「ベネッセスタードーム」リニューアルオープン

▲多摩市のベネッセ東京本社

 朝フジテレビ系の「めざましテレビ」を見ていたら、東京・多摩市「ベネッセスタードーム」がリニューアル・オープンしたことを伝えていました。これは株式会社ベネッセコーポレーションが今年、創業70周年を記念してリニューアルオープンしたものです。今から四年前、多摩市ベネッセ東京本社からの「共通テスト」のオンライン講演に出かけた際に、スタッフの方に21階にあるこの施設を案内していただいたことがあり、その時の思い出を懐かしく思い出しておりました。このプラネタリウムは、1994年に、当時の代表取締役社長・福武總一郎さん(現・ベネッセホールディングス名誉顧問)が、「社員に、日常の制約を超えて宇宙適視野の体験をすることによって、新しい視点を獲得するきっかけにしてほしい」との思いから、ベネッセコーポレーション東京本部オフィスの最上階(21階)にオープンしたものです。昨年は約1万3千人もの方が来場したそうです。企業理念である「Benesse=よく生きる」に立ち返り、宇宙を通じて私たちが生きている奇跡を実感できる場として、リニューアルしました。現代アートを通じて「よく生きる」を考える場所として福武さんが手掛けた「ベネッセアートサイト直島」に続き、「ベネッセスタードーム」が、宇宙空間への没入体験から「よく生きる」を考えるきっかけになる場所を目指しています。直島へは最近私も行ってきて感銘を受けたばかりです。

【ストーリー】
「宇宙」と聞いて、どんな世界を想像しますか?古来から人類は、美しい星空を見上げ、好奇心を抱き、その好奇心によって、「宇宙」の姿を解明してきました。この番組では、私たちが住む「宇宙」の「時間」「空間」(時空)を巡る旅に出ます。私たちが見上げる夜空に輝く天の川銀河、そして最新の宇宙望遠鏡によって映し出された様々な天体の数々。観測技術の進歩により、私たちの知る「宇宙」はどんどん広がっています。そしてそれと同時に、今なお解き明かされていない宇宙の姿もあるのです。宇宙がどのように誕生し、私たちの地球が生まれたのか。46 億年前に誕生した太陽と、そこから生まれた奇跡。最新科学で解き明かす宇宙の姿。この旅を終えた時、きっと「私たちはこの広い宇宙の一部である」ということを感じられるはずです。

  大きなリニューアルポイントとしては、中央に超高輝度のLEDを採用した光学式プラネタリウム投映機「Cosmo Leap Σ(コスモリープ シグマ)」を導入。光源に超高輝度LEDを採用し、独自の投影方式により、街中から山奥まであらゆるシチュエーションの星空を再現したり、天の川は微細な星の集合体として、肉眼で見た印象に近い形で再現することが可能となるそうです。さらに、高輝度4K プロジェクターを採用した最新式のデジタル式プラネタリウム投映機「Media Globe Σ(シグマ) SE 4KTOL」が計2台導入され、4K相当の高解像度を実現。一般的なプラネタリウム施設と比較すると約3倍〜10倍も明るい映像が投影可能となるそうです。1,590億個以上の恒星を3次元配置した銀河モデルを内蔵し、前後100万年の固有運動などのデータをもとに、広大な宇宙空間を忠実に再現します。

寝ころびスペース

▲寝ころびスペース

 座席数は61席で、リニューアル後は、靴を脱いで寝転びながらプラネタリウム鑑賞できる各回1組限定の「寝ころびスペース」(最大利用人数6名まで)が新たに設置されました。観覧料金は大人(高校生以上)600円、子ども(中学生以下)とシルバー(65歳以上)は300円。「寝ころびスペース」は鑑賞料金に加えて2,000円(※最大利用人数6名まで利用可)が必要です。

▲私が訪問した時の館内

 もう一つ忘れてはいけないことは、ここはビルの最上階(21階)にあるので、その眺めが絶景ということです。東京都心を360度見渡すことができ、遠くに富士山も眺めることができました。実に癒しの体験をすることができます。また訪れてみたい場所です。♥♥♥

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梅 謙二郎博士

 松江北高が、竹下 登若槻礼次郎と、2人の総理大臣を輩出した希有な学校であることは有名ですが(日本中で4校だけです)、他にも数多くの有名人がおられます。日本マクドナルドを創業した藤田 田さんや、今日取り上げる梅 謙次郎(うめけんじろう)博士などは、在校生は全く知りません。偉大な先輩たちのことを知ることはとても大切な学びになると思って、私はよく生徒達に話してやったものです。

 北高に着任した年に3年担任をした卒業生(東京大学)からの便りで、「この国で最も偉大な法学者の一人、民法典の起草者・梅 謙次郎は松江北高の出身です」と教えてもらいました。わが国「民法の父」そして「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」といわれる梅 謙次郎DSCN0134博士は万延元年(1860)、出雲松平侯の侍医の次男として灘町に生まれます。幼少時より俊秀の誉れ高かったのですが、明治維新後、士族の廃止により一家は零落。上京後は大道の夜店で足袋や手拭いなどを売りながらカンテラの灯りで書見に励み刻苦精勤し、東京外国語学校仏語科(現東京外国語大学)を最優等で卒業。その後、司法省法学校も首席で卒業しました。卒業後は、司法省御用掛・文部省御用掛を経て東京法学校(官立)教員に就任。フランス留学、ドイツ留学を経て、帝国大学法科大学教授に就任。その後、今の法政大学総理(=総長)に就任し、以来、51歳で急逝するまでの20年余、多忙の中を割いて法政大学のために働き続け、その間、給与等は一切受け取らなかったといいます。松江市・灘町に彼の生誕の記念碑があることを教えてもらい、早速出かけたことがあります。現在は別の方が住んでおられますが、ひっそりと石碑が建っていました(写真上)。法律の勉強を志す生徒諸君は、その名前を知っておいてよい先生です。

 私は長年松江市に住んでいます。その間西津田町にある「松江市総合文化センター プラバホール」にもしょっちゅう訪れていました。今日たまたま訪れた時、偶然敷地の隅っこの方にある石碑が目に留まりました。そばに近寄ってみると、この梅 謙次郎博士の記念碑でした。こんなところに石碑があるなんて今日まで全く知りませんでした。「灯台もと暗し」です。♥♥♥

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教員採用試験の前倒しは有効か?

 教員不足が全国で深刻化する中で、各自治体では、教員採用試験の実施を前倒しする動きが広がっています。私の住む島根県でも、今年の教員採用一次試験は5月17日に実施されます。これは、試験の実施や合格発表の時期を早めて、公務員試験や民間企業の採用との競合を図り、教員の数を確保しようとするためです。文部科学省も、全国の教育委員会に対して試験の時期を前倒しするように要請しています。しかしながら、NHKの取材によると、昨年度の試験を前年度よりも早く行った自治体のうち、8割以上で受験者の数が減っているということが明らかになりました。

 こうした状況を受けて文部科学省は、
・2025年は教員採用試験実施の「標準日」を5月11日へとさらに前倒しすること
・試験を複数回にわたって実施すること
・大学3年生のうちに試験の一部を受けられるようにすること

などを全国の自治体に要請しています(今年の全国の採用試験の日程一覧はコチラをご覧ください)。

 しかしどう見ても、これらの施策が抜本的な解決につながるとは私にはとうてい思えません。抜本的な教員の処遇改善や働き方改革を早急に進めない限り、人気回復を期待することは難しいでしょう。それどころか、こうした施策が逆に「教職はこんなに不人気ですよ」という「ネガティブ・キャンペーン」にもなってしまい、さらなる人気低下につながっていく可能性もあるでしょう。昨年度の公立学校教員採用試験を前年度より前倒し実施した機関の85%で、受験者数が昨年度より減ったことが分かっています。教員のなり手確保策として文部科学省が求めた日程の前倒しでしたが、受験者減少に歯止めはかかっていないようです。

