ポカが多い!

 二年前の冬のことです。松江北高補習科の授業が終わり、小雪模様の中、学校からタクシーで松江駅に向かい、「ドトール」でコーヒーを飲んで、いつものように松江駅の2番ホームから米子行きの普通列車に乗り込みました。座席に腰を下ろして、ベンチコートのポケットに手を入れたところ、とんでもないことに気付きました。家のカギがないのです!慌てました。毛糸の手袋と一緒に家のカギ1本だけを右のポケットに入れていたんですが、これがありません。どこを探してもないのです。キーホルダーでもつけておいたらよかったのですが、カギ1本だけをポケットに入れていたのでした。どこかで何かの拍子にするりと落ちたのかもしれません。万一に備えて家にスペアキーを隠しておけば良かったのですが、それもしていませんでした。すぐにミサワホームに電話をして、事情を話しましたが、担当者の言われることには、「最悪、家の玄関のカギを壊して入るしかありません」とのこと。米子に着いてから、利用したタクシー会社松江駅の喫茶店、松江駅、松江北高事務室・研究室に全て電話をかけて探してもらいましたが、どこにもありません。夕方、(株)ロックサービス松江の会社の方に来てもらって、最悪壊すしかないかということになりました。すると家の裏にあるトイレの小さな窓が60度ほど開くことが分かったんです(私は知りませんでした。てっきり常に閉めてあるものと思っていましたから)。会社の若い方が、もしかするとここから入れるかもしれないとのことで、脚立を持って来られて、上着と靴を脱いで侵入を試みられました。苦労しておられましたが、とても痩せた細い方だったので、見事に入ることが出来ました。こうして、八幡家の玄関のカギは無事に開いたのでした。めでたし、めでたし!不用心であったことが幸いした格好です。ミサワホームの担当者もやって来られ、私が電話をした後、すぐにやって来て家をぐるりと回ってみたところ、ここのトイレの窓がわずかに開くことが分かったので、キーサービスの会社に痩せた若い人を連れてきてもらうようにお願いしておいた、とのことでした。ここら辺の気配りが嬉しかったですね。「玄関のカギを壊して新しいものに付け替えたら数十万円かかるところでした。これからは気をつけてください」と。この時は出張料だけの5,500円だけですみました。この日の午後は「一体どうなるんだろうか?」と、授業どころではなく、ハラハラドキドキの1日でした。いい勉強になりました。すぐにカギに鈴のついたキーホルダーをつけて、カバンに入れておくことにしました。まさかの時に備えて、カギも1本秘密の場所に忍ばせておきました〔笑〕。

 さて二年経った今日のことです。自転車に乗って買い物に向かっていると、ベンチコートの裏地の中の隅っこのほうに何やら固いカギのようなものが感じられます。家に帰ってよくよく触れてみると、間違いなくあの時無くした家の鍵のようです。でもどうやって裏地の中に潜り込んだのかがさっぱり分かりません。どこにも穴も隙間もないのになあ~。仕方なく袖口をハサミで切って取り出しました。エー、こんなところにあったんだ!意外なところから、出てくるんですね。あれだけ大騒ぎした「カギ騒動」が、二年後にこんな不思議な形で決着しました。こういうことってよくありますよね。

 そんなポカをもう一つご紹介します。今私が一番気に入っているパケット・マジックで、ポール・ゴードン(Paul Gordon)さんの「THE EVOLUTION」という「イモムシ⇒蝶々」の変身傑作マジックがあります(写真上)。勝田ケ丘志学館のマジック好きの生徒に、このマジックを披露して驚いてもらった数日後、通勤カバンの中をいくら探しても、これを入れていた両開きの黒いパケット・ケースが見つかりません。どこかに落としたのでしょうか?そこら中を探してみますが、どこにもありません。仕方ない、それならもう一度購入しようとネットを検索してみますが、もうどこにも商品が載っていません。作者自身のポール・ゴードンさんのネット・ショップからも消えてしまっています。お気に入りの作品だっただけに「これは困ったぞ!!」。あっ、もしかしたら電車の中で、他の書類を引っ張り出す際にポロッとこぼれ落ちたのかもしれないぞと思い、ダメ元で「JR西日本落とし物センター」に電話で問い合わせてみました。一昨年の4月にも大事な英語書類を見つけてもらって大喜びしたことがありましたから。係の人にお尋ねして待っていると、何とJR出雲市駅の電車の中で見つかって出雲警察署(会計課)に回したとのこと!もう手に入らない貴重なパケット・トリックだっただけに、危ないところでした。出雲警察署に電話すると、ご親切にも宅配便で返送してあげると言われ、感激でした。無事に帰ってきてひと安心です!!気を付けないと。

 これにはまだ続きがあるんです。年末にこのカードケースを買い物袋にいれて、古志原まで温熱治療(テルミ)に往復しました。お正月にこれを演じてやろうと袋を確認してもどこにも見当たりません。「またかよ!!」途中で立ち寄ったはずの「かつや」「松江市立図書館」「スーパーまるごう」に落とし物として届いていないか直接出向いて係の方に尋ねてみました。いずれも答えは「NO!」。あー、とうとうなくなってしまったか!あきらめるしかないか。もう手には入らないしなあ…。と思って、明日からの授業の準備をしようと、通勤カバンの中身を全部取りだして整理しようとすると、アレッ!中からポロッと黒いケースが出てきました。何だ、こんな所にあったのか!?今までに何度も中身を確認したつもりでしたが、カバンの底の方に埋もれていたみたいです。年を取ると、こんなポカが多くなってきました。本当に困ったもんです〔笑〕。

 今日も、通勤途中に手袋をどこかに忘れたみたいです。新しいものを買いに行ってきました〔笑〕。とにかく最近こうしたポカが多くなってきて困っています。無くなってここ数年ずっと探し続けているものに、ロンドンで買ったお気に入りのバーバリーのマフラー、2万円以上もした博多で購入した500円玉のギミック・コイン、今大騒ぎになっている東京のフジテレビを訪問した時の写真の収められたSDカードがあります。これもいつか意外な所からひょっこりと出てくるんでしょうね〔笑〕。♥♥♥

