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プロフィール
八幡成人(やわたしげと)
1955年島根県安来市生まれ。英語教師として島根県公立高等学校に38年間にわたり勤務。2015年3月、島根県立松江北高等学校に10年間勤務したのを最後に退職。在任中は、朝は6時半に登校し、図書館で生徒と一緒に勉強に励む。『ライトハウス英和辞典』『ルミナス英和辞典』(研究社)の編集委員を務める。参考書、問題集など著書・論文多数。趣味はカードマジック・クロースアップマジック。自宅の「蔵」には世界中から収集したマジック・グッズ(特にカード)が多数眠っている。小田和正、さだまさし、一青窈、岡村孝子、辛島美登里、西村由紀江、柴田淳、リチャード・クレーダーマンをこよなく愛する。「好きなことをやり、メシが食えて、人から感謝される」(竹内 均氏)職業として教師を選び、「英語は絶対に裏切らない!」を掲げ、英語・読書の面白さを生徒たちに毎日熱く語った。文房具マニア、プロレスファンでもある。2015年6月松江北高に常勤講師として現場復帰。2017年6月より松江北高非常勤講師。2019年4月より米子「勝田ヶ丘志学館」講師。
ニデック
「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」をモットーとして発展してきたモーター大手、日本電産の永守重信(ながもりしげのぶ)会長が、創立50周年を迎えた2023年4月1日、会社名を、ブランド名や海外子会社に使っている「Nidec(ニデック)」に変更しました。将来、一般消費者向けの商品を販売する場合には、ブランド名を浸透させた方がよいからだと言います。1973年の創業以来、日本を代表する世界的な企業になるという目標を掲げ、「日本電産株式会社」の社名を使用してきましたが、今後は原則としてグループ統一の「ニデック」を冠したものに変更し、グローバルグループ一体経営を更に進化させていきます。ちょうどかつて「松下電器」が「パナソニック」に社名変更したのと同じ理由なのでしょうね。シンボルマークを創設、ロゴマークを変更しました(上記参照)。このシンボルマークは、“目”のイメージを残しつつ、それを包み込む流麗なNをイメージしたラインで、右上がりの成長曲線も表現しています。目と同様に地球をも優しく包み込む、グローバル企業を目指す想いが込められています。永守さんは、米国留学中に多くの会社を見て回り、それらが大都市になくとも、立派に事業を行っていることに感銘を受けました。創業時の社員はわずか7名でしたが、「蒲郡から世界と伍して戦う製品を創り出したい」という強い信念がありました。鮮やかな青色は、ニデックが進むべき世界市場(大海)を表現しています。「蒲郡から広い海へ懸命に漕ぎ出していく」創業時の意気込みの表れでもあります。
そして、同社の知名度を上げるべく、人気女優の川口春菜(28歳)さんを起用した「ニデック(株)」のCMがガンガン放映されましたが、視聴者やファンからはこれがなんとも不評でした。CMでは川口さんがダウンタウンブギブギバンドの往年の名曲「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のメロディーに合わせて「あんた、ニデックってなんなのさ?」という決め台詞、「ニデック、ニデック、名前覚えてねー」と歌う単純なものでしたが、替え歌で企業名を連呼するというのが安直すぎたか、これまで川口さんが演じたCMキャラクターとは異なる濃いめのメークへの拒絶反応からか、ツイッターでは《NidecのCM、川口春奈はいいけれど、それ以外残念すぎる。最近最もひどいと思ってたCM》《川口春奈が出てるNidecのCM、時代錯誤というか、ダサすぎて見ていて辛い》といった声が続々と寄せられました。そもそもこのCMがかつての大ヒット曲のパクリであることを若い人たちは知らないでしょう。他にも、《川口春奈さんはもっとCMの仕事選んだほうがいいと思うんだよなぁ》と、安易にCMに出演し過ぎではないかとする声すら聞かれました。日本電産の永守重信会長のファンである私自身は、最初驚くとともに、他のCMとは差別化されていて、面白いなあと思ったんです。
