『正しすぎた人』を読む

 私は私の信念にのっとって監督を務めてきた。その点については何ひとつやましいことはない。カンニングをしてまでテストに合格したいとは思わない。そんな消極的な思いは、できるだけ心から遠ざけて生きてきたのだから。

 健全な肉体に健全な精神が宿るんじゃないんだ。健全な精神が健全な肉体を作るんだ。心の持ち方が、肉体にいろいろな影響を及ぼすんだ。肉体だけじゃないよ、その人の運命にも影響を与えるんだよ。だから人間は、どんなときでも心は断固として積極的な状態にしておかねければいけない。ズルいことをしたり、ラクをしたりしてはいけないんだ。

 プロは結果がすべての世界だよ。そんなことは私もよくわかっている。しかし、だからと言って、何をやってもいいというわけではない。正しいことを、正しい方法で取り組まなければいけない。正しくないことをやって手にした結果をほしいとは私は思わない。   (広岡達朗)

 広岡さんほど評価の分かれる監督も珍しいと思います。伊東 勤(いとうつとむ)さんの『黄金時代の作り方 あの頃の西武はなぜ強かったのか』(ワニブックスPLUS新書、2025年2月)とには、広岡達朗監督には感謝しきりであることを明言しておられました。

 唐突ではありますが、あらかじめ言っておきますと、これから西武ライオンズ黄全期を築いた広岡達朗監督の管理野球についていろいろと綴る中で、何か広岡さんに対して否定的な印象を持たれるかもしれません。
 でも、私は本当に広岡さんには感謝しております。若いうちに体づくりの基本を叩き込んでくれたこと、レベルの高い野球を目指すために必要な練習を教えてくれたこと、これらは、私がその後の長い間、野球選手として、また野球指導者、そして解説者として生きていく上で、大いに役に立ちました。
 そして、強いチームで野球ができたことで得られたものは私の財産になっています。そのことだけははっきり書いておきます。

 西武の教え子の石毛宏典(いしげひろのり)さんも証言しています。「今の野球界を見ても、アマチュアからプロまでの野球観の向上っていうのかな、日本の 野球観をレベルアップさせたのは、僕は広岡達朗と思ってますけどね 石毛さんはそう断言して、広岡野球を高く評価しておられます。

 実働29年間もプロの世界で活躍された工藤公康さんも数々の著書の中で、広岡さんに非常に感謝していることを書いておられました。最新刊の『工藤メモ』(日本実業出版社、2025年)の中でも、「私がプロ野球選手となり、当時の監督だった広岡達朗さんから「基本は“体で覚える”もの」だと教わりました。体で覚えるには、徹底してその動きを反復練習するしかありません。キャンプでは明けても暮れても基本の練習ばかりで「こんな基本練習ばかりして意味あるの?」と若かった私は思ったりもしましたが、今となっては「あの頃に体で覚えた基本があるから、プロで長くやることができた」と理解しています。広岡さんには本当に感謝しかありません。」と述べておられました。

 かと思うと、徳光和夫さんが司会をする「プロ野球レジェン堂」の中で、東尾 修さんなどは広岡さんのことはボロクソです。徹底した管理野球の冷酷な絶対権力者というイメージです。1985年の日本シリーズ終了後、選手全員で治療を兼ねた1泊の伊香保温泉旅行に出かけたバスの車中に「広岡監督は今年いっぱいでユニホームを脱ぐことになりました」と連絡が入った時に、みんながワーッて大歓声を上げて、さらに万歳三唱した想い出を語っておられました。あの大投手・江夏 豊さんも酷評しておられます。『これが、言いたいことのありったけ』(昭和59年、徳間書店)の言葉です。

 広岡さんほど勝つことに貪欲な人はいない。ワシが広岡さんに一つの思いを寄せたのも、その勝つ姿勢にだった。その監督がその姿勢を捨てた時、ワシに疑問が起こってきたのだ。   
 勝つ意欲を失った監督の、次にやろうとしていることに選手は信じてついていけるものではない。ワシらは勝つために集まった集団なのだから。
 だから、ワシは監督批判をした。チームは勝つことを目的とした集団だ。その目的がうまくいかないからといって、何の説明もなく、若手にきりかえられたのでは、ベテランたちはたまったものではない。
 あの人は選手たちをボロクソにいう。しかし、選手には妻がいるし、子供がいる。学校で父親がバカ呼ばわりされている時の子供の気持ちを考えたことがあるのだろうか。自分が批判されることには敏感なくせに、他人のことに鈍感なのは、やはり選手の気持ちを理解できない人というしかあるまい。
 指揮官というものは、所詮そういうものかもしれない。しかし、人間関係に血が通っていなければ、いずれそれは破綻を招く。

 ワシはワシの野球でこれまで生きてきたのだし、広岡管理野球はそういうワシを無視しただけなのだ。ただ、ワシが思っていた大監督像とは少し違っていただけなのだ。
 ワシにいわせれば、広岡監督は優秀な側近と強大な組織のバックアップにのった単なる監督でしかなかっただけだ。それまでのワシの広岡監督に対する思い入れが大きかっただけに、底が見えた広岡管理野球とギャップがありすぎたのだ。だから、いついや気がさしたとか、何を機会にといわれでも、メサ、春野のキャンプ、シしスンに入って五月上旬までに、ワシなりに見させていただいた名監督に対して、少しずつ失望と無念さがふくらんでいったといっていい。

      

 「広岡さん、老害という言葉をご存じですか?」――「あぁ、知っているよ、私のような人間のことを言うんだろ?」3年におよぶ取材で明らかになった広岡達朗の栄光と落日。93歳の広岡達朗は何を語るのか――?1978年、ヤクルトスワローズを球団史上初の日本一に導いた広岡達朗。苛烈な「管理野球」で知られる名将は、弱小球団だったスワローズをどう改革し、ライバル巨人や球界最強と称された阪急をも打ち倒す“戦う集団”へと変貌させたのか。そして日本一の翌年、なぜスワローズは崩壊し、広岡は球団を去ることになったのか?ここら辺が全て明かされます。己が信じる正しさを貫き通し、球界に多くの敵を作った広岡とは、いったい何者だったのか?ときに「冷徹な監督」と批判され、現在ではそのコメントがウェブで炎上して「老害」と揶揄されることもある広岡の知られざる素顔とは?93歳になった今、広岡はどのように生き、死のうとしているのか。高齢の広岡への取材を続けるうちに筆者が抱く焦燥感や哀しみも、生々しく記録しました。

 広岡達朗本人をはじめ、スワローズOBの若松勉松岡弘大矢明彦八重樫幸雄杉浦享伊勢孝夫水谷新太郎、日本シリーズで対戦した阪急OBの福本豊山田久志、巨人での後輩にあたる王貞治、そして広岡の長女・祥子さんなど、多くの関係者にインタビューを実施してまとめられた本です。広岡さんは「あんなヤツ(=野村克也)と一緒にしてもらったら困る」と全く評価しておられないのですが、後に同じヤクルトの監督になり黄金時代を築いた野村克也さんは、こんな言葉を語っていました。「金を残すは三流、仕事を残すは二流、人を残すは一流。」若松、松岡、水谷、八重樫...と、たくさんの人を残した広岡さんもやはり一流の人でしょう。当時は選手からいくら煙たがられていても、後になって改めて感謝されるというのが理想の指導者でしょう。その証拠に、広岡さんに指導を受けた選手たちが、どれほどたくさん監督となっているかを思い起こして下さい。一番すごいことなんですが、監督時代に指導した選手の中から、後の監督経験者を16人も輩出しているのです。田淵幸一、東尾 修、森 繁和、石毛宏典、渡部久信、工藤公康、辻 発彦、秋山幸二、伊東 勤、田辺徳雄、大久保博元、若松 勉、大矢明彦、尾花高夫、田尾安志、マニエルの16人です。これは史上空前のV9を成し遂げた川上哲治や、知将・野村克也、闘将・星野仙一ですらも成し得なかった偉大な功績です。立派な指導者を育成することも、監督の大きな役割なんです。

インタビューを終えると、広岡さんはいつも決まって同じことを口にしたといいます。「わからないことがあれば、いつでも電話してきなさい。人間はいくつになっても勉強だよ。一生かけて勉強しなさい」 一生かけて勉強を続けている広岡さんの言葉を聞くたびに背筋が伸びる思いがする、と言います。そして、その言葉はどんな時も心地よく耳に飛び込んでくるのです。「人生はいくつになっても勉強だよ」         