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工藤公康の潔さ

 選⼿として29年、解説者として3年、そして監督として7年の野球人生。ソフトバンクの監督を務めておられた工藤公康(くどうきみやす)さんです。2011年に48歳で現役引退を表明するまで、29年に及ぶ投手生活の中で最優秀選手(MVP)2回、最優秀防御率4回、最高勝率4回など数多くのタイトルに輝き、通算224勝、14度のリーグ優勝と11度の日本一に貢献しました。私の大好きな巨人でも大活躍しました。私は旧・広島球場工藤投手の投げる生の姿を見ています。「優勝請負人」との異名もとった工藤さんに感心したのはその見事な引き際でした。ホークスの監督就任が決まり、オーナーである孫正義さんにあいさつに行った際に、さんから最初に言われたことは、「10連覇できる強いチームを作ってほしい」ということでした。プロ野球における連覇記録は1965年から1973年まで日本一に輝いた読売巨人軍の9連覇が最高で、その伝説的な記録はいまだに破られていません。工藤さんは7年間の監督生活の中で5度も日本一に輝いています。日本シリーズを4連覇した翌年の2021年は4位に終わり、力及ばずで5連覇ができませんでした。「ならば自分が責任をとる以外の方法はない」。慰留もされたようですが、すぱっと辞められました。辞めるという決断は監督を引き受けた時からの工藤さんなりの覚悟でした。これだけの好成績を残しながら、約束を果たせず勝てなかったからすっぱり責任をとって辞めるとは、なんて潔いんだと感じたものです(思いは著書の中に書き込まれています)。その指導哲学とはいかなるものなのか、彼の著書を読んでみようと思い立ちました。

 現役時代は「前後裁断」という言葉を座右の銘にしておられました。これは曹洞宗の開祖である道元禅師の『正法眼蔵』や、江戸時代に活躍した臨済宗の名僧・沢庵禅師の言葉にも引用され、 「過去も未来も裁ち切り、今に集中すること」を説いたもので、「前後際断」とも書きます。過去をくよくよ引きずったり、未来を憂えて取り越し苦労するのでもなく、いまこの時を生きよという意味です。工藤さんの現役時代は、まさに一年一年が勝負だと思っておられ、過去の自分にとらわれず、目の前の一試合一試合に集中しようと戒めておられました。とかく人間は過去の実績にこだわったり、過去の栄光にすがってしまったりするものです。だが、持つべき「プライド」と、捨てなければならない「プライド」があると言います。捨て去らなければいけない「プライド」は、前を向いて進んでいこうという人間にとって邪魔なものなのです。プロ野球もビジネス社会も、自分自身の過去の実績や誇りはともかく、人に評価されてこそ認められる世界なのです。

 工藤さんも入団当初はやんちゃ坊主で、目を離すと怠けてしまいそうなので、2軍ではなく1軍において監視をしていたと、広岡達朗監督が言っておられました。西武ライオンズの3年目、アメリカの1A(マイナーリーグ)に広岡監督に野球留学を命ぜられます。もう40年前の話になります。当時の西武ライオンズは毎年、1Aのカリフォルニアーリーグ所属の「サンノゼ・ビーズ」というチームに若い選手を何人か武者修行に出していました。3年目でワンポイントのリリーフ要員だった工藤さんも、1984年のシーズン中に広岡監督から「成長の跡がない、お前も修行してこい」と突然言われ、夏の1ヵ月半ほどカリフォルニアに行ってリーグ戦に登板していました。そこで大きな衝撃を受けます。1Aの選手たちは少額の「ミールマネー(1日の食事代)」しかもらえない中で、チームメート何人かと安アパートに寝泊まりしながら、ひたすら上を目指して野球をしていました。トライアウトを受けて入ってきた選手がほとんどで、成績が悪いとすぐクビになります。二軍でも1年契約で生活が守られている日本のプロ野球とはだいぶ違う環境でした。クビになってアパートを出て行く選手も毎週のようにいました。荷物をまとめている選手に「これからどうするの?」と聞くと、「またトライアウトを受けて大リーグを目指す」と答えました。聞いた3人が、3人とも同じ答えでした。諦めるどころか、誰もが自分の可能性を疑っていませんでした。そうした1Aの選手たちの「野球への情熱」を目の当たりにしたおかげで、他人とばかり比較していたそれまでの自分が恥ずかしくなったと同時に、「もっと自分の可能性を信じるんだ」と強く思うようになりました。そこから、もっと球速を上げなきゃダメだと考え、帰国後、当時の投手には珍しかったウェートトレーニングに自ら取り組み始め、3ヶ月で球速が10キロも上がったのです。

 工藤さんが西武ライオンズに入ったときの監督は広岡達朗監督でした。投内連携だけで2時間といった猛練習漬けの毎日でしたが、そういう練習量がプロ野球チームでは当たり前だと思って育ちました。監督やコーチから「やれ!」と言われたら、みんな「はい!」と言って黙々とやる時代だったし、そのやり方で入団4年にして、3回のリーグ優勝と2回の日本一を経験していますから、何の疑問も持ちませんでした。広岡監督時代の4年間に技術的に伸びたかどうかは分かりませんが、その猛練習のおかげで「どんなに練習しても壊れない強い体」を手に入れたことは確かだ、と回想しておられます。猛練習が当たり前というマインドと、強い体という土台があるからこそ、実働29年間も現役を続けられた、だから広岡さんには非常に感謝している、とおしゃっておられます。当時は選手からいくら煙たがられていても、後になって改めて感謝されるというのが理想の指導者でしょう。その証拠に、広岡さんに指導された選手たちがどれほどたくさん監督となっているかを思い起こして下さい。プロ野球ファンの中には、広岡さんに対して「冷酷な絶対権力者」というイメージを持っている人もいるかもしれませんが、4年間一緒に野球をした工藤さんに言わせると、何事も理論立てて、きちんと選手に話をする監督でした。広岡さんは、野村さんのID野球よりも早く「データ野球」を行った監督でもあり、頻繁に選手たちを集めてミーティングもしました。そういうときに、よく広岡さんは「野球必勝法70か条・野球必敗法70か条」という小冊子を使って「どうしたら試合に勝てるのか?」という話を事細かく説明していました。後年、小冊子「必勝法・必敗法」は読売ジャイアンツのV9時代の監督、川上哲治さんのもとでコーチを務めた牧野茂さんがロサンゼルズドジャーズの戦術を取り入れて作ったものでした。

 工藤さんは監督時代、甲斐拓也捕手と交換日記をしていたそうです!捕手が野球チームの要、最も大事なポジションだからでした。監督と選手の交換日記など聞いたことがありません。しかも甲斐捕手は育成出身の苦労人です。捕ってから投げるスピード、肩の強さ、ブロッキングの優秀さを買った工藤監督は、「扇の要に育てよう」と英才教育を施していたのでした。