ところがです。分からないものです。CM 総合研究所が発表した「BRAND OF THE YEAR2023」において、この極めて不評だったCMが、“消費者を動かした CM 展開 ”を受賞しました。
「BRAND OF THE YEAR 2023」は、2022年11月から2023年10月までの期間に放送された全CMを対象に、CM好感度の高かったブランドを発表するものです。また、優れたCM展開で業績の向上に貢献したブランドに “消費者を動かした CM展開”が贈られます。女優の川口春奈さんを起用した新社名や当社製品の活躍分野を告知するテレビCM「ニデックってなんなのさ?」を、1.名前覚えてね篇、2.回すもの作る篇、3.日常の裏で篇 の3篇にわたって展開してきました。この放送された CM が企業認知度の向上に貢献したことが評価され、“消費者を動かした CM 展開”を初めて受賞したのです。
今後も「One Nidec」のもと、グループ全社の総力を結集し、2030年の売上高 10兆円の達成、そして 100年後も社会から必要とされる企業であり続けるため、 “回るもの、動くもの” で地球社会に貢献していきたいと述べています。
前回 CMの特徴である、「Nidec」のロゴが描かれたつなぎ姿はそのままに、今回の新しいCMでは日常生活の中で活躍するニデックグループの製品が多数登場します。休日にテレビゲームを楽しむ川口さんが、家の中を大暴れする猫を追いかける事態に。川口さんのお部屋やキッチンにある家電製品を通じて、日常の裏で活躍しているニデックグループ製品の一部をご紹介しています。猫に翻弄される川口さんの表情や必死に追いかける動きにもご注目ください。
後継者選びで難航(過去2回社外から社長を招くものの退社)して、「永守リスク」と呼ばれていたニデックの後継者問題が、最近決着しました。創業者・永守重信会長兼最高経営責任者(CEO)は、代表権のある取締役グローバルグループ代表に就き、一線を退きます。最長で4年間は代表権を維持し、M&A(合併&買収)などを手掛けるとのことです。♥♥♥
岩谷直治さん
私が以前4年間勤務した、島根県立大田高等学校の校門を入ったところに、校舎に隣接して「岩谷会館」という卒業生会館があります。これは「マルヰガス」を創業した同校卒業生の岩谷直治(いわたになおじ)さんの寄贈による2階建ての建物です。当時、職員会議・部活動の合宿などに利用していましたが、森山祐司(もりやまゆうじ)校長の英断で、生徒の自習室に改装されました。「疲れない椅子」を入れて、生徒たちの学習の便を図りました。これは、飛躍的に進学成績が伸びた要因の一つでした。
大田農業学校(現島根県立大田高等学校)卒業。 神戸の運送会社で勤務した後、ガスの製造・販売を行う「岩谷直治商店」を
昭和5年(1930)に創業。 昭和20年(1945)年に株式会社岩谷産業に改組、以後40年間に渡り
社長を務めた。 昭和28年(1953)、50歳の時に家庭用プロパンガスの全国販売をわ
が国で初めて開始。 昭和44年(1969)にはガスホースを使わないカセットボンベ式卓上型
ガスコンロを日本初の市販化。 半生をかけてガス器具や供給機器、安全器具の開発・普及にも心血を注ぎ、
「プロパンガスの父」と称される。 昭和55年(1980)8月には大阪府堺市にLPG輸入基地を完成させ、
翌年2月からサウジアラビアからのLPガスの直輸入を開始し、輸入から
国内販売までの垂直統合を完成。 今日、イワタニ・マルヰガスグループを290万のLPガス需要家を有す
る日本最強のLPガス集団に育て上げた。生活全般から素材関連まで事業