 執筆のきっかけは、「90代を迎えた広岡達朗の今を描きたい」という思いでした。1978年、それまで優勝とは無縁だったヤクルトスワローズを、球団創設初となる優勝、日本一に導いた、当時46歳の広岡さんは「名将」と称されました。そして、90代を迎えた今、歯に衣着せぬ彼の発言はしばしば炎上し、「老害」と呼ばれることもあります。「名将と老害」という毀誉褒貶を併せ持つ広岡さんに「ぜひ話を聞きたい」というところから本書は始まりました。3年にわたる広岡さん本人へのロングインタビューはもちろん、1978年のスワローズナイン、そして愛娘の証言を加え、「46歳の広岡、93歳の広岡」を描く試みは、実に刺激的なものでした。1978年の広岡さんがスワローズにもたらしたもの、そして、一般的に「管理野球」と称される彼のマネジメント術は、およそ半世紀が経過する今も新鮮なものでした。そのことは教え子たちの多くが「反発」から始まった指揮官への思いが、次第に「感謝」に変わり、「心酔」へと変化していった姿に見ることができます。一方で、卒寿を過ぎた広岡さんの姿からは、「人が老いていくこと、そして死を迎えること」を否応なく意識させらたと言います。長きにわたって、「広岡達朗」という傑物に話を聞き続けた結晶がこの本です。

 こちらの「問い」が、なかなか伝わりません。通じたとしても、全くちぐはぐな「答え」が返ってくることも多かったと言います。高齢者への取材においては珍しくないことではあるものの、あまりにもその状態が多くなってきました。「問い」と「答え」が噛み合わない取材が続きましたが、それでも辛抱強く質問を重ねていると、あっと驚くようなエピソードが披瀝されたり、当時の心境と現在の心境を客観的に比較した冷静な発言が飛び出したり、ライター冥利に尽きる問答が実現することもありました。それは決して「たびたび」ではなく、「ごく稀に」ではありました。当初は「1978年の広岡達朗」について話を聞いていたものの、気がつけば「2025年の広岡達朗」と対峙する時間が増えていきます。93歳となった彼の口からは意外な言葉が多く聞かれました。「これまでの人生の反省」であり、「老いること、死ぬことへの率直な思い」であり、つまりは「人間・広岡達朗」のリアルな姿でした。こうした話を聞いているうちに、「現在のこの姿をありのままに描きたい」という思いは、ますます強くなっていきました。そして、出た結論が「1978年と2025年、2人の広岡達朗を描こう」というものでした。そうと決めたものの、ずっと「本当にこれでいいのだろうか?」「今ならまだ引き返せるのでは……」と、書き終わるまでずっと悩み通しの日々が続きました。いや、『正しすぎた人』が出版された後でもその思いは続いており、「本当にこれでよかったのだろうか?」という思いは今も消えていません。結果的に、「1978年、46歳の広岡達朗」と、「2025年、93歳の広岡達朗」について、行きつ戻りつしながら両者を描くことにしました。およそ50年前、広岡さんはスワローズを球団創設初となるリーグ制覇、日本一に導きました。その指導の根底にあったのは、「正しいことを正しい方法で続けていれば、必ず望んだ結果が出る」という広岡さんの信念でした。そして、その信念は93歳となった今でも全く変わっていません。広岡さんが自分を律する際に用いる指針は「それは本当に正しいのか、正しくないのか?」という問いかけです。本書には、2人の広岡達朗が描かれています。すなわち、「1978年、46歳」「2025年、93歳」広岡さんです。人は誰でも老いていきます。それに伴って、大切な何かを失うと同時に、新たな何かを得ていきます。広岡さんとのやり取りを通じ、その姿を見ながら、その言葉を聞きながら、著者はそんなことを学んでいました。

 広岡さんは本当に厳しい人。そして決して信念を曲げない人。それは現役時代から一貫してそうだし、90代を迎えた今でもそうです。ヤクルトになる以前は、国鉄だったり、サンケイだったり、親会社がいろいろ替わりました。ヤクルトになってから数年の間は若々しい選手が多かったけど、まだまだ緻密さには欠けていた。親会社がバタバタしていたら、戦力補強も含めて地に足がついた野球は難しいものです。でも、そんなヤクルトのイメージを変えたのが広岡さんだったと思います。

 一言で言えば、“何事も徹底する”ということですね。攻撃なら攻撃、守備なら守備、走塁なら走塁と、とにかく徹底していました。選手たちはそれぞれの考えを持っているものです。でも、広岡さんが監督になってからは、“こうやって戦うんだ”という方針が浸透していたと思います。それはジャイアンツから見ていても感じましたよ。チームの方向性というものが明確になった気がしましたから。

 先輩としてはすごく優しいけれど、プロとしては本当に厳しい人です。今の野球界には広岡さんのような厳しい人はいません。正しいと思えば、その人のためには耳の痛いことでも平気で発言することができる。最近では、そこまで真剣にアドバイスをしてくれる人はいません。我々にとっても本当に貴重な存在です。   (王 貞治)

 王 貞治さんの広岡達朗観が出てきますが(上揭)、まさに広岡達朗の実像そのものをズバリ指摘した言葉でした。また広岡さんは色紙にこう書かれます。

稽古とは一から
習い 十を知り
十より かえる
元の その一   (広岡達朗)

 これは千利休の言葉だそうですが、終生勉強を続けられる広岡さんの姿勢をよく表した言葉だと感じます。いいのはいい。悪いものは悪い。ダメなものはダメ。広岡さんは是々非々の人なのです。最後に、意外な言葉が告白されました。「“やるべきことをやれ”というのは常に言っていた。でも“なぜやるのか”は足りなかった。今ならば、そんな反省がある」 ヤクルトの時も、西武の監督時も優勝(→日本一)させながら、どちらでも選手・幹部から反感を買い、辞めていかざるを得なかったのはこんなところに原因があったのかもしれないなと感じました。♥♥♥

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「オーベルジーヌ」

◎週末はグルメ情報!!今週はカレー

 2024年に、「第1回 日本ロケ弁大賞」「大賞」を受賞した「オーベルジーヌ」のカレー。30年以上にもわたって「オーベルジーヌらしさ」を追求し続けてきた欧風カレーは、テレビ業界を中心に数々の著名人から愛されている逸品です。同店は1987年創業で、テレビ局のケータリング弁当としても有名です。「オーベルジーヌのロケ弁が現場にあると、その番組は高視聴率!」などとささやかれるほど、芸能界では「芸能人御用達」と言われるくらい人気のお店です。これまで300回以上メディアで紹介され人気店となった今でも、社長自ら厨房に立って、仕込みや調理を行っているという「オーベルジーヌ」。ロケ弁のお店です(2024年12月より創業した四谷の店舗から、新宿御苑の目の前に移転しました)。この欧風カレーを提供する宅配専門のお店「オーベルジーヌ」のビーフカレーを再現したレトルトカレーを見つけてきました。

▲米子「天満屋」の「カレースクランブル」会場にて

 大量の国産牛肉と香味野菜で出汁を取ったビーフブイヨン。国産玉ねぎを72時間ぐつぐつ煮込み甘味を最大限に引き出し作る玉ねぎブイヨン、玉ねぎペースト。上質のバターと乳脂肪分が高い濃厚な生クリーム。そして24種類のスパイスを絶妙なバランスで混ぜ合わせ、継ぎ足しを繰り返し深みあるカレーに仕上げています。レトルトカレーは全て中辛口のみとなります。じっくり煮込んだたまねぎの甘み。バターと生クリームの濃厚なカレーソース。ゴロゴロの国産牛肉をじっくり煮込んだ、王道欧風カレーを堪能することができます。

 そんな有名店の味が、レトルトカレーで手軽に楽しむことができます。他のレトルトカレーと比較すると、多少お値段は張りますが、十分元は取れる商品です。米子天満屋1階で開催されていた「カレースクランブル」の会場で見つけてきました(ランキングで第2位とランクされていました)。じっくりと煮込んだ玉ねぎの甘み、全体をやさしく包み込むバターと生クリームのハーモニー、じわじわと感じるスパイスと素材の旨みを堪能できるレトルトカレーです。お皿に盛り付けていてまず驚いたのは、ルーの量と、お肉の大きさ!香りでは、スパイスはあまり感じられませんが……。ドキドキしながら早速ひとくち食べてみます。想像していた味とは全然違い、思わず「甘い……」と声に出してしまいました。想像以上に濃厚な甘みで、バターと生クリームのコクもたっぷりです。「ふーーん、意外にもこの甘さがウケているのか?」なんて思っていると、スパイスの辛さがじわじわと舌を刺激してきました!食べた瞬間の味と、後から押し寄せる味が異なり、一つで2種類のカレーを味わっているような感覚になってきます。スプーンに乗せるのもギリギリなくらい大きい牛肉は、肉厚で食べ応え十分です。まろやかなルーとしっかり絡めて食べると、レトルトとは思えないリッチな味わいになりますよ。これは、絶対ハマると確信してしまうほど贅沢なカレーでした。芸能人がこぞって絶賛するのも納得ですね。店舗のカレーを食べたことはありませんが、これほど幸福感で満たされるのなら、再現度は高いはずです。私は甘めのカレーがあまり好きではないのですが、「オーベルジーヌ」の甘みのトリコになってしまいました。もうひとくち、あとひとくちと、あっという間に完食してしまいましたよ。さまざまなレトルトカレーを食べてきましたが、これは初体験の味。みなさんも衝撃を受けること間違いなしです!