 ここでエジプトのお話です。三人の人夫が重たい石を運んでいました。かなりの重労働です。そこに一人の旅人が通りかかり、一人目の人夫に尋ねました。「何をやってるの?」人夫は答えました。「ごらんの通り石を運んでいるんだ」(牢働) 二人目の人夫に尋ねました。「何をやってるの?」「あそこをごらん。何か建物がつくりかけてあるだろ。あのための石さ」(労働) 三人目の人夫に尋ねました。「何をやっているの?」三人目の人夫は額の汗をぬぐいながら答えました。「自分はいまエジプトの文明を築く仕事をしている最中です」(朗働)三人目の人夫には明らかにビジョンがあり、理念があり、使命感に燃えていました。この三人のうちで誰が一番良い仕事をするでしょうか?「牢働」「労働」「朗働」の分かりやすい例として挙げてみました。マネジメントやリーダーシップに関する研修のなかで、よくこういう話が紹介されます。

 教員採用試験の在り方については試行錯誤が続いていますが、はたしてその検討に当たっては「全体像」や「ゴール」は明確になっているのでしょうか?理想や使命感を突き詰めているのでしょうか?とりあえず、「石を運んでいるだけ」のような気がしてなりません。もしも、「完成予想図」がないままに安易な手が打たれているのだとしたら、よかれと思って「ネガティブ・キャンペーン」をやるような迷走が、今後も続いていくことになります。

 教員志望者を増やす対策の一つとして、文部科学省は、採用試験の1~2カ月の前倒しを各県の教育委員会に呼びかけていますが、効果は疑問、という声は多いのです。教員採用試験は日程がかぶらない限り、併願が可能なので、時期を早めても、本命ではない「お試し受験」の人が増えるだけで、結局は内定辞退者が続出、といった弊害も起きています(⇒私のコチラの記事をご覧ください)。採用試験の早期化は、「早期化すること」が目的ではなかったはず。教育改革においては、いつの間にか「手段」が目的化することはよくあります。すでに走り出したとはいえ、採用試験のあり方や方法について、一度立ち止まって、功罪を検証し、より意味のある政策を打ち出すべきだと思います。

 教職の道に進む学生・社会人は年々減少しています。2021年度の公立学校教員採用試験の倍率(競争率)は全体で3.9倍と、過去最低だった1991年度の3.7倍に肉薄しています。特に公立小学校においては、2.6倍と、過去最低だった2020年度の2.7倍を下回りました。教員採用試験の倍率は2000年度の13.3倍をピークに低下に転じ、それ以降は20年以上にわたって下がり続けています。日本の「教師のなり手不足」はかなり深刻です。倍率だけで単純に論ずることはできないにしても、13人から1人を選ぶ採用と、3人から1人を選ぶ採用とでは、必然的に人材の質に大きな差が出てくることになります。公立小学校教員の採用倍率の低下を報じた「毎日新聞」の記事(2019年12月23日)にも、「組織で人材の質を維持するのに必要とされる倍率は3倍とされ、『危険水域』を割った」とあります。2倍を下回る自治体では、危険水域どころかもう警報レベル級の段階です。 

 教師は決して子どもたちに人気のない職業ではないのに、どうして教員採用試験の倍率がこうも低下しているのかというと、その理由としては大きく次の3つが考えられます。

 1つは、大量退職、大量採用の波です。1971〜1974年頃、第二次ベビーブームで子どもの数が急激に増えました。いわゆる団塊ジュニア世代です。この時、児童生徒数の増加に合わせて大量に採用された教員が、一斉に定年退職のタイミングを迎えています。大量に退職する分を新規採用で補わなければなりませんが、思うように受験者数は増えていないのです。

 2つめは、民間企業に人材が流れてしまうことです。一般企業の就職活動は大学3年生の3月から情報解禁となり、筆記試験や面接などの選考を経て、4年生の6月頃から内々定や内定が出始めます。外資系や一部マスコミなどは大学3年生の秋には選考があるため、さらに前倒しで就職活動をします。それに対して、教員採用試験は1次が6〜7月、2次が8〜9月、そして合格発表は10月頃です。どんどん進路を確定させていく仲間たちの中で、試験勉強を続ける精神的負担に加え、不合格の結果が出てから就活をしても遅い、かといって先に就活をして企業から合格をもらっても内定承諾書の提出を待ってもらえない、という物理的な難しさもあります。給料面での格差もあるでしょう。進路変更をする学生がいても仕方のないことかもしれません。

 3つめが、教職へのイメージの悪化です。以前から教師はハードな仕事として知られていましたが、ここ10年ほどは、それが「ブラック労働」という負の文脈で語られることが多くなりました。長時間労働による教師の過労死や、教師間のいじめ問題が報道されたり、教師による体罰やセクハラ、いじめ自殺の隠蔽などの不祥事が暴かれたり、モンスターペアレントや学級崩壊に悩み疲弊していく教師たちがSNS上で声を上げたりしています。そういった情報が人々の目に触れやすくなったことで、「学校=ブラックな職場」というイメージが出来上がってしまったのです。当然敬遠されがちになりますね。

 教員の不人気による教員不足からくる深刻な事態が顕著になってきています。「教職不人気で加速する『教員の学力低下』の深刻度」という題で、『Newsweek日本版』が2月5日に発表したところによれば、教員の出身大学で、偏差値が50未満の大学出身者が4割近くになっているということも判明しました。つまり、社会の中で学力的に低いと位置づけられている学生が、学校現場で児童・生徒に教えているのです。記事でも、「倍率が高かった20年前であれば採用されなかったような人が、教壇に立っている」と指摘しています。教員の不人気から来る教員不足が、「教員の学力の低下」という深刻な現象につながっていきます。

 学校現場の崩壊が始まっています。教員の待遇改善のために政府が行おうとしていることは、効果が薄いことははっきりしています。教職調整額の4%を10%にしようが「定額働かせ放題」の実態は継続されます。

「そもそもお金云々ではなく、教員があたかも『何でも屋』のように扱われている現状を変えなければならない。現場の教員が思っているのは、『カネはいいから、時間(ゆとり)をくれ』に尽きる。教員は、教えることの専門職。この原点に立ち返り、役割革新を進めることが真の処遇改善というものだ。」

 それともう一つ大切なこと。「働き甲斐」を持って毎日の教育にあたれるように、やり甲斐や使命感のある環境を整えることが急務でしょう。教職は他の職業では味わうことのできない魅力ある職場だと私は思って長年働いてきました。いくら土曜・日曜がなくても、毎日遅くまで残業しようと、辛いと思ったことはあまりありませんでした。それを上回るものを生徒たちが持って来てくれたからです。♥♥♥

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時間厳守~「足立時間」

 この度22年も連続で「日本一の庭園」となった足立美術館の創設者・足立全康(あだちぜんこう)さんの自伝『庭園日本一 足立美術館をつくった男』(日本経済新聞社、2007年)を読んだ時に、足立さんの時間の捉え方(=「足立時間」)に関して述べた興味深い文章がありました。

 私が、目上の人と会うときに心がけたものの一つに、時間を厳守することがある。誰と会う場合でも、こちらから訪ねるときは必ず十分前には到着した。いくら金がなくても、その気になれば必ず守れるのが時間だ。こちらの都合だけで、決して相手の時間を無駄に費やさせてはならない。
 地元の人たちの間では、「足立時間」と言ったら、約束の時間の十分前にはちゃんと着くことを意味するそうだ。十分早く着いてさえいれば、相手の人の事情と都合によっては、それだけ長く面談できる可能性もある。礼儀を欠く恐れもない。
 時間にルーズな人間を、私はあまり信用しない。誠実さが感じられないと思うからである。私の経験からいって、デートの時に遅れて来るような女性は見込み薄である。だから社員はもとより、身内の者にも時間だけは厳守するように、口を酸っぱくして言っている。時間通りに来た社員には賞与をやるが、遅れた人間にはやらないというくらいに徹底した。タイム・イズ・マネーを身をもって知らせた。
 また、私は人と会う際、必ず備忘録なるものを携帯した。聞きたいこと、知りたいこと、相談したいことを予め項目別に書き記しておくのである。それとともに、そこでどんなことを話し、そのために何をなすべきかを素早くメモに書き留めた。というのも、決められた時間内に話を要領よく切り上げることが礼儀であり、ひいては第一印象を良くすることになると考えたからである。分刻みのスケジュールで動いているような人に対しては、ケジメをつけることが付き合いの第一歩だと思う。 (pp.234-235)