欲は幅広く、岩谷を生活総合産業企業へと一代で築き上げた。また、次世
代燃料としての水素に注目し国内初の液体水素製造装置を造るなど先見性
もあった。
「マルヰプロパン」は岩谷産業の創業者・岩谷直治さんが、昭和28年にわが国で初めて家庭用LPガスの販売をした会社です。まだ薪や炭でご飯を炊いていた時代で、当時は「マルヰプロパン??どんなパンですか?」と聞く人がいたくらいです。岩谷さんは若い頃は大八車に溶接棒を積んで売り歩いています。岩谷さんが出張中には、奥さんが乳母車に溶接棒を積んでお得意様のところに届けていたといいます。顧客志向、信用第一という商魂に支えられて岩谷さんの事業は順調に伸びていきました。
この岩谷さんの哲学は、「大田農業学校」(現大田高校)時代、東京から来た若い担任の先生の教えに基づいています。新進気鋭の大橋清蔵先生は、当時最先端のダーウィンの進化論「適者生存」の話をしました。岩谷さんはこれに強い感銘を受け、丁稚奉公に出て日夜の仕事に励みながら思ったことは、「世の中に必要なものは栄える」ということでした。世の中が求めているもの、欲しているもの、必要と感じているものに全力で応えようとすれば、きっと世の中は喜びを持って受け入れてくれるはずだ、というものです。今でもこれは岩谷産業の企業理念・コンセプト「世の中に必要な人間となれ、世の中に必要なものこそ栄える」となって引き継がれています。創業者・岩谷直治さんの事業哲学を表現したもので、ダーウィンの「進化論」をヒントに、人も企業も狩猟型よりも息の長い農耕型の努力が必要だという思いが込められており、「世の中に必要とされるもの」が互いに扶け合うことに価値の基準を置き、社会や生活者の満足・顧客の満足を追い続けようというものです。昭和28年春、岩谷産業はLPガスの販売に踏み切りました。わが国では初めてのことだけに大冒険でした。家庭の奥様たちにとっては、「台所革命」です。一家の家庭団らんの笑顔が浮かんできますね。「世の中に必要なものは栄える」です。今でいう顧客志向にテッした商売と、命に代えても信用第一という商魂に支えられて、岩谷の事業は伸びていきました。
大田高校に勤めていた当時は、岩谷さんの名前くらいは知っていましたが、氏の人となり・哲学のことは詳しく知りませんでした。清水榮一『中村天風 運命を拓く65の言葉』(KKロングセラーズ、2016年4月)を読んでいたら出てきて、メモしたものです。今回は岩谷直治さんの人生を振り返ってみたいと思います。
岩谷直治さんは、1903年、島根県安濃郡長久村(現・大田市)に父・邦吉郎と母・ミサの五男として誕生しました。父・邦吉郎は、豪農の総支配人を務め、信州へ出かけ養蚕・製糸を学び、横浜へ生糸の販売に出向くなど、知見が豊かで厳格な教育熱心な親でした。直治さんは、父から「謙虚であれ、その姿勢を持ち続けることが大切だ」、「どんな人でもおまえより何かいいものを持っている。死ぬまで他人に教えてもらうのだ」と、事あるごとに言われて育ちました。母・ミサは、ふた回りも年が離れ、三男二女がいる邦吉郎に嫁ぎ、二男三女に恵まれ、夫と10人の子供の面倒を見ながら家事一切を一人でこなす努力の人でした。ある日、直治さんは従弟から「選挙権がない貧乏人」とバカにされ大げんかをしましたが、母から「人をさげすむことは恥ずかしいこと。相手の立場に立って考えることが正しいことですよ」と諭されました。後年、直治さんは「子どものころは分からなかったが、成長とともに両親の教えが分かり、自分の生きざまから会社の経営にまで影響を及ぼした」と語っています。
直治さんは成績優秀でしたが、父が病に伏し家計が苦しくなったために、自宅から徒歩で通える安濃郡立農業学校(島根県立大田高等学校)へ入学しました。辞書も買えず修学旅行も不参加だった直治さんの事情を把握していた大橋先生から「農学校というのは、自然と農業でもって人間を作る学校である。必ずしも農業をやらなくてもよい。世の中に出て、その人の得意の方向に向かって努力すれば必ず成功する。胸を張って一生懸命おやりなさい」と励まされました。大橋先生の教えを受けた直治さんは、進化論の適者を「世の中に必要なもの」に置き換えて、「世の中に必要な企業は生き残れる」と常に言い続け、そこから編み出した企業理念「世の中に必要な人間となれ 世の中に必要なものこそ栄える」は現在でも会社活動の礎として受け継がれています。