 「努力と根性」を大切にしてきました。工藤さんは、野球選手としては身長もあまり高くないし、足も速くなく、おまけに肩も特別にいいというわけではありませんでした。ただし、負けず嫌いだったので、他人より何倍も練習することを自分に課してきました。「ここまでやらなければいけないのか?」と感じることでも、欠けていることが一つもないように練習を重ねてきました。「自分に負けたくない」という想いをずっと貫いてきました。「努力と根性」という言葉に集約されています。若い選手たちには「一生懸命ではまだ足りない」「必死にやれ」(=必ず死ぬくらい)という覚悟を説き、潜在能力を目覚めさせようと努めました。「私も監督をやっている7年間、練習は厳しかったです。なぜそこまで練習するのか。選手の未来を創るためです

 監督は、選手やコーチとフロントの間に立って、チームが機能するよう、常に準備する人間です。上層部の要望を聞きながら、リーダーとして現場を束ねる立場は大変ですが、それで結果を出す喜びは何物にも代えがたい。それがプロ野球チームの監督という中間管理職を経験した工藤さんの率直な感想です。徳光和夫さんのテレビ番組「プロ野球レジェン堂」にも出演され、野球にかける熱い思いを吐露しておられました。♥♥♥

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狭き門

 このブログのトップに挙げた言葉力を尽くして狭き門より入(い)れは、新約聖書ルカ伝の一節で有名なものです。高校生のときに、アンドレ・ジイドの名作『狭き門』を読んだ時に、本の扉に書かれているのを見て、いい言葉だなと思って大切にしてきました。生徒に色紙を頼まれる度に、必ずこの言葉を添えるようにしています。災難は楽をして生きようとする輩を好む」(文覚)という言葉もあるくらいです。私は、辛い道と楽な道があったら、躊躇なく苦しい方を選択することにしてきました。後で楽ができることを、経験上知っているからです。新約聖書のマタイ伝にも「狭き門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく、それを通って入っていく人は、多いからです。一方、命に至る道は狭く、その道は狭められており、それを見出す人は少ないのです」とあります。詩人のロバート・フロストも言っています。「森に二すじの道があった。そこで私は、みんながあまり足を踏み入れない道を選んだ。その決定が、私の人生の全てを変えたのである。」

 ある新入社員に人事部の人間が尋ねました。「どこに配属されたいか」――「できるだけむずかしい部署にしてください」――「ほう、どうしてか」――「あとが楽ですから」この新入社員こそ、のちの阪急グループを創始した小林一三(こばやしいちぞう)さんでした。

 生徒たちによく下の話をしました。私は、若い頃に、渡部昇一先生の自己啓発本でこの話を読んで、ずっと教訓としてきました。卒業生に色紙を頼まれると、「力を尽くして狭き門より入れ」と書くことにしているのですが、それと相通ずるお話です。

 鉄砲打ちの名人に、ある人が「地面にいる鳥と、高い枝に止まっている鳥、どちらのほうが撃つのが難しいですか?」と尋ねました。すると、名人は、こう答えたと言います。「地面にいる鳥も、高い枝に止まっている鳥も、どちらとも撃つには同じくらいの集中力と技術がいる」 素人考えで見ると、地面にいる鳥の方が楽に撃てそうですが、実際に要する集中力と技術は同じだと言うのです。つまり、一見難しそうな目標であっても、そこへ到達するのに必要な努力は、一見容易そうな目標とさして変わらないということです。逆に言うならば、一見たやすそうに見える目標も、難しそうな目標を達するくらいの努力が必要だということです。要するに、目標が高かろうが、低かろうが、必要な努力は同じだということなのです。ならば、高い目標を掲げたほうが得策ですね。 

 教員人生最後の卒業式で、教室に帰って生徒・保護者のみなさんに贈った私からの最後のはなむけの言葉は、老婆は一日にしてならず(笑)。親に感謝の気持ちを忘れないこと。被災地の復興の手助け・日本の発展に寄与できる、困っている人の手助けができる有為な人となるために、大学では死にもの狂いで学ぶこと。「力を尽くして狭き門より入れ」 楽な道と苦しい道と二つの道があったら、自ら進んで苦しい道を選択すると、後で楽しいことが待っているぞ。」でした。 

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ヤマト運輸の転機

 「サービスが先、利益は後」と喝破して、何よりもお客さんへのサービスを第一に考えたヤマト運輸の社長・故小倉昌男(おぐらまさお)さんのことを若い時に知って、いっぺんで大ファンになりました。目先の利益よりも、お客様の「ありがとう」を追求すると、結果は後からついてくるという企業哲学ですね。「松本ミカン事件」として知られる、ヤマト運輸を象徴する事件がありました。営業所の中で、配送作業中に壊れた箱の中からコロコロとこぼれたミカンを、営業所員が食べてしまったことを激怒した小倉昌男社長が、ミカンを食べた複数の社員をクビにしたというものです。たった一個のミカンです。わずかな出来心です。でもヤマト運輸の哲学・理念からすると、ミカンが一個だろうが百個だろうが関係ないのですね。お客様のこととなると、不実な態度にはとても厳しい。ただし、クビにされた社員の行く末を案じて、働き口を見つけるフォローもされたそうですが。

 以来ずっと、私は宅配便はクロネコヤマトに決めて利用してきました。ドライバーの方も親切な人で、毎日のようにいつも同じ方が荷物を持ってきてくださるので、仲良くなっていきました。玄関先で会社内のいろいろな苦労話を聞かせてもらっては感心したものです。ただ最近は、ドライバーさんも次々と変わり、質も変わってきたみたいで、指定時間を守ってくれなかったり、配達日が不安定になったり、サービスが劣化してきている感じです。日本郵便とのゴタゴタも話題になりました。創業精神が忘れられつつあるのかもしれません。「お客様への感謝」「ドライバーさんへの感謝」の気持ちを忘れないようにしたいものです。

 今でこそヤマト運輸といえば「宅急便」というイメージができあがっていますが、当時は日本通運佐川急使などの長距離路線を中心とした運送会社が幅を利かせていて、ヤマト運輸はそれほど力のある会社ではありませんでした。宅急便のスタートは1976年です。1919年創業のヤマト運輸(当時は大和運輸)は、戦前には関東中心に企業間物流を営んでいたトラック運送会社でした。ヤマト運輸が開発した大和便と呼ばれるサービスは、荷物の乗り合いバスのような仕組みで、取引先の企業が輸送したい荷物があるときにトラックが立ち寄り、その荷物を載せることができるものでした。これが、のちの「クロネコヤマトの宅急便」へとつながっていきます。当時、ヤマト運輸は関東一の物流会社でした。