 約束の時間を守る、というのはとても大切なことです。誰かと会う時は私は遅くとも10分前には着くようにしています。私は現役で勤めていた頃は、「提出物は期限内にきちんと出しなさい。」と、生徒たちにいつもうるさく言っていました。期限を過ぎてから出すなどもってのほか、と厳しく指導し、遅れた提出物は一切受け付けませんでした。残念ながらここら辺をルーズにする教員がいっぱいいます。陸上の幅飛びであれ、砲丸投げであれ、ちょっとでも足が出たら即失格でしょ。信用はまずこんな小さなところから積み重ねるものです。こういう小さなことを疎かにする人は、大きなことはできません。小さな約束を守る人は成功します。ある会社の代表取締役さんの言葉です。

 会社の信用も個人の信用も同じです。口約束をふくめてすべての約束は守ることから信用は生まれる。ですから、うちで中途採用の面接をするときには、だれが何時何分に到着したか、すべて記録させていますよ。約束の時間の10分前に来ていなければだめです。時間ピッタリでもだめです。ちょっとしたアクシデントでもあったら、それで遅れてしまいますからね。10分前に来ない人はそれだけでマイナス50点です。

 島根県立大田高等学校の進路部長を務めている時のことでした。ベネッセから中・四国の大学関係者の皆さんに、高等学校の現場では大学のどんなところを見て生徒に薦めているのか、大学の魅力をどこに感じるのか、などについて話して欲しいという依頼を受けました。会場は松江市ホテル一畑」です。当日は、時間に余裕を持って大田駅を少し早い特急「おき」に乗って、松江を目指しました。とってもいいお天気でポカポカ陽気でした。車内で当日の資料などに目を通しながら、窓際は陽当たりがとても良くいい気分でした。松江の少し手前の宍道あたりまでは記憶があるんですが、あまりの気持ちよさについウトウトとしてしてしまったみたいです。目が覚めたら、すでに列車が松江駅を出発したところでした。「止めて~!」大慌てですが、もうどうにもなりません。次の停車駅まで行って、タクシーで大急ぎで戻ってきました。幸い余裕を持って出発していたので、何とか開始の時間には間に合うことができました。無事に大役を務め、大学関係者には喜んでいただくことができました。この時に思ったことは、何が起こるか分からない、やはり何事も時間に余裕を持って行動しないといけない、ということでした。もしあの時にギリギリの時程で行動していたら、大切な仕事に大きな穴を空けるところでした。

 「飛行機を使えば余裕で間に合うのになんで前日に移動するんですか?」とよく聞かれます。確かに、出雲空港(JAL)米子空港(ANA)を使えば、約1時間とちょっとで羽田空港に着きますから、午後からの講演には余裕で間に合います。新幹線でも、JR松江駅を朝5時7分の特急「やくも」で出発すれば、11時15分には東京駅に到着することができます。午後からの講演には十分間に合います。でも私は大きな仕事の時には、必ず前日入りして備えているんです。教室では、受験生たちにも、入試では必ず余裕を持って現地入りしなさい、と伝えています。実は私もずっと昔は、間に合うときには当日の移動をしていた時期がありました。これには苦い思い出があります。

 2016年7月9日に、ラーンズ主催の講演会「英語は絶対に裏切らない! 生徒の英語運用力を磨く研究会」に出かけるために、名古屋駅前の「TKPガーデンシティ名古屋新幹線口バンケットホール」を目指しました。余裕を持って松江駅を朝の5時7分発の特急「やくも」で出発して、午前10時前には名古屋駅に到着する予定だったんです。講演は午後2時からですから、名古屋城でもゆっくり見学してから会場入りしようと目論んでいたんですね。すると、特急「やくも」が伯備線の新見駅を過ぎたあたりで、突然異変が始まりました。前日に大雨・強風だったせいで、地盤が緩み、木が倒れたりしていて、超ノロノロ運転が始まったんです。もうそれはゆっくりなんていうスピードではありません。私の自転車のほうがよほど速いくらいでした〔笑〕。予定の新幹線に間に合うどころではありません。岡山駅に着いたのは3時間遅れぐらいでした。新幹線も大混雑です。無事に乗れるかどうかも分かりません。駅員さんの案内で何とか「のぞみ」号に乗り込んだものの、しばらくは立ちっぱなしです。途中、新神戸駅を過ぎたあたりで車掌さんが座席を案内して下さって、何とか座って名古屋まで行くことができました。会場には何とかギリギリで間に合いました。後で聞いたところでは、あの直後、伯備線(出雲市~岡山)は全部不通になって電車は一切止まってしまったそうです。もしあの時1本遅いやくも号で出発していたら、名古屋での大切な仕事に大穴を空けるところでした。世の中、何が起こるか分かりません。この出来事以来です。私は大きな仕事の時には、必ず前日に入っておくことを心がけています。「時間に余裕を持って」というお話でした。♥♥♥

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大下容子アナウンサー

 松江北高を辞して、平日も2日ほど昼間に家に居ることが増え、午前10時半からテレビ朝日系列の「大下容子のワイドスクランブル」という報道番組を見ることが多くなりました。同番組で長年の間メインキャスターを務めている大下容子(おおしたようこ)さん(慶応大学法学部法律学科卒業)は、生放送を仕切る確かな手腕と、穏やかな人柄が視聴者から高く支持されている同局の看板アナウンサーで、アナウンサーとしての実力はもちろんのこと、タレント気取りでもなくチャラついてもない。控えめだけどしっかりと意見もする。人の気持ちに寄り添うことのできるアナウンサーです。この時間帯の他局は芸能人が仕切る番組が多いのですが、伝える内容の中身が際立っているので、私はよく見ています。今日は、そんな大下容子さんを取り上げてみたいと思います。2019年の雑誌『THE 21』1月号(PHP研究所)を参考にしました。

 不特定多数に向けて情報を正確に伝えると同時に、エンターテインメントとして視聴者を楽しませることが求められるワイドショーの司会者として、どんな話し方を心がけているのでしょうか?「まずは基本的なことですが、『ゆっくりと、大きな声で、丁寧に話すこと』と『正しい日本語を話すこと』がアナウンサーとして最も大切だと考えています。例えば、「コンビニ」ではなく「コンビニエンスストア」と言うなど、なるべく丁寧に正しく話すことを心がけています。どんなに情報を詰め込んでも、聞き手の方たちに伝わらなければ意味がありません。舞台俳優の方が、「どんなにいいセリフを言っても、観客に届かなければ意味がない」とおっしゃるのを聞いたことがありますが、アナウンサーも全く同じです。私たちの仕事は、人に伝えることですから、ひとりよがりの独白にならないよう、『聞く人に伝わっているか』を常に意識しながら話すようにしています」 なるほど!