農学校を卒業した15歳の直治さんは、商人を目指して神戸の楫野海陸運送店へ奉公に出ましたが、奉公の初日、夜行列車の長旅の疲れもあって寝過ごしてしまいました。周りの無言のムチが身にこたえた直治さんは翌日から5時前に起床し、皆が起き出す前に掃除を終えるように努めました。5時前起床は終生変わらず、これは“同じ失敗を二度と繰り返さない”と肝に銘じたもので、会社を起こしてからは同じ失敗をした社員に厳しく戒める姿もありました。当初、直治さんは夜学に通っていましたが、授業中に仕事の疲れから襲ってくる眠気に勝てず通学を諦めました。そんな直治さんに、主人は「これをやると神戸高商を出たのと同じ実力がつく」と、通常の仕事以外に経済日誌を付けるという日課を与えました。それは、為替・株式・生糸・毛糸・綿糸・金・銀・銅など、日本をはじめ世界の相場を書き留めるものでした。それは数字一文字の誤記でも叱られるので睡魔との戦いでもありました。しかし、毎晩コツコツと一人きりで経済日誌を付けたおかげで商品や為替の動きを体得できたことは、その後の会社経営に大いに役立ちました。直治さんは、奉公先での失敗や体験からも“人のやらないことをやる”ことを学びとりました。
1952年、講演で「イタリアではプロパンガスをボンベに詰めて家庭用の燃料として使用している」ということを知った直治さんは、かまどの煮炊きに苦労している母を思い浮かべました。「主婦をススや煙から解放したい。これこそ自分がやりたかった事業である」という信念で、「金がないのなら酸素ボンベも何もかも売り払って資金を作れ」と檄を飛ばし、50歳にして不退転の決意でプロパンガス事業を始めました。当初は、プロパンガスの便利さを浸透させるためにキャラバン隊を組んで全国を行脚するなど苦労の連続でした。直治さんは「やり出したからにはガスを切らさない、安全にお届けする」という基本方針のもと、ローリー、タンク貨車、コースタルタンカーを導入し、全国規模の輸送網を整備していきました。そして夢であった輸入権の許可を通産省(現 経済産業省)に申し出たところ、輸入基地と専用タンカーを持つことや安定したソースの確保などの条件を示されました。「無謀だ」「資金の目途が立たない」と反対の声が多くありましたが、「この計画を実現させなければイワタニの明日はない」と、これらの条件を10年以上の歳月をかけてクリアし、他社に先駆けて輸入から消費先までの一貫供給体制を構築しました。直治さんはプロパンガスの普及に邁進し、奥様たちの、続いて子どもたちの一家団欒の笑顔を実現することにより、台所の燃料革命を起こした功績から “プロパンの父”と呼ばれるようになりました。イワタニは、MaruiGasのブランドで全国320万のご家庭にお届けしています。今もトップシェアを占めています。
岩谷直治さんは、生まれ育った島根県大田市を思う気持ちは人一倍でした。例えば、1956年から母校の長久小学校に本を毎年寄付し、これは「岩谷文庫」と名付けられました。1966年には島根県に財団法人岩谷育英会を設立し、1973年には母校の島根県立大田高等学校(卒業時は大田農学校)に図書館を寄付するなど、直治さんの故郷を強く思う気持ちを表しています。1973年、直治さんは古希を迎えたのを機に「社会に役立つことをやろう」と思い立ちました。持っていた自社株と現金合わせて約30億円を投じて、財団法人岩谷直治記念財団を設立。科学技術研究と国際留学生への助成を通じて、人と社会に寄与しています。直治さんは、父から「金は諸刃の剣だ。使い方を間違うと自分が傷つく」と教えられました。この教えは、会社を興してから口癖となった「儲け過ぎてはいけない」に反映され、世の中へお返しするという気持ちを終生強く持ち続けました。