 戦後、貨物の長距離輸送が鉄道からトラックにシフトしていった時、ヤマト運輸は地域内の物流にこだわったため、長距離輸送への進出が遅れました。その結果、ヤマト運輸の経営は、徐々に苦しくなっていきます。そこで、ヤマト運輸は、長距離輸送も含め、戦前から得意の企業間物流や百貨店配送、それに通運事業、航空貨物、海運業などありとあらゆる物流を扱う多角化戦略をとるようになりました。それでも、一向に経営改善は見えてきませんでした。苦戦が続く中、1971年に小倉昌男さんがお父さんのあとを継いで社長に就任します。1973年の「オイルショック」を機に業績がますます悪化していった頃、小倉さんは会社の進むべき方向についてあれこれ考えをめぐらして悩んでいました。このまま、多角化路線でいくのか、それとも事業を絞り込むべきかでずっと悩んでいた小倉さんは、二つのことを自身の目で見て、経営の本質に気づくのです。

 一つは、「日本経済新聞」の牛丼の吉野家に関する記事です。吉野家が、それまであった多くのメニューを一切やめて、牛丼一本に絞り込むという記事でした。記事を見てまず考えたことは、牛丼以外のメニューを選びたい人はよその店に行ってしまい、結局収益が悪化するのではないか?ということでした。記事を読み進めると、そうではないことが分かりました。メニューを牛丼単品に絞り込んだことにより、良質な牛肉を大量に安く仕入れることができ、味はいいし値段も手ごろだと評判になっていたのです。調理もシンプルで、熱々の牛丼を素人のアルバイトでも簡単に提供できる。お客さまが増えて、人件費がずいぶん抑制できたといいます。「そうだ、これだ!」当時、小倉さんは個人向けの物流に高い関心を持つようになっていましたが、もう一つ踏み切れないでいました。そうした時、吉野家の記事を見て、個人宅配ビジネス、今でいう宅配便、ヤマトでは宅急便と呼びますが、これ1本のトラック会社になろうと決意したと言われています。小倉さんが宅急便の市場性に気づいたきっかけが、このたった一本の吉野家の記事だったのです。

 もう一つ、小倉さんが同じ頃、アメリカ・ニューヨークを訪れた時きのこと。マンハッタンの交差点の四つ角に立ち、ふと周りを見ると、交差点の近くにUPS(ユナイテッド・パーセル・サービス)のトラックが4台停まっているのに気づきました。UPSは世界最大の小口貨物運送会社です。当時から個人宅配ビジネスのトップ企業です(私もアメリカからマジック作品を大量に送ってもらうときには利用していました)。そのUPSのトラックがニューヨークのど真ん中に4台も停まっている。「日本でも、これから個人宅配ビジネスの成長が期待できるのではないか」と、後の宅配便事業の成功に確信を持ちました。1976年1月20日、ヤマト運輸が宅急便のサービスを始めました。ちなみに、「宅急便」というのは、ヤマト運輸の商標であり、その後日本通運佐川急便などトラック運送会社が続々と参入し、総称として「宅配便」と呼ばれるようになりました。「これからは、箸でひとつずつ豆を移すんだね。それが宅急便だよ」宅急便誕生初日に扱った荷物は、わずか11個でした。それが初年度には170万5195個もの荷物を配送、現在の総個数が48億個を超えるまでに拡大しています。(2022年3月発表)その中でクロネコヤマトの宅急便は4割超のシェアを誇るダントツの1位です。♥♥♥

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今年の麺一発目は「谷屋ん」

◎週末はグルメ情報!!今週はラーメン

 2025年に入って第一発目の麺は、久々の松江市・西津田町「谷屋ん」です。八幡お気に入りのラーメン屋さんです。以前松江の人気店だった学園通りの「花さか」の後継店です。その昔、私が若い頃に、松江市・今井書店学園通り店の隣に、「花さか」という行列のできるラーメン屋さんがあったんです。いつ行っても、お店の前には長い行列ができていました。超満員のカウンター席で「醤油ラーメン」をいただくのが常でした。教員になりたての頃からずーっと通い続けた松江の名店です。大将とも顔見知りになり、時々頼んでもいないギョーザが出てきたりします。店員さんに「あのー、頼んでないんですけど」―「大将からのサービスです」 こんな感じのおつきあいで長年が過ぎていきました。顔を出すと、大将が「先生も大変だのー。頑張ってーや」と優しいお言葉。味は最高のラーメンでした。大将はことラーメンに関しては妥協のない、厳しい姿勢の職人さんでした。お弟子さんを厳しく叱りつける現場も、私は何度も目撃しています。その後、いったん店をたたまれましたが(駐車場の問題と私には言っておられましたが)、島根大学の近くの路地を入った場所(「昭和軒」の裏手)に移転して、再開されました。しかし網膜剥離で入退院を繰り返され、惜しまれつつ店を閉じられたのでした(今は「天真爛漫」というラーメン屋さんになっています)。当時の松江には、これといって美味しいーメン屋さんがなかったもので、ラーメン好きな私は、ポッカリと穴が開いたようになっていました。その、「花さか」で修業された店長さんが、新たにお店を出されたのが「谷屋ん」で、2012年の秋のことでした。あの懐かしい「花さか」の味を再現しておられいっぺんで好きになりました。国道9号線のユニクロマクドナルドを通り過ぎ、西津田「開運稲荷入口」の交差点から、北側に入ってすぐのお店です。路地裏に佇む「隠れ家」のようなラーメン屋で、テーブル17席、カウンター4席の小さなお店です。

 開店当時は、ラーメンの前に野菜サラダがサービスで出てきていました。白濁の、脂の浮いた、とんこつ魚介の背脂チャッチャ系。鶏がらと豚骨・野菜をじっくり煮込んだコクのあるだしと、のどごしのいい中太玉子麺を使っているのが特長で、一度食べたらクセになる味わいです。私はいつも醤油ラーメンを、ネギ、煮卵増しでいただくのでした。あの背脂いっぱいのこってりしたスープは、「花さか」の大将を思い出します。中細の縮れ麺、茹で加減はイイ感じ。脂の多いこってりチャーシューが2切れ。ここが「花さか」時代と違うところです。普通のラーメンを頼んでもチャーシュー麺かと思うぐらい、たっぷりとチャーシューが入っていたのが「花さか」でした。ひげ根は未処理の細もやし。甘い味付けのシナチク。何度でも出かけたくなる味です。開店と同時に満席になることも多く、私はいつも朝いちの11時に行っていました。醤油ラーメン「谷屋ん」、塩ラーメン「をっちゃんラーメン」「ラーメン長さん」が、中華そば「中村製麺所」が、今の私の松江市の定番です。