 正しく伝えることに加えて、ワイドショーでは面白さや楽しさも視聴者に届けなくてはいけません。「そこが一番難しいところだと感じています」大下さんも同意します。「ただ次から次へと情報を伝えるだけでは、きっと視聴者もつまらなく感じるでしょう。お昼の情報番組ですから、ユーモアや笑いをお届けすることも大切ですが、私白身がそれを発信するのは本当に難しい。あらかじめ用意したジョークを言ってみたこともありますが、狙って言うと絶対にウケないとわかりました〔笑〕。『ワイド・スクランブル』と同時間帯に放送されている他局の番組では、タレントさんや芸人さんが司会を務めているので、面白く話すという話術の面では、私のようなアナウンサーは足元にも及びません。ですから私は、その役目は他の人にお任せすることにしています。デーブ・スペクターさんのようにユーモアのあるコメンテーターがレギュラー出演しているので、私はその方たちに質問して、話を引き出す役割をする。そして、出演者のコメントを私白身も楽しむようにしています。私たち出演者が楽しんでいれば、それを見ている視聴者の方たちも楽しんでくださるだろうと思いますから」と。

 テレビ朝日のアナウンス部で女性最年長の大下さん。今では大勢の後輩たちに指導する立場でもありますが、この時も相手の気持ちを最大限に尊重することを心がけているそうです。 「今もですが、若い頃は本当に話すことに自信がなかったので。そんな中で先輩に褒められるととても嬉しかったんです。ですから私も、後輩たちの良いところをできるだけ伝えるようにしています。注意することがあっても、まずは一つでも良かった点を挙げてから、ここはもっとゆっくり話したほうがいいかもね」といった伝え方をします」 「聞きたいことがあれば、まずは自分と年齢の近い先輩に相談すると思うんです。私も若い頃はそうしていましたから。それに若手が最年長の私からいきなり注意されたら怖いだろうと思うので〔笑〕、私からはあえてあれこれ言わず、アドバイスを求められたら答えるというスタンスを取っています」

 メインキャスターという立場なら、「自分が主役」という意識が生まれてもおかしくありませんが、大下さんの考えは全く正反対です。「私は中学・高校とバレー部でセッターを務めたのですが、メインキャスターはまさにセッターみたいな仕事なんです。コメンテーターの皆さんがアタッカーで、セッターの私はアタッカーが気持ち良く打てるようなトスを上げる役目。数人いるアタッカーの誰に打たせるかもセッターに任されますが、私も番組で『今日はこの人が調子いいな』と思えば、そのコメンテーターに多めに質問したりするので、そんなところも似ています。セッターは縁の下の力持ちみたいなポジションですが、アナウンサーの仕事と共通する点はとても多いですね」なるほど、バレーボールのセッターとアナウンサーは共通点があるのですね。

 彼女のポリシーは、「アナウンサーは自分でコメントするよりも、的確に質問することが一番大事な仕事なので、『誰に何を聞くか』というポイントだけはしっかり捉えたいと思っています」そのために、大下さんはオンエアに備えて毎日徹底した準備をすると言います。 「『ワイド・スクランブル』は生放送なので、その日の放送で扱うテーマが最終確定するのは当日朝。その日の内容を確認してから、アナウンス部にある一般紙とスポーツ紙合わせて10紙に目を通して、テーマに関連するニュースをチェックするのが日課です。情報番組を20年以上やっていても知らないことだらけなので、新聞を読みながら『何がわからないのかもわからない』という状態から、『自分がわからないこと』を明確にしていきます。そうすれば、『番組の中でこれをコメンテーターやゲストに聞いてみたい』というポイントもはっきりします。こうしてしっかり準備することで、『これだけ準備をしてもわからないということは、堂々と“わからない”と言っていいのだ』と自分を安心させることもできます」

 「ただし、相手のことを理解するには、自分に余裕がなくてはいけません。打ち合わせの時も自分のことで頭が一杯の状態だったら、他人に注意を向けることはできませんよね。ですから私は毎朝6時前に出社して、早めに自分の準備を済ませます。そうすれば、打ち合わせでは周囲の様子を観察するだけの余裕を持って、人の話をきちんと聞けるからです」勘やセンスだけに頼るのではなく、うまく話すためにコツコツと地道な努力を積み重ねていることがよく分かりますね。 「キャリアを重ねれば重ねるほど、準備の大切さを実感するようになりました。できる限りの準備をしておけば、たとえ生放送中に想定外のことが起こっても、『これだけ準備したのだからなんとかなる』と腹をくくれます。今思えば、昔は横着していましたね。若い頃は、新聞もサッと目を通すだけでした。それでも、番組は滞りなく進行できるんです。うんうんと相槌を打って、『○○さん、いかがですか』と台本通りに話を振るだけでなんとかなるし、極端な話、私が何もしゃべらなくても番組はそれなりに進んでいくものなんです。でも最近は、メインキャスターを任されたからには、自分なりの視点を持って番組に臨みたいと思うようになりました。自分の意見をオンエアで口に出すか出さないかは別として、自分の考えを持って主体的に取り組んだほうが自分にとって得るものが大きいと気づいたからです。ニュース原稿を読むときも、自分の中でなんとなくでも考えるように心がけると、だんだんニュースが面白く感じられるんですね。自分が面白ければ、視聴者にもそれが伝わるはず。それに気づいてからは、台本通りに話して終わり、というやり方はしなくなりました」

 うまく話すためのアドバイスをお願いすると、こんな答えが返ってきました。 「話すことよりも、まずは相手の話を聞くことを心がけるとよいのではないでしょうか。自分が一方的に話すより、相手の話を受けて言葉を返すほうが印象に残るし、相手も気持ちよく話せるはずです。話すときも常に相手がどんな気持ちでそこにいるのかを考えて、その話に耳を傾ける。そんな聞く姿勢がある人は、とても素敵だと思います」 まさにコミュニケーション原点のコツですね。人間の言語活動は50%が聞くこと、30%が話すこと、15%が読むこと、5%が書くことだと、デール・カーネギーは言っています。「耳は二つあるが、口は一つしかない。だから口の二倍は耳を使わねばならない」というのはユダヤ人の叡知です。♥♥♥

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「九州新幹線つばめ」

 念願の九州新幹線800系「つばめ」に乗車してきました。以下は「乗り鉄」の私のレポートです。800系は実に贅沢な車両です。最高時速は260キロ。水戸岡鋭治(みとおかえいじ)先生率いるドーンデザイン研究所が監修して、内装の素材にはこだわりをもって壁や座席はクスノキ、シート地は西陣織、窓には山桜を使ってブラインド、洗面所の入り口はい草の縄のれん。この800系JR東海/JR西日本の700系を基にして設計されています。先頭車両はその面影を感じさせない独自のデザインとなっています。2004年(平成16年)の九州新幹線鹿児島開業時に誕生しました。わずか3ヶ月で乗客数100万人を突破し、その流線型ボディは多くの人々に興奮と感動を与えました。2005年には「鉄道友の会ローレル賞」を受賞しています。水戸岡先生JR九州のコンセプトは次の通りでした。「いまだかつて見たことのないものを作りたい」「これまでにないオンリーワンの新幹線」が背景にありました。2005年には日本産業デザイン振興会「グッドデザイン賞」を受賞しました。

・九州新幹線つばめは九州の文化と経済と人を結び、豊かなコミュニケーションが生まれる公共の道具であり、利用する人にとっても運用する人にとっても無理のない使いやすい公共資産としてハード、ソフトの両面でデザインを進めること。

・九州新幹線つばめは普遍性と機能美を追求すると同時に、日本であり、九州という地域のアイデンティテイを洗練された形で表現すること。そのためには先端技術から生まれた素材や工法、それに伝統的な素材と職人の技を組み合わせてコンテンポラリーに使いこなせるような公共デザインの充実に努めること。

 塗色は白をベースとして南国をイメージさせる赤と金ラインをアクセント的に窓下に配し、車両の屋上は古代漆色としています(架線から落ちるサビの色を目立たなくするため)。運転席周りはダークグレーで、特徴的なロゴと合わせてJR九州らしさを演出しています。800系のシンボルである「つばめ」エンブレム・ロゴが車両の至る所に描かれています。これが水戸岡流です(写真上)。九州新幹線800系は、従来の新幹線では考えられなかった天然木を使ったシックなものとなっていて、座席の背面に木目調の板が貼られているのが特徴です。東海道・山陽新幹線と比べるとちょっと座席が固そうな感じです。