    食べてみてまず驚いたのは、その甘味です。このような甘いカレーは初めて食べました。これがじっくりと煮込んだ玉ネギの甘味なんでしょうね。大量の牛肉と香味野菜で出汁を取ったビーフブイヨン。国産玉ねぎを72時間煮込み甘味を最大限に引き出し作る玉ねぎブイヨン、玉ねぎペースト。上質のバターと乳脂肪分が高い濃厚な生クリーム。そして24種類のスパイスを絶妙なバランスで混ぜ合わせ、継ぎ足しを繰り返す深みあるカレーに仕上げます。でもその甘さが結構クセになりそうな甘さなんです。そして中にゴロゴロと入っている牛肉の塊の量に驚かされます。じっくりと3日間煮込んだ玉ねぎの甘味、やさしく包み込むような上質なバターと生クリームのハーモニーを感じます。そしてじわじわとこみ上げてくるスパイスと素材の旨味。こだわり抜いた素材と手間ひまかけた仕込みが自慢のカレーを再現しています。♥♥♥

▲牛肉のかたまりがゴロゴロ入っていて美味しい

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「ヨストの法則」

 「ヨストの法則」とは、「顧客を獲得するために同じ人に対して何回もアタックする場合、一番好印象を与えるパターンは毎日のように自分たちのことの情報をお知らせする」という法則です。ちょっと分かりにくいですね。例を挙げてみましょう。

◎1日に20回、お客様のところへ訪問する

◎2日間で10回、お客様のところへ訪問する

◎10日間で2回、お客様のところへ訪問する

◎20日間で毎日1回、お客様のところへ訪問する

 この中で一番好印象を与えることができるのは、「20日間で毎日1回、お客様のところへ訪問する」ですよっていう法則です。大事なのは、人の心理として毎日見ている顔だと親しみを持ってくれるので買ってくれる確率が上昇するということです。1日に何回も営業に来られると「うぜー」ってなるので嫌われるということです。なるほど、それじゃぁ弁当屋さんとかはこの法則をどうやって使うのかというところを考えてみましょう。

 「売るから売れなくなる」のです。毎日コツコツ営業に行ったとするじゃないですか。でも、営業でとれない人いるじゃないですか。そういう人はたぶん「売っている」からだと思います。これは絶対に顧客の立場からすると「売られる」「買いたくない」という心理になるんです。だってうざいじゃないですか、セールスって。私はいまだにスマホを持たずにガラケーを使っているんですが、最近毎日何度も何度も携帯会社から3月いっぱいで使えなくなるから早く換えろ、とメールや電話がかかってきます。あまりにもしつこいんです。言われれば言われるほど意地になって無視しています。現実も同じで、弁当屋が弁当を買って欲しくて弁当をしつこく売ると売れません。だから、売るんじゃなくて「会いに行く」程度でいいんですよね。実際、会いに行って「こんにちは~」って。で、昨日の巨人戦とか良かったですね~とか共通の話題を話せばいいんですよ。で、「君何しに来たの?」って聞かれたら「昼食をデリバリーやってるんですよ~」って言えば、「じゃぁ今度買うわ~」って自然な流れができるわけです。まず知ってもらって、「こういう店あるんだ」って知ってもらって、会話して、もっと知ってもらって。大事なことは、共通の話題を見つけることなので、飛び込み営業した瞬間に相手のことを観察したり質問したりで話題見つけるのがコツかもしれません。で、売らないで会話するだけ。で、○○弁当の○○さんっていう事を知ってもらえばOKなのです。いつかは買ってくれるし、弁当なんて単価が高いものではないので売りやすいと思いますよ。

 私は出版社・教育産業の営業の人によく話すんですが、まずは顔見知りになって、先生の喜ぶ情報を届けて人間関係を作りなさい、と。かつて数研出版の伝説の営業・荒田さんはラーメン好きの私のためにわざわざ広島市の老舗有名店「つばめ」「すずめ」の地図を描いて持ってきてくださいました。毎月顔をのぞかせて、他校の先生方からのメッセージを届けて下さる担当者もおられました。こういった人間関係ができると、来校されるのを心待ちにするようになるんです。また松江北高時代に、毎日「○○印刷でございます。よろしくお願いします」とだけ言って帰って行かれる印刷屋さんの営業の方がおられました。毎日これだけです。すると試しに一回ぐらい注文してみようか、という気になってきます。使ってみたら安くて、品質がいい。これで常連になるのです。

 会う時間より、会う回数を多くする。得意先まわりの営業は、とにかくこまめに顔を出してなじむのがコツと言われています。ちょっと近くに来たついでに、と繰り返し顔を出すことが、相手客の心をつかむのだ。というのも、こうした親しみや慣れというのは、心理的には「学習」と同じと考えられますが、学習は一般に集中学習よりも分散学習のほうが効果を上げるからです。これは「ヨストの法則」と呼ばれるもので、たとえば12時間の勉強をする場合、一日2時間を6日間続けるほうが、徹夜で12時間がんばるよりもあとまで残る学習になるわけです「ヨストの法則(Yost’s Law)」は、心理学における記憶と学習に関する法則で、1897年にアドルフ・ヨスト(Adolph Yost)によって提唱されました。自動車教習所で、一日に受けられる教習時間か定まっていて、それ以上受けさせてくれないのも、一つにはこの分散学習の効果を狙っているとも考えられます。

 人間関係で、相手に親しみを持ってもらうことは、自分の印象をよくする基本です。その場合にも、分散して印象づけることによって、トータルでは相手に強い印象
を与えると言えます。「あの人とはどんな関係ですか」と問われて、「一度会ったことがあります」と「たまに会います」では違うし、「よく会います」ではさらに大きく違う。そんな表現の中にも、会う回数と親しみの度合いが比例していることが分かりになるでしょう。

 試験のための勉強をする時、あるいは何かの知識を身に付けようとする時、ずっと続けて勉強するよりも、こまめに休憩を挟んだほうが記憶が定着しやすくなります。心理学ではこれを、「ヨストの法則」といいます。つまり、同じ勉強を3時間行うのであれば、3時間ぶっ通しで行うよりも。1時間×3回に分けるほうが、記憶の定着率がいいのです。

「よし、今から3時間勉強するぞ」
「今日は絶対に10時間勉強するぞ」

このように意気込んでから勉強を始める人も少なくないと思います。しかし、休憩はただサボっているのではなく、記憶の定着には不可欠です。このことを理解し、ぜひ上手に休憩を入れるといいと思います。

 新しい情報を連続して覚えていこうとするときには、「20分集中、10分休憩」という学習法が、もっとも効率がいいそうです。実は、これも心理学者のヨストが唱えている説です。「30分のうち10分も休憩するの?」「時間がもったいない!」このように思う人もいると思いますので、なぜ同じ内容をぶっ続けで勉強すると勉強効率が下がるのかをみてみましょう。