 「来来亭(らいらいてい)松江店」が、何とその「谷屋ん」の真ん前お隣に大々的な店構えでオープンしたのは2015年9月のことでした。関西の有名なラーメンチェーン店です。もう「ラーメン戦争」勃発だと思いました。当時、ご主人と話すと、あちらは鶏ガラ系でうちとはまったく異なるラーメンなので心配はしていない、味には自信がある、とプライドをのぞかせておられました。ただ夜営業になると、大きな看板と建物で、うちのお店がみんな隠れてしまうのがちょっと困った点、とおっしゃっておられました。私の住んでいる近くの学園通りも、数多くのラーメン屋さんがしのぎを削っておられますが、大規模チェーン店と老舗の味を受け継ぐ名店、共存共栄となるのか、それともどちらかが倒れてしまうのか、注目すべき「ラーメン戦争」でした。どうなることかと心配しましたが、そこはやはり味で勝負です。おいしさは比べものになりませんから。店長さんに聞いてみました。「来々亭の影響はどうですか?」―「あっちがいい人はあっちに行きますし、こっちがいい人はこっちに来てくれますから」 あれから10年。どちらのお店も繁盛しておられます。

 今年最初にお邪魔した「谷屋ん」。現在は秋鹿大東にも支店を出店しておられ、お客さんからの支持を集めています。ご主人も替わられ、開店して13年目です。「来来亭」の影響はありますか?と聞いてみました、「ないことはない」とのことでした。チャーシューは一枚になりました。ネギ増し「醬油ラーメン」(880円+150円)をお願いしました。味はあの頃と変わりません。ただあの頃と比べて、「悟空」「香味徳」「唐崎商店」など美味しいラーメンを食べ歩いているので、以前のような驚きはありません。口が肥えてレベルが上がってきたんでしょうね。♥♥♥

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ポリシー

 生きていく上で、自分が絶えず大切にしている方針。それを「ポリシー」と呼びます。「ポリシー」がないと、方向性が定まりません。目指す方向や守るべき原則が定まらないと、地面から足が宙に浮いたような状態になり、不安定な生き方になってしまいます。当然他人の言動や行動に左右されることも増えていきます。周りからの影響を受けたとき「まあいいか…」と安易に流されやすくもなるでしょう。外部からの圧力に負け、雰囲気に流されてブレてしまうのです。本来持っているはずの理念とか原理・原則を変えてしまうのが「ブレる」ということです。すぐブレる人は人から信頼が得られず評価も低くなります。政治家、特に首相などは発言がブレると急速に支持を失っていくことは石破総理を見ているとよく分かります。「ポリシー」がないと、パワーや勢いが生まれず、行動力が弱くなります。

 私は今から22年前の2002年7月22日に、島根県立津和野高等学校3年1組の学級通信「あむーる」「ポリシーを持って生きていますか?」と題して、生徒たちに次のような文章を寄せています。私はどんな分野であれ、確固たるポリシーを持って生きている人が大好きで、応援したくなります。 


 確固たるポリシーを持った人が好きだ。私の応援する芸能人から紹介する。

小田和正。『いつかどこかで』という映画を作った彼は評論家から強烈なバッシングを受けた。それこそボロくそに叩かれた。にもかかわらず、また映画を作った。『緑の街』だ。今度は映画館での上映ではなく、全国264ヵ所にも及ぶ公民館や小ホールでの自主上映だった。「自分を本当に応援してくれる人だけ見てくれればいい」小田さんの反骨精神を見る思いで、拍手を送りながら県民会館へ出かけたものだ。この映画、彼の自伝でもある。

◆絶対にテレビに出ない。コンサートもやらない。ZARDというグループだ。坂井泉水さんの書く詩が好きでファンクラブに入って応援している。『The Single Collection~軌跡』というベストアルバムが出た時、中に豪華客船で初めてのライブにご招待の応募ハガキが入っていた。ついにライブをやらないZARDのベールが脱がされることになったのだ。でもよくぞここまで我が道を行ったものだと思う。

◆28歳で30億円(!)の借金を抱え込んださだまさし。それも祖父の思い出のある中国の映画を撮るために(『長江』)。年に一度原爆の落ちた日に長崎の稲佐山で無料平和コンサートを続けている(「夏長崎から」)。大赤字を出しながら故郷の皆さんにご恩返しだという。長崎にできた巨大世界地図の壁に赤いレーザー光線で紛争地帯を点滅させるという 「ピーススフィア」の運動も彼の発案によるものだ。一人千円しか寄付をしてはいけない(!)という変わった募金活動によるモニュメントの完成だ。

◆アンコールをやらないCHAGE&ASKA。「出たり入ったりする時間があれば1曲でも多くみなさんに聞いてもらいたい」この言葉には感動したものだ。

◆靴をはかずに靴下でNHKホールのステージに出てきたジョージ・ウインストン。「自分のピアノの音だけを聞いてもらいたい」ペダルのそばにはボロ布が置いてあり、彼の足はそこに置かれていた。「あこがれ・愛」の演奏が始まった時にはあまりの美しさに言葉も出なかった。服装はジーパンにTシャツというおよそらしからぬものだった。これも彼のポリシーだ。

◆大学生の頃からヤマハの援助で音大に通いCDを出していた西村由紀江さん。全く売れない時代にも負けずに頑張り通した。「101回目のプロポーズ」の音楽を担当することになった、とハガキをもらった時には飛び上がった。渋谷のベルコモンズで開かれた内輪だけのパーティに招かれた時に、サインを頼まれた生徒の話をすると出たばかりの楽譜集に「私も頑張ったらいいことがあった。生徒さんにも頑張るように言って」とサインしてくれた彼女。「湖にピアノを浮かべて聞いてもらうのが夢」と語った彼女も今ではインストの女王と呼ばれるようにまで成長した。何度もくじけそうになった時に負けなかったことが今日の彼女を作った。

元ちとせ。あの独特のコブシで100年に一度の「神の声」と言われる。歌手になろうというきっかけが「週刊朝日」7月26日号のインタビューで明らかになった。先日広島へ行って彼女のデビュー前のCD2枚を探し当ててきた。自分の声を絶対に曲げない姿勢はこの頃からのものだ。今日もViewsicでオリコン一位のアルバム『ハイヌミカゼ』の曲の解説をするインタビューを1時間見てますますその音楽に対する姿勢に打たれた。スペースシャワーで23日にもインタビューが予定されている。8月9日には何とあのNHKが彼女の特別番組を夜11時から流すことが決定した。益々の活躍が期待できる今旬の歌い手だ。

