカメラのプロセスをもっと簡単なものにして、「カメラを鉛筆並みの便利な道具に生まれ変わらせたい」という想いを胸に、彼はいち早くフィルムビジネスの未来を読み解き、ガラス製写真感光板の製法を確立します。そして、世界で初めてロールフィルム、後にカラーフィルム(1935年)を発売するのです。当初、フィルムというものがまだ存在しなかったため、コダックはその浸透に努めました。つまり、フィルムそのものの認知を高め、より多くの人に実際に使ってもらうことが大切だったのです。そのためには、技術への投資のみならず、営業やマーケティングへの投資も必要不可欠と判断したコダックは、大々的な宣伝への投資とフィルム販売店との関係強化に努めます。特に、「あなたはシャッターを押すだけ、あとは当社にお任せください」というキャッチフレーズの広告で市場に大きなインパクトを与え、フィルムカメラがどのようなものか分からない顧客に対する認知度を大いに高めました。さらに、フィルムの浸透を図るために、価格面においては「レーザーブレード戦略」を採用しました。つまり、髭剃り本体を安く販売して替え刃で儲ける商売のように、カメラを低価格で売って、その後のフィルム販売で儲けるようにしたのです。このように時代を見極めて正しい戦略を推進した結果、コダックはフィルムの市場拡大ともに、順調に成長していったのでした。1962年には、コダックの売上は10億ドルに達します。さらに同社は、一般消費者向けにとどまらず、医療用画像やグラフィックアート向けにも領域を拡大しました。こうした製品のほとんどは、銀塩技術を使い、少しずつ改良を重ねたものでした。そして、コダックは、1976年にはアメリカ国内のフィルム市場の90%、カメラ市場の85%を占めるようになっていました。圧倒的ナンバーワンであり、コダックの技術的な強さと市場への展開スピードにより、有力な競合他社が現れることはありませんでした。そして、創業して100年が経とうとする1981年に、コダックの売上はとうとう100億ドルに達したのです。さて、問題はここからでした。

 コダックはデジタル技術にそれほど遅れていたわけではありません。実はコダックは、ソニーよりも前に1975年、世界最初のデジタルカメラの試作機を作った会社でもありました。デジタルカメラの普及版となるカシオ計算機「QV-10」が世に出たのが1995年のことですから、それより20年も前にコダックはデジタル化の流れに気づき、開発投資を行っていたのです。しかし、コダックは、それと同時並行で「フォトCD」というデジタル写真の保存用製品を商品化します。コダックは、写真ビジネスは「撮影」だけで儲けるのではなく、その後工程の「現像」「印刷」に大いなる利潤があることを長年の歴史を通じて知っていました。デジタル化の時代になったとしても、ビジネスモデル全体を押さえなければ、今まで通りの売上や利益を確保できない。そう考えて撮影だけにとどまらない技術開発を行ったのです。しかし、コダックはその後、悲劇的な結末を迎えます。結果的に、デジタルカメラにおいては1990年代後半には多くの会社が参入し、コダックは競争力を失います。そしてデジタルデータの記録媒体は独自の進化を遂げ、「フォトCD」の定着には至りませんでした。さらに既存事業であるフィルムも、残存利益の確保において富士フイルムの価格攻勢に遭い、収益力を失ったまま、デジタルカメラの浸透によって完全に道を閉ざされてしまいます。

 写真フィルムは、かつて世界でわずか4社しか製造できなかった商品です。アメリカのコダック、ドイツのアグファ、日本の富士フイルムコニカの4社の寡占市場でした。そのために、上位企業はかなりの利益を得ていました。ところが、デジタル写真技術の進歩で、銀塩式の写真フィルムの需要は縮退してしまいました。4つの企業の縮退への対応の仕方は、お国柄を反映してずいぶんと異なっていました。