 いきなりですが、次の単語を10秒間で覚え、10秒間が経ったらメモ用紙に書き出してみて下さい。捕鯨、読書、自動車、習慣、社会、冷水、時計、階段、校内、冷蔵庫、渋谷駅。いかがでしたでしょうか。『捕鯨』や『読書』、あるいは『冷蔵庫』、『渋谷駅』はきちんと覚えていても、『社会』や『冷水』『時計』は記憶が曖昧だったではないでしょうか。このように並んだ単語を一気に覚えようとすると、たいていの人は、『捕鯨』と『渋谷駅』をよく覚えますが、『冷水』『時計』などの真ん中に出てきた単語は忘れてしまいます。なぜなら、最初と最後の情報が記憶に残りやすいからです。このことは感覚的にも理解できることと思います。

  • 初恋の人は忘れられない

  • ドラマの1話目や最終回は覚えているけど、間の回はほとんど覚えていない

  • 最初に自己紹介した人は覚えているけど、3,4番目に自己紹介した人のことは覚えていない

これらの例も、最初と最後の情報が記憶に残りやすいことと関係があります。これは、時間でも同じなのです。3時間も続けて勉強すると、最初の30分や最後の30分の勉強は鮮明に覚えているかもしれませんが、間の1時間の勉強はすっぽり抜け落ちてしまうかもしれません。「20分勉強→10分休憩」を続けると、休憩の間に記憶が定着されやすくなり、記憶の抜け落ちが少なくなるのです。♥♥♥

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山中伸弥先生の母の教え

 何度も帰還が危ぶまれた「はやぶさ」の7年振りの帰還で注目された宇宙航空研究開発機構シニアフェロー川口淳一郎先生と、ノーベル賞を受賞された京都大学iPS細胞研究所所長山中伸弥先生の対談本『夢を実現する方法』(致知出版、2013年)を面白く読ませていただきました。

 その山中先生に、今も生きる毋の教えがあるとしてこんなことを書いておられました。先生は今も細身ですが、子供の頃はもっと細く、病弱だったそうです。中学校が始まった途端に二日も三日も休むようではやっていかれないと、お父さんは心配されたようで、クラブ活動で柔道を習うように言われて、柔道部に入部しました。中高一貫システムで、入学したばかりの中学一年生がいきなり高校三年生と稽古をさせられたりもしました。しかし結果的にはそのおかげで随分強くなることもできました。一方で怪我も多く、畳と畳の問に足が挟まって指の骨を折ったり、足首を捻挫したりしています。年中、整形外科医のお世話になっていましたが、後年、先生が整形外科医を目指されたのもこの頃の経験と無縁ではありませんでした。

 この頃、特に忘れられない思い出で、教育大学の学生さんが教育実習に来た時のことです。彼は柔道三役という腕前でした。その人と練習で組み合うと、いとも簡単に投げられる。受け身を取って一本にされるのは悔しいので、先生はちゃんと受け身を取らずに最後まで粘り、変な手の付き方をしてしまいました。そのために、腕がボキッと折れてしまったのです。実習の先生としてみれば、大変なことです。部活動をしている最中に、生徒の腕を自分のせいで折ってしまったのですから。その日の夜、慌てたように先生から電話がありました。電話を取ったのはお母さんですが、そばで聞いていると、先生は受話器の向こう側で平謝りをしている様子でした。しかしお母さんはその時、こう答えたのです。「いやいや先生、気にしないでください。うちの息子の転び方が悪かったんだと思います。怪我したのはうちの息子のせいです。明日からも気にせず、いろんな子を投げ飛ばしてください」その時の態度は、わが親ながら立派だと感じたといいます。母親からはあまり教えられたことはありませんが、その出来事以来、先生はいつも次のことを心掛けるようにしておられます。何か悪いことが起こった時は「身から出たサビ」。つまり自分のせいだと考える。先生に投げられた時、自分がちゃんと受け身さえしておけば怪我をしなかった。そのために三か月ほど柔道ができなくなりましたが、それも身から出たサビなのだと。逆に、いいことが起こった時は「おかげさま」と思う。確かに、自分が努力をしたためにうまくいくことはありますが、実はその割合は少なくて、周りの人の助けがあって初めて物事はうまくいくもなのだと思います。つまり、先生がお母さんから学んだことは、「何か悪いことが起こった時は「身から出たサビ」。つまり自分のせいだと考える。逆に、いいことが起こった時は「おかげさま」と思う。」ということです。

 成功する人と、失敗する人の一番大きな違いは何だと思いますか?「運がいいから」ということもあるでしょうね。でも「運」を引き込むことができたのも、どこかに何かしらの要因があるはずです。私は若い頃に、幸田露伴『努力論(小説『五重塔』が有名ですね)を読んだことで、それが少しだけ見えてきたような気がしました。それは失敗を人のせいにしない」ということです。露伴ははっきりと述べています。大きな成功を遂げた人は、失敗を人のせいにするのではなく自分のせいにするという傾向が強い」 物事が思うようにうまくいかなかったり、大失敗をしてしまったときに、人のせいにすれば自分は気が楽ですね。往々にして何か問題が起こると、それはすべて他人のせいで、自分には関係がない、と考えがちです。あいつがこうしなかったからうまくいかなかったのだ、あれがこうなっていたから失敗したのだ、あの時に予期せぬこんなことが起こったから失敗したのだ、悪いのはあいつであって自分ではない、等々。物事をいつもこんな風にとらえていれば、自分が傷つくことはないし、気楽なものですね。でもこのような態度で暮らしていると、いつも物事はそこで終わってしまい、そこから得たり学んだりすることは絶対にないでしょう。一方、失敗や不運の原因を自らに求める人は、傷つき、苦しみ、悲しく辛い思いをすることになります。でも同時に「あの時はああではなく、こうすればもっとよくなっていたのでは?」という反省の気持ちを持つことになり、前よりも前進・進歩することができます。自分の欠陥を補っていけばいくほど、自らを成功の有資格者にしていくのは明らかでしょう。また、自らを責めることほど他人の同情をひくことはなく、他人の同情をひくほど事業は成功に近づくのです。ここが大きな差を生むんですね。失敗や不幸を自分に引き寄せて反省し考えることを一生やり続けた人間と、常に他人のせいに責任転嫁し続け何もしない人間とでは、かなりの確率で、運の良さがだんだん違ってくることは間違いないでしょう。こうした態度の違いは、長い間に大きな差となって、運のある人とない人の差に、つまりは成功する人と失敗する人の差となって現れることになるのです。幸田露伴は、このことを、運命をたぐり寄せる二本の紐に喩えて紹介しています。一本の紐はザラザラゴツゴツとした針金のような紐で、それを引くと掌は切れ、指は傷つき、血がにじんできます。耐えがたい苦痛に耐えて、それでも我慢して引き続けると、大きな幸運を引き寄せることができます。しかし、手触りが絹のように心地よい感触の紐を引っ張っていると、引き寄せられてくるのは不運だというのです。私が卒業生たちに求められて、色紙や卒業アルバムにサインをする際に、力を尽くして狭き門より入れ」(聖書ルカ伝)と書くのも、これと同じ気持ちからです。

 尊敬する故・松下幸之助さんも、失敗を幾度となく重ねて(cf. 中島孝志『ほんとうは失敗続きだった「経営の神様」経営伝―松下幸之助』(メトロポリタンプレス、2011年)偉大な業績を挙げた苦労人ですが、失敗を素直に認める」ことの大切さを語っておられます。故・野村克也さんが、失敗と書いて成長と読む」とおっしゃっておられるのも、これと同じ精神でした。

 大切なことは、何らかの失敗があって困難な事態に陥ったときに、それを素直に自分の失敗と認めていくということです。失敗の原因を素直に認識し、「これは非常にいい体験だった。尊い教訓になった」というところまで心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。  ―『松下幸之助一日一話』(PHP研究所)

 「僕はな、物事が上手くいった時にはいつも皆のおかげと考えた。上手くいかなかった時はすべて自分に原因があると思っとった。」  ―松下幸之助

 尊敬する経営コンサルタントの小宮一慶(こみやかずよし)さん(私は彼の大ファンで書かれるものは全て読むようにしています)がよく引用される言葉に、「成功したときは窓の外を、失敗したときは鏡を見る」という言葉があります。成功を収めたときには窓の外を見て、成功をもたらした要因を見つけ出す、具体的な人物や出来事が見当たらないときには、幸運の有り難さに感謝する。結果が悪かった時には、鏡を見て、自分に責任があると考える、つまりうまくいかない時は、自分のせいだと思うことです。鏡に自分を映して、何がいけなかったのかを素直に謙虚に反省しないといけません。上手くいったときは他人のおかげ、上手くいかないときは自己責任ととらえて反省する気持ちが大切だと、松下幸之助さんも言っておられました。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、全部自分のせいだと思え」とは、経営コンサルタントの故・一倉 定(いちくらさだむ)さんの言葉でした。とかく他人や世間を非難しがちですが、常に自分を反省することが大切です。