 新幹線の700系を改良したものですが、車体のデザインは700系とは大きく異なり、先端部はカモノハシ形状ではなく、ロングノーズ型です。「カモノハシ以外の顔にして」というJR九州からの要望により、700系のデザインは最終的に二案が残り、カモノハシ型が選ばれることによって採用されなかった方の設計図を基に描き直した車両です。先頭のライトは「出目金」です。長さ2メートルの縦目です(⇒詳しくはコチラ)。車内の客室の照明が明るすぎないように、アクリルカバーにオリジナルデザインのストライプ柄の乳白色のシートを貼りました。柔らかい目にやさしい光の室内になりました。乗り降りに便利な幅広いドアはユニバーサルデザインを意識しています。6両編成全てが普通車で、座席は2+2列配置でゆったりとしたつくりになっています。

 しかし、実際に座ってみるとそんなに狭くはありません。快適な座席です。また、テーブルは中央のインアーム式のテーブルとなっているため、隣に知らないお客さんが座ってきてもあまり近くならなくていいのです。背もたれが高く大きくなっているので(ハイバックチェア-)、前に座っている人の頭が見えないようになっています。

 新幹線としては初めて天然木の座席が採用されました。他の新幹線にはない、落ち着きがあっていいですよね。プライウッド(積層合板)と呼ばれる薄い板を11枚重ね、それを型に入れて数十トンの圧力で加熱成型されているので適度な弾力感が味わえ、さらには車体の軽量化にも一役買っています。椅子は背もたれの厚みが3~4割薄くなった分、10センチくらい膝前が広くなっておりその分だけ座面に奥行きができ、しっかり深く座れて、思い切り足を投げ出すことができます。一方座席の高さは少し低くしています。こうすることにより、背の低い人や子どもでも足が中に浮くことがなく身体を支えることができます。背もたれを高くしたスタイルによってプライバシーを適度に守り、旅に安心感を与え、その奥行きの深い座り心地はまるでホテルのラウンジチェアーのようにくつろぐことができます。このような小さな所のデザインにも工夫を凝らすことで、座り心地がずいぶん違ってくるのです。壁や座席はクスノキ、シート地は西陣織、と豪華です。「和」「伝統」「日本らしさ」をコンセプトにかかげた斬新なデザインです。座席の背もたれや肘掛け、テーブル、上部の荷物ラックをはじめとして内装には「木」がふんだんに用いられています。「人の手が触れる場所は極力温かみを感じる木材を使いたい」という水戸岡先生のこだわりです。当時この九州新幹線、新八代―鹿児島中央間は、そのおよそ70%がトンネル内での走行となっていました。そのため、窓の外の景色を楽しむことができなくても、車内で退屈せずに過ごしてもらいたい、そんな思いを込めて実現したインテリアです。

 800系新幹線は、東海道・山陽新幹線を走っていた700系新幹線を基に開発されています。特に車体のシステムなどについては700系新幹線を受け継いだところも多いので、窓枠の周辺部分は700系新幹線と似た雰囲気です。しかし、車窓にかかるすだれのようなシェードを閉めてみると全く違う。シェードは700系新幹線のように布製ではなく、すだれになっています。九州山地の山桜が陽光を和らげる木製のロールブラインドです(写真上)。よく見ていただくと分かりますが、座った人の目の高さより少し下に来る部分が竹ひごのように木を細くして、外が見えるようにしてあります。このアイデアは、すだれや雪見障子、殿様が乗った駕籠ののぞき窓からヒントを得ています。木漏れ日を感じながら、外にいるような気持ちで乗ってもらおうという狙いです。こういうところはJR九州らしくて、粋だなって思います。山桜は天然記念物ですから、切ってはいけないので市場にはないことになっています。JR九州の車両課の人のおじさんが材木屋をやっておられて、台風で倒れたり折れたりしたものをまとめて積んでありました。切ってはいけないけど、自然に倒れたものはいいわけです。これをJR九州が全部買い取ってブラインドに使いました(水戸岡鋭治『鉄道デザインの心 世にないものをつくる闘い』(日経BP社、2015年))。

 座席は木を多用したぬくもりのあるデザインです。座席の背面は木目調になっています。しかし、ちょっとした荷物を引っ掛けることができるフックがあるので便利。ここにお土産などを引っ掛けておくことができます。テーブルはJR九州でよくあるインアーム式

テーブルはJR九州でよくあるインアーム式

 蓋を開けるとテーブルが出てきます。一番上の部分には紐がついているので、この紐を引っ張ってテーブルを引き上げることになります。

テーブルはJR九州でよくあるインアーム式

 テーブルを出すとこんな感じ。思ったより大きいテーブルで、お弁当くらいだったら広げられますね。

テーブルはJR九州でよくあるインアーム式

 2つの格納テーブルを出すとこんな感じです。2人での旅だったら、ここでお弁当を広げて、なんてことがしやすくていいですね。「短い旅にも豊かなひとときを提供したい」というJR九州の方針で採用されました。

 800系新幹線は、車両ごとに座席のデザインが違います。こういったところにもちょっとした遊び心があります。座席は全て2+2列のゆったりとしたつくりの4列シートです。床はプラスチックで節約を図っています。

 1号車は主に、緑を基調とした座席になっています。

車両によって異なる座席の色を全て紹介!違いを楽しむのも面白い

 2号車は青を基調とした座席になっています。

車両によって異なる座席の色を全て紹介!違いを楽しむのも面白い

 3号車はエンジを基本とした座席になっています。

車両によって異なる座席の色を全て紹介!違いを楽しむのも面白い

 4号車は、どうも1号車と同じ座席のモケットのようでした。

車両によって異なる座席の色を全て紹介!違いを楽しむのも面白い

 そして5号車は4号車と同じ座席のモケットの様子。

車両によって異なる座席の色を全て紹介!違いを楽しむのも面白い

 最後に6号車。こちらは2号車の座席のモケットと同じようでした。このように、車両によって座席の色が異なるのも大きな特徴です。乗る度に違う雰囲気を味わえるような工夫を施していて、布地には唐草模様を織り込んだ西陣織の技術を採用することで、座り心地の良い椅子に仕上げられています。

 現在、新幹線ではほぼ全ての座席に、普通車でも少なくとも窓側にはコンセントが設置される流れになっています。しかし、この800系新幹線には一部座席しかコンセントがありません。コンセントがあるのは、各車両の最前列の座席と最後列の座席です。最前列の座席以外にはコンセントがありませんので注意しましょう。今までいろいろな新幹線に乗ってきて、窓側全ての座席にコンセントが配置されていないのは800系と、山陽新幹線700系・500系くらいだと思います。

最前列・最後列の座席だけにはコンセントがある

 車端部には「荷物置き場」も装備されています。後付けされたようで、西九州新幹線に設置されているものと構造自体は同じよう。西九州新幹線N700S系のものが800系の車内に合うように木目調に変更されています。

 東海道新幹線では絶対に考えられないですね。デッキは黒を基調としていて落ち着きがあります。渋めの色調と控えめな照明で、日本の旧家をイメージし、ほの暗さの先に最上級のもてなしを演出しています。そして至る所に絵が飾られていて癒やされます。美術館のような雰囲気すら感じます。N700系新幹線の内部にはこのような装飾はありません。

▲和の伝統を感じることができる広々としたデッキスペース

 扉には号車番号が書かれています。これは、車両外部の、扉の横に書かれた号車番号と同じデザインです。

 洗面台も天然木が使用されています。お手洗いの内部の様子は至って普通。ですが、ウォシュレットが使えません。新幹線や特急列車をはじめとして、ウォシュレットが使用できる車両が増えているので、リニューアルをするのであれば是非とも検討してほしいところ。トイレ内部にも和風の絵が飾られています。洗面所の暖簾い草製です。い草が持つ湿度調整機能や、耐水・消臭・殺菌作用に着目した新しい発想のデザインです。地元の八代平野は日本有数のい草の産地でオリジナリティを実現しています。こういったところにも配慮しているんですね。