▼皆さんはポリシーを持って生活していますか?ただ何も考えずに流行に流されていませんか?10代の貴重な時期を大きな夢を持って胸をはって堂々と生きていますか?後で振り返って後悔の残る生き方だけはして欲しくないものです。


 私は今でもこれと同じことを若い人たちに訴え続けています。私がシンガーソングライターの小田和正さん(77歳)を熱く追いかけるのは、時代に流されない強い信念を持って生きておられるからです。品格が問われる中で、小田和正という存在には、それが備わっていると感じるからです。もちろん品格などというものは、どこかで購入して即席で身に纏えるものではありません。これまでの長い人生の積み重ね・苦労があっての所産です。足し算と引き算の両方を同時にやってこれたからこそ、生きることにあの純度の高さが生まれたのだと思います。私も見習いたいと思っています。♥♥♥

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あきらめない!

 何事もそうですが、最後まであきらめずに粘ることが大切です。受験も全く同様です。あきらめずに最後の最後まで頑張っていると不思議なことにいいことがあるんです。3年担任や進路部長を務めていた時には、生徒たちにはいつもこのことを強調していました。生徒たちも、先輩たちが最後まで頑張っている姿を見ているだけに、そして逆転合格を果たした生徒をたくさん知っているだけに、推薦で不合格になったとしても、前期で落ちようが、後期の最後まで最善を尽くし、逆転合格を果たした生徒が数多くいました。私が松江北高に赴任した頃は、センター試験で点の取れなかった生徒たちに、立ち向かう道を示し、打開策をみんなで検討し、夜中の2時、3時まで会議をやっていたものでした。逆転合格が起こるのは、周りの熱意と本人の努力が融合した時です。

 私が一番印象に残っている生徒は、看護系志望で、推薦で鳥取大学医学部保健学科看護を受験し、センター試験で大失敗したために不合格。再び鳥取大前期で受験するも当然アウト。滑り止めにと考えていた島根県立看護短大新見公立短大・看護も不合格。幸い石見高看だけは合格したものの、本人は四年制へのこだわりもありどうしても専門学校には行きたくない。両親は女の子ということもあり、浪人には大反対で何度も家族会議が開かれます。そんな失意の中、後期の岡山県立大学の受験に向かいました。家に帰ってからは、浪人するか石見高看に入学するか、のせめぎ合いが家族の間で続いていました。そんな矢先、後期合格発表の当日、本人から合格の知らせが入りました。進路指導室では担任を始め、誰もが「信じられない!」と大騒ぎとなりました。本人が受験番号の載った電子メールの合格通知を持って飛んできました。一番驚いていたのは本人でした。出張先でこの知らせを受けた八幡も驚いたものです。翌朝学校に登校すると玄関でお母さんが待っておられました。一言お礼が言いたかった、と。本人もまもなくやって来て喜びを語ってくれました。自分の苦しみと、最後まであきらめなかったことを涙ながらに語ってくれ、後輩たちに自分の体験を生かして欲しいと、体験記も寄せてくれました。やはり最後の最後まであきらめないことが大事です。

 2017年7月29日(土)付けの『山陰中央新報』「若者よ」シリーズに、松江北高卒業生(37期)のはせがわいずみさんの記事「海外に出て独立心を培え」が大きく載りました。

 はせがわさんは、松江北高校時代には、英語は大の苦手だったにもかかわらず、アメリカ・ハリウッド映画への憧れ、夢をあきらめることができず、30歳を過ぎてから、家族の反対を押し切って渡米。苦労はされましたが、今では「ハリウッド・ニュース・ワイア」という、映画、スター情報配信会社を立ち上げて、エンターテインメント・ジャーナリストとして、セレブのインタビューに取材に、米国でご活躍中です。米国の人気ドラマ「24―Twenty Four」を初期から取材し、日本に紹介したのは彼女でした(メイキング・オブ・24―Twenty Four―』(竹書房、2007年)。2011年10月24日には、松江北高で二年生の諸君に、ご体験を「夢は叶う!」と題して講演をしてもらいました。その時の講演要旨は、当時の松江北高『図書館報』第100号にまとめられています。大変参考になるお話でした「夢は叶う、あきらめないで!」という、はせがわさんの熱いメッセージが強く印象に残っています。♥♥♥

▲松江北高卒業生のはせがわいずみさん

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天神様の合格応援きっぷ

 高校、大学などの入学試験を控える受験生にエールを送る「天神様の合格応援きっぷ」の無料配布が元日から、JR松江駅など県東部4駅で始まりました。JR西日本が9年前から受験シーズンにあわせて受験生などに配っているもので、学問の神様として信仰される菅原道真を祭る菅原天満宮(松江市宍道町上来待)で祈願された切符で、合格を後押しします。天満宮の宮司は私が島根県立松江南高等学校でお仕えした校長の狩野道彦先生です。 

▲松江駅の案内掲示

 他の駅は安来駅(安来市安来町)、宍道駅(松江市宍道町宍道)、出雲市駅(出雲市駅北町)。切符は縦5・5センチ、横9・1センチの名刺サイズで、受験生応援企画の「天神様の合格応援きっぷ」です。宍道駅、来待駅の駅名看板などをデザインしたカードで、改札などで希望者に無料で配布しています。裏面には菅原天満宮の写真が印刷されています。配布箇所・配布数は、松江駅、宍道駅、出雲市駅が各300枚、乃木駅が200枚。安来駅が100枚。なくなり次第、配布終了予定です。「天神様の合格応援きっぷ」は通常の切符よりも大きい名刺サイズの紙の表面に、「宍道(しんじ)→来待(きまち)」と記載されています。「宍道」に「努力が実を結ぶことを信じる」という意味が、「来待」に「いい知らせが来ると信じる」という意味が込められています。