 故・高原慶一朗さん(私はこの人の本からいろいろなことを学ばせていただきました) が起こした(株)ユニチャームには「原因自分論」というのがあります。何か物事がうまく運ばない時に、とりあえず条件反射的に人のせいにしてしまう人がいます。「世の中の景気が悪い」「部下がちゃんと働かない」「需要が落ち込んでいる」「上司が認めてくれない」など、自分ではなく全て他に責任を転嫁してしまう人たちです。リーダーたる者は、人を批判したり非難する前に、まず自分の問題として受け止めて、それを解決するために自分としては何を考え、何を行ったらよいのかを考えることが大切です。

 「あなたのせいだ」と相手を責めたくなったときこそ、その指先を自分に向けよう。「原因自分」の考え方が失敗を生かし、人を成長させる。(高原慶一朗)

 企業・政治家・学校現場の不祥事が続いて、その度に責任のある幹部が出てきては謝罪をするのが通例のようになっています。中には「極めて遺憾である」とか「残念だ」といった、まるで人ごとのようなコメントでお茶を濁す例が少なくありません。それは部下のしたことで、自分は知らない、関知していない……こんな言い訳を聞いていると、「キツネはワナをとがめるが、自分自身をとがめない」というイギリスの詩人・ウィリアム・ブレイク(1757-1827)の言葉を思い出します。キツネはワナにかかった自分の不注意を反省せずに、そこにあったワナを責める。同じように、愚かな人は、過ちに対して、自分の行いの悪かった点を認めず、他人や状況のせいにすることを皮肉った言葉です。自分が為したことの結果については、全て自分自身に原因と責任がある。とりわけ失敗の要因は、常に自分の力不足に求めて、他に転嫁しないこと。その「原因自分」の考え方、行動原則を忘れないようにしたいものですね。♥♥♥

 

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丸選手の批判

 巨人の丸佳浩(まるよしひろ)外野手(36歳)が12月3日、都内の球団事務所で契約更改に臨み、1億2000万円ダウンの2億円(金額は推定)でサインし、来季から新たに2年契約を結びました。来季中の通算2000安打(残り71)、同300本塁打(残り11)、同1000打点(残り56)の大記録のトリプル達成が期待されています。

 その丸選手が交渉の席で、球団に現在の3軍制度について強烈な意見を述べました。巨人がもっと強くなるための思いを持つからこその批判でした。今季、丸選手は開幕前に負傷離脱し、リハビリ中に三軍の選手たちと共に活動していました。そこで、彼は三軍選手たちの意識や運営の課題について疑問を抱いたといいます。「見て感じたことを伝えさせていただきました。球団としても育成選手にも実戦の場を設けてくれている。当然、お金も人手もかかっています。そこに3軍の選手がどういう意識を持ってやってるのかお話をしました」と語りました。巨人では2016年に創設された育成選手メインの3軍です。同制度を設けるソフトバンクホークスの育成選手からは甲斐周東牧原大らが急成長して育ちましたが、「なかなかそういう選手がジャイアンツに出てきていない」と厳しい視点で批判しました。「(3軍選手は)一番練習しないといけない立場。何をやらないといけないかの意識改革じゃないけど、そういう意識をどう持っていけばいいか。今の時代に合う指導法をしつつ、どう向上心を持ってやっていけるか」と、球団側と話し合ったといいます。自身は猛練習・不断の努力の末に広島で定位置をつかみ、巨人でも不動の地位を築いてきました。「新体制になってから、また今までと違った取り組みをしていくという話だった。僕も見ていきたい」。常勝球団の復活へ、あらゆる面で力になろうとしています。このニュースでは、丸選手が具体的な批判を球団に伝えたことが特に注目されます。なかなか勇気を持って言えない発言です。それだけ丸選手のはらわたは煮えくり返っていたのでしょう。現役選手の立場から見た育成の現状についての意見は、今後のジャイアンツの戦略に大きな影響を与える可能性があります。また、三軍制度の意義が問われる中、来シーズンの進展が注目されます。三軍制度は今季で創設から10年目を迎えています。三軍を始めて10年。このまま鳴かず飛ばずの状態が続くと、球団のメンツにも影響し、存在意義も問われるとの危機感も広がっています。来シーズンは、巨人の三軍制度の真価が問われる年になることでしょう。

 福岡ソフトバンクホークスで育成選手が一軍での成功を収めていることに言及しました。現役選手が球団の運営や組織の活動について意見を言うことは極めて珍しく、丸選手はそのもどかしさを感じていたようです。桑田真澄2軍監督駒田徳広3軍監督が今年限りで退団したので、来季に向けては、二軍、三軍監督やコーチ陣の顔ぶれが大きく変わります。ジャイアンツの一~三軍の首脳陣はリモート会議を積極的に行い、情報共有を円滑にする方針を示しています。

 丸選手が言及したように、ソフトバンクホークスの育成選手には、千賀滉大投手(現・ニューヨークメッツ)、甲斐拓也捕手(現・読売ジャイアンツ)、周東佑京選手牧原大成選手石川柊太投手(現・千葉ロッテマリーンズ)など大成した選手が多くいます。なぜこれだけホークスは育成選手をうまく育てられるのでしょうか?これに関しては、工藤公康・元監督が最新刊『工藤メモ』(日本実業出版社、2025年)の中で触れておられました。

 ホークスの育成選手がなぜ大成できるのか?よく言われるのは、「一軍、二軍、三軍がうまく機能しているから」ということです。確かに、ホークスには王会長をトップとしたシステムがしっかり構築されています。二軍のみならず三軍にまで目が行き届き、王会長以下、各監督、スタッフ間で情報の共有がちゃんとなさえている点は12球団随一といってもいいかもしれません。

 あともうひとつ、私がホークスの育成力として優れていると思うのは「一芸を伸ばす力」です。「この選手のここが誰よりも秀でている」と見抜いたら、その一芸=長所を徹底して伸ばしてあげる。この見抜く力と育成力があったからこそ、先述した育成出身の選手たちは大きくせいちょうできたのです。甲斐選手は、方の強さとフットワークのよさが大きな魅力でした。だから入団当初はピッチャーをリードする力やバッティングには目をつむり、彼の長所を伸ばすことに注力しました。まずは彼の最大のウリとなるポイントを認めてあげて、経験を積ませたわけです。  (pp.48-49)

 育成入団の選手は多いので、活躍できずに消えてしまうケースも多いのですが、中でもどんな選手が育成から這い上がるのかに関しては、活躍する選手の共通点は、投手なら球速・変化球・制球力、野手なら強肩・長打力・俊足などで、誰にも負けない1つの武器を持っていることでしょう。あとはこの世界で絶対に活躍するという負けん気の強さですね。甲斐牧原周東選手は若手の時から目の色が違っていたといいます。科学的トレーニングの発達で練習の質が重視される時代ですが、一流になる選手は想像を絶する練習量をこなしています。実際、現役時代に他球団からソフトバンクに移籍したOBは、野球に向き合う姿勢の違いに驚かされたといいます。「春季キャンプで今宮健太、松田宣浩など主力選手たちがユニフォームを泥だらけにしてノックを受けていました。豊富な練習量は小久保裕紀監督、松中信彦さんの現役時代から継承されていると聞いて、強さの秘訣が分かりました。ファームにいる選手たちも千賀、甲斐、牧原という育成入団からサクセスストーリーをつかんだスターを見ているので、追いつきたいと練習や試合に取り組むモチベーションが高い。各ポジションで競争のレベルが高いので常に緊張感が漂っていました」 一方で、巨人の育成入団からは1軍でブレークするケースがほとんど出てきません。育成契約に限らず、支配下で入団した選手も一本立ちせずに伸び悩むケースも多く見られます。場当たり的なFA補強も一因でしょう。丸佳浩のような球界を代表する選手は獲得する価値がありますが、力に陰りが見えている選手をFAで獲得しても戦力としてプラスにならず、若手の出場機会が失われるデメリットのほうが大きいと思います。巨人の2、3軍を見ると磨けば光る素材は多いんですが、チャンスがなかなか巡ってきません。かつて高橋由伸監督は、どんなに打てなくても辛抱して岡本和真選手をずっと使い続け、球界を代表するスラッガーに育て上げました。さらには、巨人の2、3軍で指摘されるのが練習量の少なさです。入団しただけで満足し、周りからは他球団以上にチヤホヤ祭り上げられて、ろくに練習も積まず消えていく選手をたくさん見てきました。ハングリー精神で何としてでも這い上がってやるという気概が足りないのでしょう。巨人を取材するライターは違った見方を示します。「桑田さん、駒田さんが練習をやらせないということはない。質だけでなく量も重視した上で、桑田さんは『自分で何が足りないか考えて取り組まないとダメだよ』と若手の選手たちに伝えていました。ネットスローやウエートトレーニングなど遅くまで自主練に取り組んでいる選手たちはいますし、能力を伸ばしてきて楽しみな選手が多い。育成から支配下昇格した菊地大稀、三塚琉生、ファームで今年結果を残した育成の宇都宮葵星、園田純規はチームの核になれる逸材です。彼らが1軍で活躍すれば、刺激を受けて台頭する選手がどんどん出てくる可能性があります」育成入団選手がブレークすれば、チーム全体の士気が上がります。果たして来季、丸選手の提言は生かされるのでしょうか?♥♥♥