 床面は窓側と通路側で正反対の色を使い、専有面積を明確にしています。よく見てみると、本来座席の中央である部分より通路側に境界線が引かれています。占有面積を見るとどうしても通路側より狭くなってしまう窓側、少しでも広く撮ろうとこのようにしたのだと思われます。床は白の地に日本の伝統の格子の柄が入っています(写真上)。このようにを入れておくと、床の汚れが目立たないからです。点の連続が視覚的にはラインに見えるのですが、そのラインをきれいに揃えるのがメーカー泣かせだったそうです。

 新幹線ではもはや当たり前となった、車内でのWi-Fiサービスが利用できます。Wi-Fiマークはほぼ全ての新幹線につくようになりましたね。800系新幹線でも全ての列車で車内のWi-Fiサービスが利用できます。

 九州山地の山桜が陽光を和らげる木製ロールブラインド。ブライウッド製の窓下テーブル、木製のラゲージラックなど、木のぬくもりを随所に活かしたエコ・デザインが特徴です。

 800系新幹線が駆ける大地は照葉樹林がかがやくところ。東シナ海の波打ち寄せる九州です。そこに暮らす人びとのいとなみが創造する伝統の技を新幹線に生かしました。洗面室にあしらわれた八代い草の「縄のれん」もその一例です。インテリアには,これまでの鹿児島産樟の壁宮崎産山桜の木部八代のい草の縄のれんに加えて,鹿児島・川辺仏壇の木彫り・蒔絵・彫刻,博多織久留米餅など九州の素材・工芸品を使用しています。本らしさ、九州らしさにこだわった内装には、荷棚やテーブル、窓台に九州の木や、織物をふんだんに使用し、車両ごとにそれぞれ異なる座席のデザインが採用されています。このように800系は間違いなく内装の素材にこだわった贅沢な車両です。700系と比べれば高くて当然と思われるかもしれませんが、原価に大きな差はないそうです。

 水戸岡先生が新幹線のデザインに携わりながら実現できなかったことがあります。床が木の食堂車ビュッフェバーカウンターを設けることができませんでした。「胃袋の共有」という先生の信念は、残念ながらここでは実現できませんでした。♥♥♥

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「華漸」

◎週末はグルメ情報!!今週はラーメン

 日本海テレビの特番で、鳥取県のソウルフードである「牛骨ラーメン」を特集していました。その中で出てきたのが、85歳のご主人が奮闘される赤碕町「香味徳」(かみとく)米子市「がんこラーメン華漸」(かぜん)でした。「香味徳」は私もお邪魔して(⇒私の紹介記事はコチラ カップ麺が「鳥取ゴ-ルド」として販売されています)実に美味しいラーメン屋さんでしたから、ぜひ「華漸」も行かなくてはいけません。期待感が高まります。テレビでは朝5時から営業しているという同店の「朝ラーメン」の紹介をしていました。お店は米子港市場からも近く、「日の丸ラーメン」「お好み焼きチコ」の間にありました。大きな看板はありませんが、店先に立派な牛骨がぶら下がっています。これが営業中の印です。店前の駐車場は20台が駐車可能ですが、他の施設と共有となります。

 こちらでは、 定番の醤油や塩ラーメンのほか、地元の旬の食材を活かした日替わり限定ラーメンを5、6種類提供しています。取材時は、蟹を大量に加えた濃厚な出汁を使った「極悪魔ラーメン」などが日替わりとして提供されていました。メニューの札に圧倒されるカウンター席とテーブル席が用意されています。

 「がんこラーメン華漸」牛骨ラーメンは、スープが透き通っているのが特徴です。米子にある牛骨ラーメン店はどちらかと言うと濁ごりのある見た目ですが、東京で修行を積んだため作り方が若干異なるため透き通っています。麺も牛骨ラーメンでは珍しい細麺縮れ麺です。スープがよく絡まり、ツルツルと食べることができます。

 定番は醤油ラーメン、塩ラーメン、ざるラーメンがあり、醤油ラーメンはあっさりとこってりの二種類から選ぶことができます。限定麺は複数種類が日替わりで数量限定で販売されています。各ラーメン、ハーフサイズも扱っています。なお、「がんこラーメン華漸」では限定麺を含め、ほとんどのラーメンが牛骨ベースとなっていて、トッピングも多数用意があります。トッピングのおすすめ三種盛では鶏ささみ・刻み玉ネギに加え、塩麹でつけた卵のセットが320円で、お得となっていると案内されました。「がんこラーメン華漸」の牛骨スープは、牛骨の他に豚骨、鶏のモミジ、数種類の魚介類、野菜、果物をブレンドしていることもあり、牛骨の良さを残しつつ、臭みが全くないスープですので、牛骨初挑戦の方や、朝からラーメンを食べる方におすすめです。私は「醬油ラーメン」(あっさり)ネギ玉子のトッピングをお願いしました。注文してからラーメンが出てくるまでの早いこと、その早さにビックリしました。一緒に頼んだトッピングの塩麹卵は味が強く、単品としても楽しみたいくらいです。麺は自家製で極細手もみちぢれ麵。つゆも絡みやすく、最後まで噛み応えが残りながらもプルっとした吸い感。ゆであがりが早く、注文を受けてから1分もしないうちに出来上がります。食材を手にしてひらめくオーナーの想像力は無限大で、総メニュー数は「もうすぐ300種類になりそう」だとか。

▲美味しそうだが…

 米子では珍しい朝ラーには、「夜勤明けの方などがコッテリした、美味しくて、早いラーメンを食べて欲しい」という思いがこもっています。通勤前に朝食として食べに来られる方や夜勤明けの利用客が多いそうです。ラーメンも注文から30秒ほどで運ばれてくる「早メン」だそうです。「がんこラーメン華漸」「がんこ」とは、「美味しいうちに早く食べてほしい」という一念です。そのため、タバコや注文後の離席、携帯電話の通話は遠慮してほしいというお約束・注意があります(写真右)。また、最初の一口は素材の味を楽しんで欲しいためテーブルに調味料はありませんが、必要に応じて後から提供してもらえます。れんげがないのも特徴でした。山陰放送の「テレポート山陰」でも特集をしていました。店主さんは航空自衛官からの異例の転身だそうです。

 さて全体のお味の方ですが、残念ながら期待外れでした。あっさりし過ぎていて、細麺はまるでソーメンを食べているようでした。物足りない!私のラーメンのイメージとは大きくかけ離れていました。リピーターにはなりそうにありません。お隣の「日の丸ラーメン」の方がよかった(⇒私の紹介記事はコチラです)と感じました。テレビは当てにならないなあ~。♥♥♥

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「クリスマスの約束」最終回~第二部

 シンガー・ソングライターの小田和正(おだかずまさ)さんが出演する聖夜恒例の音楽特番「クリスマスの約束2024」第二部が12月24日の第一部「22分50秒」)に続いて、私の地域では12月28日の深夜(2~4時)に放送されました。2001年に始まり、ほぼ毎年続けられてきましたが、コロナ禍で3年ぶり20回目の節目となる今回をもって、最終回となりました。素晴らしい番組を24年間20回も続けて、クリスマスプレゼントとして届けてくださった小田さんに感謝したいと思います。

 小田さんの言葉を借りると、ご自身の体力的な問題(77歳)や、多くの曲を覚えるのに時間がかかったり、このまま続けていてもこれまで築き上げてきた「クリスマスの約束」というものを越えられないのでは、という思いもあったようです。選曲からアレンジやリハーサルを含めて、濃密な時間をかけてとても丁寧に作り上げる番組なので、準備には小田さんやアーティストにかかる負荷は非常に大きく、そういう意味でもご自身の体力や気力の部分、参加アーティストのスケジュール等を含めて、目指す番組のクオリティの高さを実現し続けることが果たしてできるのか?と自らに問いかけ、導き出した答えだと思われます。小田さんの言葉の通り、番組は求められているうちに終わるということが大切だ、ということなのでしょう。