2005年、取締役名誉会長・岩谷直治さんは満102歳で亡くなりました。生涯現役を全うした秘訣は「克己心(おのれにかつ)」に伺えます。直治さんは健康に人一倍気を遣い、若い頃から酒・たばこの誘惑に負けませんでした。そして、22時就寝、毎朝5時前起床、起床後30分は自己流の体操、般若心経を唱えるなどを日課にしていました。これを終生続けることは並大抵のことでなく、まさしく己に勝ったといえます。その上に好奇心が旺盛で、父から教えられた「死ぬまで他人に教えを乞え」を一つの生き方として貫き、素直に学び続けたところに岩谷直治らしさが表れています。対談された評論家の草柳大蔵氏は、「岩谷直治さんは、学校歴は浅いが、学歴は長い。学歴は学びの歴史であって、『何を学んだか』が重要です。人間は、親教・師教・世教を受けて育ち、仕事をし、家庭を作っている。その過程で人格的に非凡と平凡に大別されるのだが、岩谷直治さんは面白いことに非凡でも平凡でもないのである。凡の尺度を超えた『否凡』の人である」と評されました。直治さん自らも、87歳で受けた「私の履歴書」(日本経済新聞社)の取材にて、「実社会が学校であり、仕事を通じて出会った人すべてが先生であり、若い頃から見てきた産業、企業の盛衰が教科書だった。早く実社会に放り出された分だけ、人より長く学ぶことが出来たのかもしれない」と、人生を振り返っていました。1985年に勲二等瑞宝章を授与されました。♥♥♥
大橋純子さんのご冥福をお祈りします
2023年3月末の定期検査で食道がんの再発が発覚し、活動を再度休止していた大橋純子(おおはしじゅんこ)さんが、闘病5年、昨年の11月9日にお亡くなりになりました。享年73歳でした。北海道夕張市出身、1974年デビュー。1977年、「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」として出した「シンプル・ラブ」で、あの小柄な体格から絞り出される歌のうまさ、声の良さ、どちらも一級品で、頭角を現しました。その後、歌謡曲調の「たそがれマイ・ラブ」がヒット。同じく「シルエット・ロマンス」は、1981年の発売からロングヒットを記録して、翌年のレコード大賞で「最優秀歌唱賞」を受賞しました。歌うことに貪欲だった大橋さんは、70歳を越えても新たな音楽との出会いと進化を求めて、世代やジャンルを越えた舞台を楽しんでおられました。休養を経て復帰された時には、若い頃のヒット曲を一切歌わず、新しいジャンルに挑戦し続けておられたましたが、ポール・マッカートニーのコンサートに行った時に、大ヒット曲「イエスタディ」をギター一本で歌う姿を見て、「あー、ファンの人はこれを求めているんだなあ」と気がついて、自分の今までの思い上がりを改める決心をした、と語っておられました。あねご肌の性格もあり、決しておごることなく私たちに背中(歌う様)を見せてくれました」と、所属事務所。人の背中を押してくれる歌の力を信じて力一杯に歌い続けた73歳でした。
2018年に食道がんを公表。今年3月にも再発したことを明らかにし、療養しておられました。「夏女ソニア」でデュエットしたもんたよしのりさんも、10月にお亡くなりになったばかりです。もんたよしのりさんの訃報が伝えられた際は、所属事務所を通じて、「もんたさんの突然の悲報に接し、現実のこととは思えず、ただただ茫然としております。私が療養することになったり、 自粛期間があったりで、タイミングが合わなくてご一緒することがかなわず、とても悲しくてなりません。どうかゆっくりお休みください…」とコメントしたばかりでした。来年のデビュー40周年の節目を前に、昭和の歌姫が旅立ちました。私は彼女の歌いぶりが大好きでした。あの小さな体から、あれだけの声量はやはりすごいと言わねばなりません。