 私は早速勝田ケ丘志学館の生徒人数分をもらって、「共通テスト」前日に生徒に配って喜んでもらいました。御利益があるといいですね。♥♥♥

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予想通り!~「共通テスト」の検証

◎「共通テスト」を検証する

 「共通テスト」が終わりましたね。受験生のみなさん、指導に当たられた先生方はお疲れ様でした。新課程入試一年目ということで傾向がどのように変わるのかが注目されましたが、リーディング】は予想通り、リスニング】は昨年通りという結果でした。リーディング】試作問題」の問題がそのまま採用され、モニター調査」通りに第1問~第8問構成で出題されました。これは私が『重要問題演習 2025共通テスト 英語リーディング』(ベネッセ)や、『直前演習 2025共通テスト 英語(リーディング)』(ベネッセ)で取り上げたままの形でした。ホッとひと安心です。私が予言したことを検証してみたいと思います。やはりここでも私が「ギャンブラーの誤謬」で指摘したこと(⇒詳しくはコチラをお読み下さい)が重要だということが分かりました。

【リーディング】

 書かずに論理的な文章を書かせる【第4問】(文章の論理の構成や展開に配慮して文章を修正する)、話さずにプレゼンを組み立てる【第6問】(自分の立場に立って、自分の意見の理由や根拠を明確に示すために複数の資料を活用して文章のアウトラインを組み立てる)が「試作問題」で公開されており、来年の「新課程共通テスト」の目玉問題となります。今行われている各社の模擬試験問題もこれらを含めた【第1問】~【第8問】の8問構成となっています。 (2024年11月12日付け)

▼予想通り「試作問題形式」を含む第1問~第8問構成となりました(解答マーク数49→44に減)。第4問と第8問に配置されました。演習や模試で練習した通りでした。やはり大学入試センターからの発信・試作問題はきちんと読んでおかないといけません。

 問題用紙が配られたら、まずザーッと第1問から第8問(?)までに目を通しましょう。大きな変更点がないかどうかを確認します。今年は新課程入試で大きく内容が変わることが予想されています。もし変更があったとしたら、それを頭に入れた上で解き始めます。ああ、ここが新しくなっているんだなと頭に入れて問題を解くのと、やみくもに最初から解き始めて途中でビックリするのとでは、心理面でも大きな影響があります。ここで覚えておいて欲しいことは、新傾向問題が登場した1年目は、問題の難易度は決して高くありませんから、落ち着いて解けば必ず解けるはずということです。 (2025年1月16日付け)

▼配置順の変更はありましたが、新傾向問題の第4問と第8問は試作問題通りの出題で、難易度は難しくありませんでした。新傾向問題が出題される一年目は難易度は《易》であることは過去の出題からも明らかでした。

 私がじっくりと読み込むことをオススメしている大学入試センターから公表されている「共通テストリーディング」に関する「問題評価・分析委員会報告書」でも、この分量の多さについての言及・苦情がありました。現場からのこれだけ強い要望と、このようなやり取りを頭に入れると、新課程の「共通テスト」リーディングでは、伸び続けた語数の増加はいったん歯止めがかかるのではないか、と私は踏んでいます。 (2025年1月15日付け)

リーディング問題文の長さに関しては、今年は歯止めがかかるのではと予想しています。(2025年1月16日付け)

▼私の予想通り、昨年度より約700語程度短くなりました。やはり「問題評価・分析委員会報告書」は読んでおかないといけないと強く感じました。今まで主張してきた通りです。

 私が「NOT問題」と呼ぶものです。「notなものを選ぶ」「errorを指摘する」「remove(取り除く)ものを選ぶ」これらは全て「NOT問題」です。いずれも今年の「共通テスト」で出題されて受験生を悩ませた問題です。正しいものを一つ選ぶ従来の設問に比べ、正しいものを一つずつ3つ外していかねばなりませんから、余計に時間がかかります。《難問》と言えましょう。これに深入りして最後に時間不足が起こらないように注意が必要です。間違いなく来年も出題されます。 (2024年11月12日付け)

remove~の形で1問出題されました(第7問問1)。物語を改善するために盛り込んだ方がよいものを二つ選べという問題も、本文に書かれていないものを選ぶので「NOT問題」の変形と呼べるものです(第6問問4)。

 私が「推測問題」と呼んでいるものがあります。今年の「共通テスト」では「most likely~」で設問が導かれていました。implyやinfer(暗示する)で導かれる問題もこれに相当します。本文に明確に書かれていないことを、書かれた内容から推測する問題です。解答が直接書かれていないことを推測して読み取るわけですから、当然難しくなります。 (2024年11月12日付け)

most likely ~という設問で推測させる問題が4問も出題されました(第1問問1、第2問問2、第3問問3、第5問問5)

 「事実」と「意見」の問題・・・この種の問題が消えるという議論がありますが、私は引き続き出題されると思っています。「意見」は形容詞・助動詞で表される特徴があることは一応頭に入れておきましょう。 (2025年1月16日付け)

▼「意見」(opinion)を選ぶ問題が一問出題されました(第2問問3)。「事実」と「意見」をきちんと区別できる力は今日のネット社会では重要です。

 正答率を見ると、出来事の並べ替えを苦手にしている生徒が多いようですが(⇒解き方についてはコチラを参照)、ここは選択肢まで「先読み」して簡単にメモしておくのが効率的です。どんな出来事が登場するのかを頭に入れてから本文を読み、それが出てきたところで番号を振っていくのです。注意することが2つあります。第7問は5つの選択肢から4つ選ぶようになっていますから、ここで5つ全部答えてしまい以降のマークの順番が狂わないように注意しましょう。もう一つは、出てきた順番が必ずしも起こった順番とは限らないことに注意しましょう。着眼点は、①時を表す表現、②時制(過去完了、助動詞)の二つです。 (2025年1月16日付け)

▼予想通り二問出題されましたが(第3問問2、第6問問1)、二問とも5つの選択肢から4つを選ぶ形式となりました。ダミーに注意です。

 「問題作成部会」の見解を読むと、「温かみのある物語文」が予告されているように感じます。私はセンター試験時代の過去問から選りすぐりの心温まる英文を読ませて送り出しています。もし他種類の英文を出したら詐欺ですよ[笑]。 (2025年1月16日付け)

▼この部分だけ(第6問)予想がハズレました。詐欺です〔笑〕。回想シーンを含む難しい小説問題で、感動や面白みはありませんでした。最後のオチ(Melodyは誰?)が分からなければ何の話なのかが全然分からない、受験生にとっては唯一酷な問題でした。この問題は正答率が目茶苦茶低くなります。

【リスニング】

 今年は特にリスニングが難しくなると思っておいた方がよいでしょう。(2025年1月16日付け)

▼形式は昨年通りでしたが、昨年よりも少し難しくなりました。注目すべき点が三つありました。

①昨年までは第1問~第3問までの配点が59点でしたが、今年は58点となりました(第1問25点→28点 第2問16点→12点)。やはりリスニングが苦手な受験生に点を取らせたい配慮です。