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渡部昇一先生のエピソード(44)~床暖房

 日本の季節・春夏秋冬の移り変わりは、文化風土的にも審美的にも非常にありがたいものです。しかし、その環境にいかに適応するかという点では、人間に一定の苦労をかけるものであることも、考慮に入れておかねばなりません。特に老人は、環境に対する適応能力が著しく落ちるものです。だからこそ、冬は暖かいところにいて、夏は涼しいところにいる方がいいのです。昔の人々が、わりと早くに亡くなっていったのは、冷暖房が発達していなかったので、気温変動にうまく身体を適応できなかった面も大きいのだと感じます。

 尊敬する故・渡部昇一先生が若かった頃は、夏の高温多湿に大いに困惑させられるのが常でした。夏の三ヵ月間はまったく頭が働きません。これがいかに不利なことかを知ったのは、先生がドイツイギリスに留学して、かの地の湿気や気温が日本よりも低く、夏もかなり快適に勉強できることを体験されたからです。「これでは日本人は、ヨーロッパ人に勉強でかなうはずがない。彼らの一年は、日本人の一年よりも夏の三ヵ月分だけ長いのだから」と嘆かざるを得ませんでした。そこで先生は、かなり早い時期にクーラー(現在ならエアコンと言ったほうがいいかもしれませんが、最初は冷房機能だけでした)を自宅に導入し、『知的生活の方法』(講談社現代新書)でもその効用を大いに説いておられました。

 ある年、思い切ってクーラーを付けたのである。それはまったく魔法の如きものであった。夏休み中、まるまる東京にいて勉強できたのである。健康状況は良くなったとしても悪くはならなかった。疲労しないから体力が落ちないのだろうと推測している。

▲私の一生に大きな影響を与えた一冊です

 これはまさに、心の底からの実感であり、先見性に優れた指摘でした。しかし、これをクーラーがないと知的生活は送れない、と曲解する人々がピント外れの批判を繰り返しました。

 しかし、老人は環境適応力が大幅に落ちるるのだから、若い頃と同じ感覚ではいけません。老人の場合には、冷暖房は必須です。加えて言うならば、どのように使うかも十分に気をつけなければなりません。夏の夜、寝る前に寝室を冷房しておくのは構いません。しかし、寝ている間も冷やし続けると寒くなり過ぎます。朝まで冷房をかけて、冷気に当たり続けるのは身体によくありません。寝る前に冷房を切る方法もありますが、それだと、寝ている間に部屋の温度はどんどん高くなってしまいます。朝まで適度な涼しさを維持するには工夫が必要になってくるのです。最近は冷房機能もどんどん進化しているので(タイマーなど)、それを使うのもいいでしょうが、先生は、寝室を直接冷房をせずに別の部屋で冷房をかけて、寝室の戸を開けて寝ることにしておられました。廊下を冷房して寝室の戸を開けておくのが一番いいのですが、廊下には冷房をつけていない家が多いでしょう。たとえば隣の部屋を冷房して、その部屋と寝室の扉を開けておけば、ある程度機密性の高い家ならば同じような効果が出るでしょう。二階建ての家で寝室を一階にしている場合ならば、二階を冷房しておけば冷気が下に降りてきます。暑くも寒くもなく、朝まで快適な室温で寝られるのは、体力も奪われずに済み、誠に幸せと言わねばなりません。

 問題は冬です。夏の暑苦しさは、エアコンによって一発で解消できましたが、暖房では苦労をし続けてこられました。先生は寒い東北で育ったので、冬の厳しい寒さはよく知っておられます。学生として東京に出てきてからは少しはマシになるかと思いましたが、上智大学の寮はいわゆるカマボコ寮でしたから、とても寒かったのです。冬は部屋の中にいても外と同じくらいに寒い。寮の中では、どてらを着て過ごすしかありませんでした。それでも寒いので、父が闇屋から買ってくれた飛行機乗りが履く革靴を履いていました。上空を飛ぶ飛行機はとても冷えるので、飛行機乗りは毛皮のついた革靴を履いていました。その靴を履いて、どてらを着て、寮の部屋の中で勉強をしておられたのです。

 その後、先生はドイツに留学されますが、ドイツの学生寮はすべてセントラルヒーティングでした。まだ戦後十年ほどしか経っていないのに、学生のために設備が整った寮を建てていたのです。同じ敗戦国でこれほどの違いがあることに驚きました。セントラルヒーティングなら、部屋の中で厚着をしなくても勉強することができます。日本にいる時には、寒い日はこたつに入って勉強をしていましたが、こたつに入っていると能率が上がらないし、後になると疲れてきます。そこでストーブを使おうと思い、最初に練炭ストーブを買ってみましたが、これは使っていると頭が痛くなる代物でした。昔の日本家屋は気密性が低かったので死ななくて済みましたが、下手をすれば一酸化炭素中毒で死に至ることもあるので恐ろしいものです。そんな暖房などとても使えないし、知的生活にも酸素欠乏は害でしかありませんから、早々に見切りをつけました。

 しばらくしてオイルストーブが日本に入ってきました。イギリス製のストーブを使ったところ、性能がよく、頭が痛くなることはなくなりました。ドイツのオイルストーブも購入してみましたが、イギリスのストーブが一番良かったようです。ストーブを各部屋で使うと家の中の酸素が足りなくなります。煙突を薦められたため、煙突を使うオイルストーブを導入しました。ちょうど子どもを育てる時期と重なっていたので、ストーブの周りに金網を張って、そこでおしめを乾かしていました。しかし、書斎のような部屋には煙突は取りつけることはできません。仕方なく、初めは電気ストーブや、電気スリッパを履いてしのいでいました。エアコンを導入してからは、それで暖房もできるようになりましが、三階まで吹き抜けになっている書庫はうまく温度調節ができません。夏は三階で冷房を入れると涼しくなり、冷房を止めてもいつまでも涼しさが保たれるのですが、秋冬になって寒くなると暖めようがありません。吹き抜けだから、エアコンをどれほどかけても暖気は上にいってしまうのです。部屋全体が温まるほどにかけると、どうしても頭がボーっとしてしまうが、それでも足先は冷たいままです。仕方なく、なお電気スリッパを履いたりしてみたがダメで、小さい書斎に移って、足は小さい電気ストーブで温めたりもしました。

 そこで、新しく建てた家の書斎では「床暖房」を入れたのですが、これが大正解でした。生活環境面において、「床暖房」は幸せの最たるものであると、心の底から、そう実感されました。人間は足元が温かくなると、部屋が暖かくなくても寒く感じないものなのです。「床暖房」がこれほどありがたいものだとは思ってもみませんでした。まさに昔から言われてきた「頭寒足熱」に健康効果があるのです。書斎も寝室も「床暖房」にしました。寝室は寝る前まで「床暖房」を入れておいて、「床暖房」を切ってから寝る。朝起きるころまでは適度に温かさが保たれています。「床暖房」のポイントは、温かくなったらすぐに切ることだと分かりました。切らないと熱くなりすぎてしまうのです。寝室の場合、「床暖房」で下から温めると、何となく布団も温まっています。明け方などでも、実にいい温度です。あまりにいい気分で寝ることができるので、もし、このように寝ることの延長で死ねるのならば、死も悪くないなと思ってしまうほどでした〔笑〕。本当に「床暖房」はこたえられないもので、「床暖房」に慣れてしまうと、ホテルや旅館などにはもう泊まれなくなります。夏は冷房を切って我慢して寝ればいいのでが、冬はエアコンの風で暖める部屋では気持ちよく眠れません。ホテルや旅館も、どんどん「床暖房」を導入すべきでしょう。