 『クリスマスの約束を楽しみにしています』、と言ってもらえるうちに番組を終えることにしました。寂しいけれど、きっとそれがいいと思ったのです。(小田和正)

『クリスマスの約束2024』(12月3日KTZepp Yokohama)

 小田さんの熱い想いや希望が込められた音楽ステージ。魂を揺さぶられる演奏の数々。各アーティストが創り歌う曲を、皆で尊敬しながら歌うことで心が高まり盛り上がり、そこに感動が生まれる様子を今まで目の当たりにしてきました。番組のメイキングでは、企画から練習から、リハーサルまで妥協や手抜きのない真摯な態度で誠実に練習に向き合う小田さんや、メンバーや出演者の皆さんの真摯な姿にも感動しました。そして長年続いたということは、様々な音楽シーンに挑戦した小田さんの成果ということでしょう。有言実行の小田さんの素晴らしい功績です。それら全てに尊敬、そして感謝です。

『クリスマスの約束2024』(12月3日KTZepp Yokohama)

     最終回の一曲目は、2001年第1回目の放送時の一曲目「言葉にできない」でした。あなたに会えて ほんとうによかった 嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない>というフレーズが(本当はオフコースを脱退していく鈴木康博さんに向けられた曲でしたが)、小田さんからアーティストとファン、そして制作スタッフへの24年間の感謝の気持ちが込められているかのように会場に響き渡りました。そもそも小田さんはテレビの音楽番組には一切出演しないことで知られていました。20代の頃に「大事に扱ってくれない場所」との印象を度々抱き、「口パク」を求める演出にも違和感を持っていました。当時TBSの阿部龍二郎プロデューサー(現TBSホールディング社長)「現在あるものとは違う音楽番組をやってみませんか?」小田さんに打診し、その時53歳だった小田さんは「アーティスト同士がお互いを認め、愛し、尊敬することで日本の音楽シーンは成熟する」という思いを抱いており、双方の思いが結実した番組がスタートしました。小田さんはオフコース時代を含めて、他のアーティストとの共演が極端に少なかったことはご自身でもおっしゃっていますが、1983年頃、小田さんは日本版グラミー賞設立を目指して奔走したことがありました。そこには日本の音楽業界はもっとアーティスト同士がリスペクトし合い、もっと一緒に音楽をやるべきだという強い思いがあったと思います(結局挫折してしまいましたが)。2001年当時、小田さんはこれからの自身の音楽人生を“黄昏”という言葉で表現していたと思いますが、もっと色々なアーティストと一緒に音楽をやるべきだった、という思いが強くなっていたようです。その思いを形にするというプロセスの中で、小田さんが曲を選び、それを自分でアレンジしバンドと共に演奏してもらう。何組かのアーティストには自分で手紙をしたためて、出演の依頼をするというこの番組が生まれることとなりました。

     「誰かの歌を評価し、発表するということが、日本の音楽文化を次のステップに進ませるんじゃないか」という思いが根底にあり、初回(2001年)は、山下達郎を始め7組のアーティストに小田さん自身が手紙を書き、出演のお願いをしましたが、結果的にゲストなしで行われました。この時小田さんは「ゲストが誰も出てくれないのがドラマ」と語り、プロデューサーの阿部さんは「小田さんに恥をかかすようなことはできないなので、やめましょう」と進言しました。でも小田さんに「もし君らさえよければ、繕うことなくありのままを伝え、ひとりで懸命にやるけれど」と言っていただけて、収録の準備を続けました。第一回目の印象的な冒頭シーンは今でもはっきりと覚えています。

『クリスマスの約束2024』(12月3日KTZepp Yokohama)

 お待たせしました。結論から言いましょう。今日は、誰も来ません。(悲鳴)なんで、そんなに嫌がるんだよ、ひでぇーな、ま、期待させた僕が悪いんだけど。でもそんなこと言って、最後に誰かくるんじゃないのって、来ないって、私が最後まで引っ張っていきますから。まあ、僕もさんざん断ってきました。オフコースの時は、もう何頼まれても『出ません』『出ません』、全部断ってきたので、よくわかります。もう一人で歌うわけですよ、これから。で、私は、どんな歌を選んだでしょう?初めてなんですよ、人の歌を歌うのは。ほとんどカラオケにも行かないし。今回、人の歌を歌ってみたら、とっても貴重な経験をいっぱいしました。それぞれの楽曲には、それぞれ素晴らしい世界があって、お世辞抜きで、僕は感動しました。一曲目です。

 そんな軽妙なトークの後に、一人でステージに立ち、一曲目としてSMAP「夜空ノムコウ」を歌いました。ゲストは誰も来ないと宣言しているにもかかわらず、それは不思議なほどにワクワクさせる始まりだったのを覚えています。3年目にようやく、ゆず財津和夫桜井和寿らが初めてゲストとして出演した後は、毎回ゲストと美しいハーモニーを会場全体に響かせてきました。中でも大きな話題になったのは、「落陽」などを吉田拓郎と歌った2013年や、宇多田ヒカルが出演した2016年。歌ったことがない曲に挑戦したり、番組のために制作したオリジナル曲を熱唱したりするのも見どころの一つでした。2009年には、その年の出演者21組34人の楽曲をつないだメドレー曲「22′50”(22分50秒)」を全員で歌い上げ、最後の曲「帰りたくなったよ」の後はしばらく拍手が鳴りやまず、小田さんも言葉を失いました(⇒第一部の私の解説はコチラです)。ゲストの楽曲を通じての交流を機会に触発し合う、この曲はこんな可能性を秘めていて、もう一度それを見つめ直して「いい曲だよな」と提示することで、そのアーティストの潜在的・顕在的な魅力を、「みんな忘れかけているかもしれないけど、こいつはそんなもんじゃないよ」と伝えたり、「もっとこいつに頑張らせよう」という思いをその一曲に込める、という小田さんなりの信念がありました。若いアーティストの場合は「こいつらこれだけの曲を書くやつだから、この先もちょっと見守ってみたいな」というお節介な思いもあったと吐露しておられます。共演するアーティストたちと厳しい練習を重ねていく様子は、まさに『小田学校』とでも言うべきものでした。小田さんの求める理想を周囲が理解できず、時にはぶつかることもありましたが、それを乗り越えたところに奇跡的なステージが生まれました。「先が見えないからと目先のことで済ませず、言葉にできない何かに向かって力を合わせる。すると誰も見たこともないものが生まれると、私も小田さんから学んだ」阿部社長

 さていよいよ第二部です。いきなり、「風を待って」で番組が始まりました。小田和正さんとゲストの皆さんの共演です。今回の出演者は、小田和正、水野良樹(いきものがかり)、和田唱(TRICERATOPS)、熊木杏里、松たか子、JUJU、矢井田 瞳、根本要(STARDUST REVUE)、です。続いて小田さんのMC。「クリスマスの約束は一度だけの放送で終わるはずの番組でした」という話しから始まります。このMCの中で20回目の今回の「クリスマスの約束」を最後にすると衝撃の発表が読み上げられました。観客の姿が画面に映し出されていましたが(当初の頃はきれいな女性の観客が涙するところがカメラで大写しになるのが特徴的でした)、最初は小田さんの言葉が直ぐに理解できなかったようで困惑した表情、そして意味が次第に分かり涙をする観客の姿が映し出されます。小田さんのソロで「言葉にできない」が演奏されます。こちらの曲は「クリスマスの約束」の第一回目の放送で一曲目に採用された記念の曲です。そして、「クリスマスの約束」で過去19回放送された番組の中から編集された映像で歴史を振り返るというコーナーに続いていきます。会場に行った観客も含めて過去映像を見る形になったのだと思いますが、本当は最後なので、ゲストの方々の楽曲も含めて、もっと生で聞きたかったのではないかと感じました。ちょっと過去の映像シーンが長すぎた気もします。数々の名曲が流され、小田さんのアレンジによる見事な「追っかけコーラス」は健在でした。その中で私が特に印象深かったシーンは3つ。一つは現在休業中の山本潤子さん(ハイファイセット)の透き通った歌声を聞き、「あー、この人はやはり歌が上手いなあ。アマチュア時代に小田さんを負かしたボーカリストはさすがだなあ」と思いました。小田さんのことを「小田くん」と呼び、小田さんは「ジュンコばばあ」と呼ぶ盟友同士です。もう一度カムバックしてもらってあの歌声を再び聞きたいものです。2つ目は、さだまさしさんとのコラボシーン。二人で共作した「たとえば」のデュエット(入院中のベッドで私を一番勇気づけてくれた曲です)に、「wow wow」の澄んだハーモニー、最高でした。3つ目。矢井田瞳さんのために書いた「恋バス」久しぶりに聞きました。クリスマスの時期になるとなぜか無性に聴きたくなる一曲なんです。小田さんのハモリと追っかけコーラスが見事な名曲です。