②第5問は試作問題Cの形式を踏襲していました。やはり大学入試センターからの発信には注意しておかなければいけません。

③第6問Bのディスカッションは昨年は4人だったのが3人に減り、受験生の負担が大きく軽減しました。

 不正行為・・・ネット全盛時代に新手の電子機器を使った不正行為が増えています。「共通テスト」ではどんな不正行為があるのですか?という質問を受けました。馳浩文科大臣の時から内容が公表されるようになりました。昨年の「大学入学共通テスト」でも、4人の不正行為を確認しています。大学入試センターによると、不正行為のあった4人のうち、2人はカンニングペーパーの使用でした。山口県内の会場で地理歴史・公民の試験時間に受験生1人が複数枚のメモを机上に置いているのが確認。広島県内の会場では受験生1人が数学2での時間に、数式が書いてある紙を机上に置いていたといいます。残る2人のうち、1人は東京都内の会場で、外国語の試験時間が終了して「解答やめ」の指示があったのに従いませんでした。過去に一番多い不正行為がこれです。試験監督の指示にきちんと従うことが大切です。もう1人は岐阜県内で理科2の試験時に不正行為とされる定規の使用が確認されたといいます。 (2025年1月16日付け)

▼今年も不正行為がありました。大学入試センターによると、不正行為のあった4人のうち1人はカンニングでした。北海道の会場で、数学②の試験時間中、監督者が、机に数学の公式が書き込まれているのを確認したといいます。別の1人は、高知県の会場で、英語リスニングの試験時間に、「解答はじめ」の指示の前にICプレーヤーを再生し、解答をしていたといいます。他の2人は、いずれも「解答やめ」の指示があったのに従いませんでした。1人は福井県の会場であった地理歴史・公民の試験で、もう1人は大阪府の会場であった情報の試験での行為でした。

 前日に「握手をお願いします。」と言ってきた生徒は満点を取りました。さあ、今から一ヶ月は個別試験私大試験に向けて「水中の陣」です。♥♥♥

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芸術は太陽と同じ

 私は故・岡本太郎(おかもとたろう)さんのファンです。前回の万博の際の「太陽の塔」が大好きで何度も大阪万博公園に足を運んでいます。誰に何と言われようと、自分のポリシーを曲げることはありませんでした。そういった生き方に強く惹かれます。岡本太郎さんは「絵を描いても、売らない」と話していたように、自分の絵画を売ることは決してありませんでしたが、公共の場所に置かれる壁画やモニュメントは、喜んで制作しています。理由は「芸術は太陽と同じ」という考えからです。太陽は地上にいる人に差別なく無条件に降り注ぎますが、かといって「オイ、あったかかったろう。いくらかよこせ、なんて掌を出したりはしないだろう。芸術もそれと同じだよ」岡本さんの言い分でした。なるほど!

▲岡本太郎「こどもの樹」

 かつて「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」というウィスキーのCM(ロバート・ブラウン)がヒットしたことがあります。そのウィスキーを一本買えば、岡本さんのデザインしたグラスが貰えたのですが、それを知ったある画商が岡本さんに、「ただでついてくるものをつくると、ご自分の値打ちを引き落とすことになるから、これからはやらないでください」と忠告します。「自分を安売りするな」という諫めなのですが、岡本さんは芸術に関心のない人が、グラスでウィスキーを飲みながら、「ああ、この顔のグラスはいいなあ」と喜んでくれるなら、「ただでもちっとも悪いことはない」と答えたそうです。岡本さんにとって芸術は誰もが楽しみ、誰もがつくりたいと思えるものでなければならなかったのです。

 岡本さんは小学校を3回も転校するほど、学校側から見ると厄介な生徒でしたが、そこには岡本さん自身の「こんな学校では学びたくない」という強い意志があったと言われています。特に岡本さんが嫌ったのは、勉強でも運動でも子どもに「等級」をつけることでした。等級という順番によって子どもは力の限界を思い知らされ、心に傷を負うことになります。優等生は「いい子」、順番が下だと「お前はどうしてそんなにダメなんだ」と言われるわけですが、ではその順番と人間の価値に関係があるかというと、何の関係もありません。学生時代の成績がいい者が社会に出て成功するとは限らず、世界を変える何かをつくり上げるとは限りません。学校の成績にとらわれず、「オレはそんな薄っぺらな物差しで測れる人間じゃないぞ、と思ってりゃいい」というのが、岡本さんからのアドバイスでした。小学校1年生の時に3回も小学校を替わっています。理由は幼いながらに小学校の先生の理不尽を嫌い、ガキ大将グループにも決して妥協しようとはしなかったからです。最初の青南小学校では「先生だからと威張り腐る」態度に我慢がならず、2番目の日新小学校はやたらと気位の高い学校の雰囲気についていけず、3番目の十思小学校はムチを振るって生徒を従わせようとする教師を許すことができませんでした。ガキ大将グループのいじめに「自殺したい」と思ったこともありますが、決して強い者に順応しようとはせずに、「スジを守る」生き方を貫きます。最終的に慶應幼稚舎に移り、以後、転校することはなくなります。後年、同級生の一人から当時岡本さんが描いた絵を見せられ、「オレは変わらないなあ、なんて貫いているんだろう、と思って嬉しかった」と振り返っています。

 時代に合わせ生き方や考え方を変えるのは決して悪いことではありませんが、「自分の意志」ではなく単に「時流」や「時世」に合わせてコロリと目先や思想を変えていくのはバカバカしい、というのが岡本太郎さんの考え方です。ついこの間まできれいなタペストリーの前に女の子を裸にして絵を描いていた人が、「そんなのはもう古い」「時代はモダンアートだ」と言われた途端に、移動準備を開始して、「新しい絵」の時代に合わせることがあります、長く孤軍奮闘、新しい絵を主張していた岡本さんとしては、本来は大勝利のはずですが、「あまり嬉しくない」といいます。時代に合わせてコロコロと変わるのは画家だけではありません。岡本さんがパリで知り合った日本人の若者の一人は、戦前は左翼思想を振り回し、戦争が始まれば途端に右翼思想に染まり、戦後は民主主義を賞賛したかと思うと、20年後には憲法改正や再軍備を唱えるようになったといいます。時代の流行に合わせて考え方がコロコロと変わるのはある意味「器用」なのかもしれませんが、実状は確固たる自分を持たない「変節」です。たとえ社会と対立しても、人には守り通すべき「スジ」があるのです。そんなことを、岡本太郎さんの生き方は教えてくれます。♥♥♥

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