出身は夕張市。2007年3月に夕張市が財政破綻し、財政再建団体に指定されると、「私にできることは歌うこと」と、チャリティ・カバーアルバムに挑戦しました。昨年4月には、夕張鉄道の路線バス「夕鉄バス」で流れる車内案内を無償で担当したこともありました。バス停の案内だけでなく、「実家の食堂があったものこの近くです」「ここがメロンの本拠地です」など、現在もユーモアあふれる内容で乗客を楽しませています。大橋さんの声を聞きながら、観光地を巡ってみたいですね。大橋さんのパワフルな歌唱力を支えた原点の町でした。
このところ谷村新司さん、もんたよしのりさん、大橋純子さんと、歌の上手い歌い手が次々とお亡くなりになっていきます。歌謡界に大きな損失であると同時に、年代が近くこの人たちの歌を聴いて育ってきた私には身につまされます。♠♠♠
大東亜以下
一昨年、就職情報提供サイト運営、職業紹介大手「マイナビ」が学生に送付したメールに対し「所属大学によって選別していたのではないか」などという指摘が一部報道でなされ、物議を醸したことがあります。一連の騒動は、マイナビの新卒大学生向けサービス「マイナビ新卒紹介」が12月6日に送信したメールのタイトルが「<第1>大東亜以下➈」と表記されていたことを、複数の大学生がTwitter上にメール画像を投稿したことで騒動の発端となりました。「大東亜以下」は私立大学群略称の「大東亜帝国」(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学)の一部を指す点、「⑨」が同人サークル「上海アリス幻樂団」が製作しているゲーム・著作物『東方Project』を中心とする関連シリーズのひとつ『東方MMD』のファンの間で「バカ」を指すスラングとなっている点などが取りざたされ、「学歴フィルターが存在しているのではないか」との指摘が相次いで大騒動となりました。
マイナビ広報部の担当者は、次のように文書で回答しています:
「大東亜以下」という文言は、『マイナビ新卒紹介』の面談枠管理のために用いておりました。ただ、こちらの区分けにより、学生に対して何か有利・不利になることはございません。しかし、誤解を与えかねないカテゴリの区分けとなりますので、今後は活用しない所存でございます。一般的なナンバリングという認識でお間違いなく、スラングといったような意味はまったくございません。⑨という番号については、当日面談を対応できるキャリアアドバイザーの人数を表しており、当日面談できるキャリアアドバイザーの人数が変わった場合はこちらの数字が変動いたします。
担当者がコピー&ペイストで消し忘れた確認ミスによるもの、という説明でした。どう弁明しようと、大学名で学生をカテゴリー分けしていたという裏舞台が明らかになったことが、重要な点だと感じました。就活の際に、一流企業は難関大学にしか募集をかけないとか、出身大学によってもらう書類が異なっていた、といった話は、卒業生からよく聞くところです。「うちは大学名不問です。そのため、選考書類には大学名を記載する欄がありません」という企業戦略も知られていますが、実際の採用実績を見ると、ちゃんと難関大学出身者が中心となっていることは、データが裏付けています。今日も外資系企業に勤める卒業生から聞いたところでは、外資系ではその傾向は顕著だとのことでした。やはり「学歴」はモノを言う、ということですね。
大学をその名称の一部をとって並べて、グループ分けして呼ぶようになった先駆けは、1960年代後半の「早慶上智」です。1970年代から80年代にかけて、「MARCH」(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)、「日東駒専」(日本大、東海大、駒澤大、専修大)、「関関同立」(関西大、関西学院大、同志社大、立命館大)などのことばが予備校などの受験産業界に登場しました。「日東駒専」「MARCH」「大東亜帝国」「産近龍甲」といったワードを発案したのは、長年旺文社の受験雑誌『蛍雪時代』の編集長を務めた代田泰之さんです:
全国の高校や大学をまわって、大学受験について講演をすることが多かった。よく出張で長旅に出たものです。そんなとき、旅館で酒を飲みながら、大学名で語呂合わせをよく考えました。講演で聴衆が眠くならないよう、インパクトがある名称を考えたかったのです。受験生に大学を身近に感じてもらうよう、そして、つらい受験勉強を和ませてあげようという思いからです。いくつかの大学を同じような難易度、似たような歴史と伝統、そして近隣地区を組み合わせて、グループ分けしました。
一方、「関関同立」の名付け親は、1960~70年代、大阪の夕陽丘予備校の理事長を務めた白山桂三さんでした:
関学、関大、同志社、立命館、この四つの私立大が、関西では入試レベルも高く、人気もある大学なので、これを総称して“関関同立”と言うことにしようや。『大学へアタック』で、はやらせや。
私が今から20年以上前に島根県立大田高等学校で進路部長を務めていたときに、一部屋を潰して全国の大学情報を整理したり、「進路指導シラバス」を編纂、進路情報を全校生に毎週「あむーる」として提供した他、若い担任の先生方の参考に、フロッピーディスク2枚組で「LHR活用資料集」を提供して、LHR、進路指導の参考にしてもらったことがあります。教室での進路指導にすぐ役立てていただける資料が、「一太郎」、「ワード」、「エクセル」ファイルで満載のデータ集でした(校長先生も「偏差値」を分かりやすく解説した資料を寄せていただきました)。その中の資料の1つが下の大学一覧です。数年前に各地の講演会で、参加いただいた先生方に、お土産に「英語は絶対に裏切らない!~英語指導資料集~」というデータCD集(写真上)をラーンズが作ってくれて、講演に参加されたみなさんにお渡ししたところ、先生方にずいぶん喜んでいただきました。そのCDの中にこの「LHR活用資料集」は収録されております。生徒達に最新の情報を提供することが、大いなる刺激になって受験結果にも大きな成果を生むことを実感した時期でした。♥♥♥
清松庵たちばな和カフェ
◎週末はグルメ情報!!今週はカフェ
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島根県松江市の宍道湖畔にある和菓子処「清松庵(せいしょうあん)たちばな」。茶処・松江の伝統を重んじつつ、革新的な創作和菓子が評判のお店です。四季折々の美しい上生菓子は、カラフルなビジュアルと上品な味わいで、若い女性からも支持を集めます。また、宍道湖レイクサイドのロケーションを活かした「和カフェ」(茶房)も完備しており、お抹茶をはじめ、コーヒーや紅茶、おまけに系列の洋菓子姉妹店「リビドー」のケーキなども楽しめる市内屈指の人気和菓子店です。座席から日本一の宍道湖の夕日を間近に眺めることのできる最高の展望です。
「清松庵たちばな」があるのは、松江市袖師町。宍道湖岸を走る国道9号から見える場所にあり、近くには松江警察署、宍道湖に沈む夕日が最も良く見える「宍道湖夕日スポット(とるぱ)」などがあります。営業時間は9:00~18:00、元日以外は、お店の定休日はなし。駐車場は10台ほど完備しています。
店内のショーケースには、季節の上生菓子がずらり。色とりどりでキレイ、まるでケーキ屋さんのようです。反対側には「リビドー」のケーキがずらりと並んでいます(写真上)。