 暖房の決め手は「床暖房」にある、というのが故・渡部先生の実感でした。「床暖房」を使うと足がホカホカして寒さを感じないので、エネルギー効率の面でもよいのではないか。寝室だけでも「床暖房」にするのがお奨めです。「床暖房」は、つくづく老人の幸せの最たるものであるというのが、先生の偽らざる実感だったのです。♥♥♥

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「銀ブラ」

dsc01781 東京・銀座に喫茶店の「カフェーパウリスタ」が誕生したのは、明治44年12月のことでした。このお店は、その後の喫茶店の原型となったとも言われている有名な老舗です。当時、お店の正面にはブラジルの国旗が翻り、夜ともなれば燦々と輝くイリュミネーションの店構えに、人々は胸をときめかせたものでした。店の中に入ると北欧風のマントルピースのある広間、大理石のテーブル、ロココ調の椅子。海軍の下士官風の白い制服を着た美少年の給仕が銀の盆に載せたコーヒーをうやうやしく運んできます。価格は一杯5銭。当時としては超破格値だったために、カフェーパウリスタ」は開店と同時に誰もが気軽に入れる喫茶店として親しまれるようになりました。

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▲落ち着いた「カフェーパウリスタ」の店内

 当時、銀座の店の周辺には、新聞社や外国商館が建ち並び、水上瀧太郎、吉井勇、菊池寛、佐藤春夫、芥川龍之介、森 鴎外、谷崎潤一郎、与謝野晶子、正宗白鳥、徳田秋声、井上ひさしなど、多くの文化人がこの店の常連となっていました。なにせ、あのジョン・dsc01770レノン・オノヨーコ夫妻も、来日時には、三日三晩も来店したそうですよ。座カフェーパウリスタ」ブラジルコーヒーを飲みに行く」ということから、「銀ブラ」という言葉が生まれたという説もありました。同店自身も、訪れたお客さんに対して、「あなたは本日、銀ブラを楽しんだ事を証明します」という「銀ブラ証明書」(スタンプカード)を発行しているくらいです。私も同店を訪れた際に、もらってきました(写真右)。このお店のコーヒーはとても美味しかったので、以来私は、毎月自宅に届けていただいているんです。

 「銀ブラ」というのは、もちろん「銀座をブラブラする」という意味ですが、「銀ブラ 本当の意味」でネット検索すると、思わぬ「由来」がヒットします。「ブラ」の語源を「ブラジル」に見る異説です。少し調べれば「そりゃあ、ないだろう」と分かることでも、ネットの拡散力は大変なもので、「世の中の様々について解説する某著名サイト」で「町歩きの専門家」と称する人までもが「ネットのデマ」に踊らされ、「本来は~」「実は~」などとうんちくを垂れています。それをまた引用した記事の、そのまた引用という負の連鎖のせいで、デマはいつの間にかあたかも真実のように語られ始めます。驚くことに人気テレビドラマの劇中で「銀ブラ」が「ハイカラの代名詞だった時代」の若いカップルが「銀座をぶらぶら」ではないほうの「銀ブラ」について語りながら心を躍らせるシーンがありました。「ネットのデマ」の影響は大きいのです。国語辞典の編集者の飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂、2014年)には次のような記述がありました。

▲『三国』の裏話

  『三国』の利用者から次のようなはがきをいただいたことがあります。
「第6版の『銀ぶら』の項目に〈東京の銀座通りをぶらぶら散歩すること〉と説明してありますが、家族に『それは間違いだ』と言われました」
 そのご家族の方によれば、「銀ぶら」とは「銀座のカフェでブラジルコーヒーを飲むことだった」と言うのです。「銀座」で「ブラジルコーヒー」だから「銀ブラ」――たしかに、この説は新聞やテレビなどで接することがあります。「銀ぶら」の発祥とされるカフェのこともよく取り上げられます。でも、はたして本当の話でしょうか。
 結論から言うと、これはいわゆる民間語源説です。つまり誤りで、残念ながら『三国』としては採用することができません。
 「銀ぶら」ということばが使われだしたのは大正時代のことです。『新らしい言葉の字引』(1918年)に〈銀ブラ 銀座の街をぶらつく事〉とあるのが、古い説明のひとつであるようです(『日本国語大辞典』第2版)。大正時代の文章では「銀ぶら」とひらがなでも書かれます。以下は1925年の例です。
〔上略〕「銀ぶら」などゝいふ言葉が流行して、一部の(イカラな連中の間に銀座が憧憬の巷になって居るのなど、余り結構な好みではないと思って居た。
               (中村武羅夫『文壇随筆』新潮社161ページ)
 「ブラジル」ならばひらがなでは書かないので、この点でも「ブラジルコーヒー」説は疑問符がつきます。最も肝心なのは、古い文章では「銀ぶら」はみな「銀座をぶらぶらする」の意味で使われているということです。「銀座でブラジルコーヒーを飲む」の意味の文章は見当たりません。ことばの使用実態からは、「銀ぶら」は「銀座をぶらつくこと」と解すべきです。
 「銀ぶら」の発生源は慶応大学の学生だとも言われます(水島爾保布『新東京繁昌記』などの説)。一方、日本文学者の池田弥三郎は<われわれ慶応の学生仲間たちも、銀座へでも行こうかとは誘い合ったが、銀ブラでもしようか、とは言わなかった〉(『銀座十二章』朝日文庫)と述べていて、結局、言い出しっぺは分かりません。
『三国』第7版では、利用者の誤解を解消するため、次のように説明を加えています。

ぎんぶら[銀ぶら](名・自サ)〔俗〕東京の銀座通りをぶらぶら散歩すること。〔大正時代からのことば。「もと、銀座でブラジルコーヒーを飲むことだった」という説はあやまり〕 (下線は八幡)

 話としては「銀座をぶらぶら」よりは「銀座でブラジルコーヒー」のほうがおもしろいのは確かです。でも、「おもしろいこと、イコール真実」ではないということにも注意する必要があります。  (pp.60-61)

 人の命にかかわるような話でもありませんし、どうでもよいといえばどうでもよいことかもしれません。でも、『三省堂国語辞典』の編さん者である飯間浩明(いいまひろあき)さんは事実を調べ上げ、スタッフと協議を重ね、「銀ブラ」の項目に上記のような注釈を付けたのでした。♥♥♥

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道場修作

 BS日テレオリジナルドラマ、令和サスペンス劇場「旅人検視官 道場修作 長野県 車山高原殺人事件」第6弾の放送(1月31日午後7時~)が決定しました。本作は内藤剛志(ないとうたかし、70歳)さん演じる、定年退職した元警視庁検視官の道場修作(みちばnしゅうさく)が、亡き妻が残した雑記帳とともに訪れた旅先で事件に巻き込まれる、懐かしくも新しい令和の2時間サスペンスドラマです。2023年12月の放送から続いている人気シリーズで、毎話繰り広げられる人間ドラマが絡んだサスペンスはもちろんのこと、主人公・道場修作と一緒に全国の観光地を旅している気分が味わえる旅情感も大きな魅力の作品です。サスペンスとしてのハラハラ感はもちろんのこと、劇中に登場する全国各地の観光スポットやご当地グルメなども大きな見どころで、旅情感も味わえる作品です。今回も諏訪大社車山高原奈良半宿イングリッシュガーデンなど長野の名所を訪れ、科野菜信州そば天狗水などのご当地グルメを堪能することができます。私は内藤さんと同い年ということもあって、ずっと応援しているんです(私の好きな故・西村京太郎先生十津川警部を演じたこともありましたっけ)。

  今回の舞台は、亡き妻が愛した俳人・小林一茶ゆかりの地・長野県。車山高原で見つかった白骨遺体をきっかけに、道場はまたしても事件に巻き込まれ、捜査には関わるまいとしながらも次第に真相に近づいていきます。物語に大きく関わる人物として、車山高原のツアーガイド兼ガーデンデザイナーで、失踪した夫を待つ芝田夕夏役として森尾由美が出演。夕夏の義兄で世界的カメラマン・芝田徹を渡辺いっけい、そして、夕夏の義母でありガーデンオーナーの芝田麗子を松原智恵子が演じ、物語は複雑に交差していきます。さらに、道場に憧れる地元警察の若手鑑識係・磯崎悠馬役を松澤和輝が務め、思いがけず第一通報者となった道場は、磯崎にアドバイスをするうちに、複雑な家族愛や完璧なアリバイに隠された事件の真相に迫っていくことになります。道場の亡き妻との旅の行方はどうなるのでしょうか?