 ドイツのアグファは、X線写真とその解析技術を深掘りし、プロ用の市場、医療用の市場というニッチを深く耕すことによって生き残りを図ろうとしています。このような専門市場は大きくはないものの、技術が生み出す価値に対する対価を払ってくれる市場です。規模を求めないドイツ的な対応です。日本のコニカは、写真機メーカーのミノルタと合併し、デジタルカメラや複写機など技術の幅を拡大し生き残ろうとしています。同じく富士フイルムは、もともと事業の多角化を進めてきた企業ですが、複写機、デジタルカメラ、電子部品・電子材料など、蓄積された技術の周辺で応用分野を広げる形での事業・商品の広範な多角化によって生き残りを図ろうとしているのです。それに比べると、コダックは、企業買収で事業の多角化を図りましたが、社内技術の深耕や幅の拡大にはそれほど熱心ではありませんでした。その背景には、企業の多角化に関するアメリカの投資家の否定的な態度があります。アメリカの投資家は、企業が事業を多角化しても投資効率が改善されることは少ないと考えます。多角化するぐらいならそのお金を投資家に還元すべきだと考えるのです。企業は余剰なキャッシュを持つべきではないし、事業は集中化すべきだと考えます。こうした投資家の意向を大切にしたコダックは、事業の多角化に慎重にならざるを得ませんでした。

 実はコダックは、商品化されなかったものの、1975年には世界最初のデジタルカメラを開発し、その後、世界初のデジタル一眼レフカメラを1999年に市販していました。つまり、コダックはデジタルカメラの時代潮流を完全に予測し開発を行っていたのです。しかし、デジタル化への対応にそれほど力を入れておらず、それには理由がありました。 

①好業績企業の傾向 

 デジタル写真ではそれほど利益が上がらないと考えていたからです。ここに好業績企業の陥る罠があります。 企業では、「現在フィルム事業で儲かっているのに、なぜ、利益の上がらないデジタル化の事業に手を伸ばす必要があるのか? 」 つまり、「70セントを稼ぎ出すフィルム事業を5セントしか稼ぎ出せないデジタル化事業に慌てて転換するのはベストではない!」 という考え方です。好業績企業の多くが陥り易い考え方です。その意味で、常に時代の潮流を洞察し、好調な時にこそ、変化の兆しを的確に把握する予知能力と、余裕のある時に機会を捉えて思い切ったパラダイム転換をはかることが必要になるのです。 

②イノベーターのジレンマ 

 優良企業は、既存の顧客や投資家のニーズを重視するが故に、評価がまだ未知の、リスクの大きい、効率の悪い新技術への投資に対しては消極的になりがちです。たとえ、将来的に大化けする可能性を有した技術であっても、顧客や投資家が望まない投資行動は排除する論理が優先されるのです。新技術は、当初、小規模市場から受け入れられるので、大企業や短期リターンを重視する投資家は、小規模市場が成長するまで待つことを嫌がり、そうした市場に参入したがりません。新技術が成長して既存技術を脅かす破壊的技術に変わった時、これをうまく取り込めなかった大規模な優良企業は市場から駆逐されていきます。 このような現象を「イノベーターのジレンマ」と呼びます。1990年代後半から2010年代までのデジタル技術革新に対するコダックの対応も、このような現象の典型的な例でした。 

③閉鎖的な企業環境・企業文化、自己満足の文化 

 銀塩写真の技術開発への積極的な投資、製造への厳密なアプローチ、そして、地域社会と良好な関係を維持して行きたいというコダックの願望から生じたこだわりが、自己満足を招き、コダックは閉鎖的な企業環境に陥ったと言えます。

 それに対して、富士フイルムの対応は全く異なっていました。

①時代潮流の洞察と対応 

 富士フイルムは、常に時代の潮流を洞察し、将来の姿を予測し、変化を恐れずに変化に積極的に対応して、デジタル化という時代潮流のもとでの価格競争を含む激しい企業間競争が収益性の低い厳しい闘いになることを、理解していました。デジタル化は、時代の潮流なのでこれに積極的に対応することが必須であるとの考えから、これを積極的に推進しました。