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店の奥にある宍道湖の絶景を楽しめる「和カフェ」で、和菓子と一緒にくつろぎの時間を過ごすのもオススメです。「清松庵たちばな」は2021年秋にリニューアルしたばかり。和モダンな雰囲気の店内にはカフェも備えられていて、カウンター席などからは、窓一面に広がる宍道湖の景色を眺めることができます。特に夕暮れ時がオススメで、運が良ければ、宍道湖に沈む夕日を眺めながらお茶とお菓子を楽しむことも可能です。菓子処・松江の本格和菓子を、気軽にカフェ感覚で楽しめる「清松庵たちばな」で、贅沢な時間をどうぞ~!私は初めてこのカフェを利用しました。注文したのは、コーヒーとお気に入りのリビドーのケーキ「ロッド」。正面の宍道湖を眺めながら、ブログ記事の校正に励みました。帰り際に目に留まった「わらびもち」が私の大好きなこしあんでプルプルで美味しかったです。♥♥♥
おいあくま
大好きな巨人軍の川相昌弘(かわいまさひろ)内野守備コーチは「バントの職人」の異名を持ち、犠打533個の世界最多記録を保持している「ダジャレ」好きの人格者です。彼の本を読んでいたら、日本プロ野球史上35年近い間 破られていない盗塁記録を持っている、世界の盗塁王・ 福本 豊(ふくもとゆたか)さんの講演で聞いた「おいあくま」という人生訓の話が出ていました。
最近の若い世代の方だと福本豊さんを知らない方もいるんじゃないでしょうか。福本豊さんは阪急ブレーブスに所属していた元プロ野球選手で、「世界の盗塁王」とも呼ばれた俊足の選手でした。昭和44年、松下電器からドラフト7位で阪急に入団。2年目にレギュラーとなり、75盗塁で初めてタイトルを獲得。以来、13年連続盗塁王となり「1億円の足」と言われました。昭和47年には106盗塁で日本記録を樹立してMVPに選ばれました。昭和58年6月3日にルー・ブロックの持つ当時の大リーグ記録、通算938盗塁を破りました(その後1993年に、福本さんの世界記録はリッキー・ヘンダーソンに破られました)。走、攻、守三拍子そろった小さな大打者として、いずれも歴代1位の通算1065個の盗塁、449二塁打、115三塁打を記録しました。
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福本さんが現役を引退してもう30年以上が経過していますが、このシーズン106個の盗塁記録は現在も破られることがない前人未到の第記録と言われています。一塁に出塁すればノーヒットでも本塁に帰ってくることのできる足は本当に魅力的でした。最近はこういう足で魅せる選手がほとんどいませんね(2023年のパリーグ盗塁王記録は36個、セリーグは28個)。かつての巨人には、柴田 勲、松本 匡史、鈴木尚広といった快足選手がいました。福本さんは通算盗塁の世界記録を更新した際、「国民栄誉賞」を打診されると即辞退しました。「立ち小便もできなくなる」の言葉が知られるようになりましたが、まだまだ現役の時代に、戒めの中の自制の言葉に沿った行動であったことでしょう。
そんな盗塁王として名を馳せた福本 豊さんは、自身の生き方として「おいあくま」という人生訓を持っているそうです。「おいあくま」とは、おこるな(怒るな)・いばるな(威張るな)・あせるな(焦るな)・くさるな(腐るな)・まような(迷うな)この5つの頭文字を取った合言葉です。この言葉の出所は、旧住友銀行の元頭取であった堀田庄三さんが、部下に対して指導した時の言葉だそうです。福本さんは、先輩に教わったと言われています。
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怒るな:短気は損だよ
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威張るな:少し結果が出たからといって天狗になるな
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焦るな:結果が出なくても根気よくこなそう
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腐るな:人事を尽くして天命を待つ
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迷うな:一つのことに心を注ぐ