 内藤さんは台本を読んで「過去のシリーズでは、亡き妻・由美子が雑記帳に書き記した“あなたと行ってみたい場所”を旅してきたんです。ただ今回は、由美子が以前旅した場所を訪れました。実は由美子が先に訪れた場所に来るのは初めてなんです。それが何よりも今回新しいんじゃないでしょうかね」と印象を述べます。また、「今までの道場シリーズでは必ず近くに海があったんですが、今回の車山にはないんです。車山高原は空に近い場所で、亡き妻・由美子のいる場所を連想させるなと。空を見上げる…僕なりの理由ですが、いつもと少し違う方向を向いているのではないかなと思います」と、これまでと違う気持ちで臨んでいます。そして、「このシリーズでは初めて亡き妻がかつて訪れた場所へ引き寄せられてきます。この引力は、今回のドラマが終わっても先に続くと思いますので、皆さんこれからの道場を楽しみにしていてください。言いたいですけど言えません(笑)。大きなことがきっと起きますので、ぜひご覧ください」と視聴者に呼び掛けました。♥♥♥

―今回の台本を読んで

 毎回、新しい発見と喜びがあります。過去のシリーズでは、亡き妻・由美子が雑記帳に書き記した“あなたと行ってみたい場所”を旅してきたんです。ただ今回は、由美子が以前旅した場所を訪れました。実は由美子が先に訪れた場所に来るのは初めてなんです。なので、それが何よりも今回新しいんじゃないでしょうかね。由美子がこの地で修作に見せたかったことは何か、というのが今回のテーマのような気がします。

―舞台となる長野県の魅力

 長野県は撮影で何度もお世話になっている場所です。美味しくてきれいな水っていうイメージで、空や山々であったり全てそこから始まっている気がしますね。地元の野菜や蕎麦・米・肉もすべて美味しいです。今までの道場シリーズでは必ず近くに海があったんですが、今回の車山にはないんです。何が違うかなって考えると、車山高原は空に近い場所で、亡き妻・由美子のいる場所を連想させるなと。空を見上げる…僕なりの理由ですが、いつもと少し違う方向を向いているのではないかなと思います。そんな空や、この風景の中で皆さんに何か感じていただければ嬉しいです。

―視聴者の皆様へのメッセージ

 素晴らしい風景の中で、誰が犯人か?なぜその事件が起きたのか?を皆さん推理してください。そして、このシリーズでは初めて亡き妻がかつて訪れた場所へ引き寄せられてきます。この引力は、今回のドラマが終わっても先に続くと思いますので、皆さんこれからの道場を楽しみにしていてください。言いたいですけど言えません〔笑〕。大きなことがきっと起きますので、ぜひご覧ください。

 かつては民放各局が競って制作しながら、いつしか消えていった2時間ドラマに関して、旅情ミステリーの王道的作品で、主演は“刑事役”といえばこの人、第一人者の内藤さんが、なぜ2時間ドラマは消えてしまったのか、鋭く推理しています。

 「テレビ局それぞれの事情があって今地上波ではもうほとんどないですね。僕ら作る側として言えば、(これまでは)番組がたくさんありすぎて、何か当たり前にやり過ぎてしまった側面がないか、という反省点はあります」。取材会で一言ずつかみしめるように内藤さんは語り出しました。

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贅沢オランジェ

◎週末はグルメ情報!!今週はチョコレート 

 オランジェというチョコレートが大好きです。松江市内のチョコレート専門店(J.KowariPays Natal)でも細い棒状のものを買うことがありますが、米子東高校からちょっと離れたところにある米子のHOK「ひとりじめスイーツ 贅沢(ぜいたく)オランジェ」(410円税込)という商品が売れていて、これが結構美味しいんです。贅沢なフレーバーと素材にこだわり、「ひとりじめ」したくなる大人のチョコレートで、岐阜県の栄光堂ファクトリーという会社が出しています。いろんなスーパーをのぞいても、この商品を置いているのはここだけでしたので、私はわざわざ買いに行っていましたが、一時イオンでも並ぶようになりましたが、また姿を消しました。今週も米子で買ってきました。

▲HOKでは410円。イオンでは368円。ずいぶん値段が違います!

 小さく割れたビターなチョコレートにグランマルニエに漬けたオレンジピールを合わせています。ほろ苦さがアクセントになっている大人向けのオランジェです。アルコール分0.1%のオレンジリキュールが香ります。この味、結構好きです。♥♥♥

    この会社は、2019年3月5日に開催された「FOODEX美食女子Award2019」において、「ひとりじめスイーツ アップルチョコレート」がグランプリを受賞しています。やはり米子HOKのチョコレート売り場に並んでいます。こちらは1個1個包装されて入っていました。

【コンセプト】
仕事や家事に子育てと、女性にとって何かとストレスの多い時代。ほっと一息つけるリラックスタイムにちょっぴり贅沢になれる、ご褒美スイーツです。

【オリジナリティ】
食感と軽い酸味が美味しい蜜漬けリンゴにクーベルチュールチョコレートをコーティング。コーヒーや紅茶お酒とも相性が良く、様々な食シーンでお楽しみいただけます。

【ビジュアル】
あのシマシマのチョコが欲しい、あのストライプのチョコが美味しいなど、お店でも存在感のあるストライプ柄を採用しています。

【その他】
ロングセラー商品のひとつ、アップルチョコレートを今回「ひとりじめスイーツ」シリーズとして販売したところ、販路やターゲット層が広がり、結果売上を伸ばすことに成功しました。

 評価ポイントとしては、甘すぎないのでお酒にも合う、リンゴの食べ応えと歯ごたえがしっかりあって少量で満足できる、個包装は仕事の合間などにも食べやすく食べ過ぎも防げそう、パッケージも可愛くて目にとまりやすい、などが挙げられています。♥♥♥

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かんださんにお参りだ!

 鳥取県立米子東高等学校のある勝田町(かんだちょう)には、例年多くの初詣客が訪れる「かんださん」こと、「勝田神社」(かんだじんじゃ)があります。JR境線「博労町駅」(通称コロボックル駅)を降りて、すぐの所にこの神社があります。「勝田」の文字が入る町や村は全国で14カ所ありますが、その中でも「かんだ」と読むのは米子市だけです。その由来は所説あるものの、有力なのは2つ。一つは、「勝田神社」に祭られる勝田四郎に由来するというもの。もう一つは、その勝田一族が整備した荘園「勝田庄」(かんだのしょう)の地名に由来するというものです。“商人の街”として発展してきた米子にふさわしく、ご利益はまず「商売繁盛」。どんな願い事でもご利益があるとされており、米子市民の定番初詣スポットとして、毎年多くの参拝客で賑わいます。「賀茂神社」「天満宮」「祇園社」とともに米子で最も古い神社の一つで、背景に勝田山が広がる社殿はとても壮厳です。室町時代の天文年間(1532~1554)この場所に鎮座し、江戸時代には米子城の北の守りとして重んじられ、昔から米子の総鎮守として、人々の間で“かんださん”の名で親しまれてきた、由緒ある神社です。

 ご祭神の名前が「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」と、3回も“勝”が入っていることから縁起がいいと言われており、受験前になると、多くの受験生が訪れます。私は1月16日、勝田ケ丘志学館の授業が終わってから、お参りに訪れました。明日17日からの「大学入学共通テスト」での生徒たちの健闘をお祈りしてきました。

 今年の干支(えと)にちなみ、拝殿そばに建つ勇壮な「青銅神馬」像に手を合わせる人も多く見られます。お参りを終えて博労町駅に向かおうとしていると、教えている男子生徒4人がお参りにやってきました。恒例の「熱き抱擁」をして闘魂を注入しておきました。きっといい点を取ってくれるものと期待しています。♥♥♥

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