②危機意識 

 経営陣が日頃から時代潮流の洞察を的確に行っていたので、デジタル化に対しても深刻な危機意識を共有していました。デジタル化は経営方法を大きく変え、これまでの銀塩写真のような収益は上がらないことも覚悟していました。  こうした心の準備を事前に持っていたことによって、危機に際して迅速に構造改革の断行ができたと考えられます。 

③社風・企業文化 

 富士フイルムは、“ コダックに追いつき追い越すこと ”を目標に、研究開発を積極的に推進してきました。創業以来富士フイルムは、研究開発を重視するという社風・企業文化を有していました。しかし、パラダイム変換に対応するべく、1つの考え方に固執せずに、多様性を尊重し、自社の保有技術を水平展開する方向に転換しました。また、富士フイルムは、自社の成長を追求するだけではなく、一企業の範囲を超えて写真文化を大切にするという文化的価値観も持っています。東日本大震災で流失・損傷した被災者の写真を再生する活動を通じて、被災者に寄り添い彼らの苦痛を和らげ、歴史の記録を後世に残すという写真文化の重要性を改めて再確認しています。  

④企業ビジョン 

 経営トップが企業ビジョンを明確にし、機会を捉えて内外に明示しました。「21世紀を通じてリーディングカンパニーとして生き続ける」という富士フイルムの将来ビジョンを明示し、「Vision75」でその基本方針を内外に示しました。それを既存技術の棚卸しの実施と事業ドメインの構築でさらに具体化させました。 経営危機に陥っている他の企業の構造改革の発表内容を見ていると、「自分の会社がどのような方向に進もうとしているか」のビジョンが全く示されずに、目先の短期的な目標達成に目を奪われている場合が少なくないと言えます。変化の時代に、自社の経営資源を活用してどのような経営を目指そうとしているかのビジョンを示すことが極めて重要だと言えるでしょう。

 以上のことから、両社のデジタル化への対応には、大きな差が生まれました。コダック富士フイルムの対応の違いには、変化への洞察力と基本的姿勢の違いが大きく影響していたと考えられます。デジタル化が時代の潮流になることは両企業とも認識していましたが、そのインパクトを楽観的に受け止めるか、悲観的に受け止めるかで、危機意識の違いになって現れています。この違いの背景には、自企業の強みと弱み、企業文化・企業風土が大きく影響していると考えられます。自企業の強みと弱みについて、コダックは銀塩写真で技術的にも経営的にも世界一のゆるぎない地位を確立していたので、技術的にも経営上何ら問題はないと考えたのでしょう。コダックにとっては、現状維持こそが重要な戦略であり、変化に対する姿勢としては、当然、消極的・否定的でした。 一方、「コダックに追いつき追い越せ」を目標にしていた富士フイルムは、現状維持ではいつまでも世界 No.2の地位を打破できないと考えていました。研究開発力、経営力を高めて世界に打って出るためには、変化を自ら起こす必要があるから、変化に対して肯定的、むしろ、変化を積極的に追求する必要がありました。コダックと異なり、富士フイルムはデジタル化のインパクトを深刻に受け止めていましたが、これに前向き・積極的に対応することが必要であるとも考えていました。その結果、富士フイルムは、破壊的技術の到来をバネに関連事業への多角化を進め、複写機、デジタルカメラ、電子部品・電子材料など、蓄積された技術の周辺で応用分野を広げる形での事業・商品の広範な多角化展開によって生き残りに成功しました。現在、富士フイルムでは、主力のフィルム事業からは脱却して、医薬品、化粧品やサプリメント、医療機器、再生医療、バイオ医薬品開発を主事業としています。一方のコダックは、企業買収という形で事業の多角化を図りましたが、社内技術の深耕や幅の拡大にはそれほど熱心ではなく、機動的で大胆な経営を避けました。その結果、倒産という結末に陥ったのです。つまり、この両者の経営姿勢の差が、会社の破綻と成長の命運を分けたと言えましょう。

 このような先人たちのジレンマを知っておくだけでも、物事を客観的に考えるきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。以上、一度大成功を収めた企業が、重要な戦略変換のタイミングで二の足を踏んで変わることができずに倒産してしまったパターンとして、コダックの例を紹介しました。♥♥♥

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