 過去の振り返りはここで終わり、ここからは全員コーラスのクライマックスへと向かいます。The New Christy Minstrels「TODAY」、アマチュア時代にオフコースでよくハモっていた曲です。そして最後の最後は、小田さんの「この日のこと」を全員でコーラスしました。

 収録後の小田さんの感想です。「寂しくなるだろうな、と思っていたけれど、やっぱり理屈抜きで寂しいなと。最後のナレーションの収録で、過去のVTRを見たら懐かしく感じましたね。最初のころ、訳も分からないのに、大口たたいて始まったんだなあって(笑)。」「クリスマスの約束」が終わることになってからは、あまり聴いてませんね。普段の生活ではほとんど聴かないし、年末のこの番組のために聴いているところがあったからね。良い曲はないか、良い曲はないかなって。だから好みの曲に出会えた時はうれしかったですよ。でも偉そうなこと言っているけど、自分の趣味でもあるからね。最近の曲はダンスとセットだったりして20年前とは大きく違うから、改めてなんか見つけなきゃ、って聴くことがさらに少なくなりましたね。」

 この番組「クリスマスの約束」の初回から今回に至るまでの歴史と舞台裏を、会報「Far East Cafe Press」最新号(Vol.410)で、追分日出子さんのインタビュー記事を読むことができます。また、『朝日新聞』2025年1月9日(木)付けでも「ラストクリスマス 小田和正の満願」と題した記事が掲載されました。♥♥♥

▲『朝日新聞』にも取り上げられた!

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Dinner is on me.

 1991年1月、故・ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、冷戦終結後のアメリカの経済関係や政策について議論するため、12日間にも渡ってアジア・太平洋地域を巡る外遊を行いました。1月8日には日本を訪れましたが、歓迎会が始まる前、首相官邸の玄関で招待客に挨拶している最中、トイレに急ぐほどの状況で、会の最後まで身体がもつかどうか不明である、との情報も密かにシークレット・サービスには伝えられていたほど体調面に不安のある状態でした。それにもかかわらず、その日の夜には、当時の日本の首相である宮澤喜一首相が首相官邸で開催した歓迎会に出席しました。外務省が公開した「極秘」づくしの外交記録文書によれば、首相官邸のホールで行われた歓迎会の晩さん会でスピーチを予定していたブッシュ大統領は、午後8時20分頃、食事中に失神し、宮澤首相の膝に嘔吐しました。バーバラ・ブッシュ夫人は、テーブルクロスで夫の顔を覆い、その後、ブッシュ大統領はかかりつけの医師であるバートン・リー博士「ディナーが終わるまでテーブルの下で寝かせてくれ」と口にし、「晩さん会の参加者には『インフルエンザである』と言ってほしい」と伝えました。大統領の異変に気が付いた会場は、沈黙の後騒然となり、同時にホールの外からは警護が駆け付けました。すぐに救急車が呼ばれ、一時騒然となりましたが、5分ほどしてブッシュ大統領は立ち上がって、ちょっと皆さんの注意を引こうと思って」とジョークを飛ばしました。公開されたホンネは「気を失ったことは全然覚えていない。自分は神秘主義者ではないが、最後に記憶にあるのは、静かな天国にいるような心地であったことである」とのことでした。吐いたことについては「よく覚えていない」ということです。会場ではやがて場を取り繕うように、スコウクロフト大統領補佐官が大統領の挨拶文を代読しましたが、バーバラ大統領夫人が急に立ち上がって、「私はここにいます。私が席を立つと、世界に悪いサインを送ることになるのでここにいます」と挨拶すると、会場からは大きな拍手が起きました。そして、「皇太子さまと午後に、テニスを一緒にやったのが良くなかったのかもしれません。ここにいるアマコスト大使(駐日米大使)も一緒でした。ブッシュ家の家訓ではテニスに負けるわけにはいかないのです」とウィットに富んだスピーチを続け、大食堂には安堵と大きな笑いが起きました。ぽっちゃりとした夫人の素晴らしい機転に一同感服したのでした。「日本人にはとうていできないことだ」と、彼女の機転を評した人も少なくありませんでした。

 公の場で倒れて弱い姿を国民にさらしたブッシュ大統領は、その後の大統領選挙でクリントンに敗れます。昨年の選挙戦のさ中にトランプ候補が狙撃された時、耳から血を流しながらも、こぶしを高く突き上げてアピールしたのが印象的でしたが、強い姿を見せることが、選挙キャンペーンにはとても重要であることをよく分かっていたためでした。事実、この直後のトランプ人気は急速に高まりましたものね。

 欧米ではスピーチの際、発するジョークのセンスは発言者の洗練度、人間的奥行きの深さを測るバロメーターとも言われますが、日本にはそういった文化はありません。このジョークを理解できるかどうかは、日本人にとっては実に難しい問題を含んでいます。一例を挙げてみましょう。

 1992年、当時のジョージ・H・W・ブッシュ米大統領が来日し、晩餐会で倒れた際の宮澤喜一首相の機転を利かせた対応力は見事でした(彼の英語力は抜群でした)。宮澤首相は、駆け込んできた米国のガードに『テーブルの上に立っていろ』と即座に指示したのです。バルコニーのテレビカメラの存在を知っていた宮澤首相は、ブッシュ大統領のぶざまな姿を衆人、それこそ世界に見せるわけにはいかないと、ガードを机の上に登らせテレビカメラから遮断させたのでした。その瞬時の判断たるや見事でした。その後、大統領の職を離れた後に、同氏が米資系企業の日本事務所開設の祝宴に招かれて来日したことがあります。そのときの同時通訳を担当したのが、日本の女性同時通訳の草分けで第一人者だった長井鞠子(ながいまりこ)さんでした。ブッシュ元大統領は、スピーチで1992年の出来事に触れ、「宮澤氏には、あのときのお返しがしたいのでテキサスの我が家に来てほしい、もちろん今度は“Dinner is on me.”で、とお願いしてあります」と言ったのです。ここで、英語の発言が分かる聴衆は大笑いしました。この笑いが私たちには理解できませんでした。一体なぜ?1992年にブッシュ大統領が倒れた際、隣にいた宮澤首相の膝の上に嘔吐した姿はニュース番組でも映像として報道されました。この時発言したDinner is on me.”には、「今度はわたしのオゴリで」という意味と「今度はわたしの上にゲロを吐いてもいいよ」という二つの意味がかけられていたのでした。しかし、はたして「ゲロ」なんていうことを言っていいものか?かといって「吐瀉物」と訳せば面白さが半減するし、悩んだ挙げ句、結局、長井さんは「今度はわたしのオゴリで」としか訳すことができませんでした。英語の分かる聴衆を大笑いさせた原発言ジョークの半分しか伝えることができなかったと、今でも残念に思っている、と振り返っておられました(『伝える極意』(集英社新書))。英語のジョークは実に難しいものです。♥♥♥

▲実に面白い体験記でした

 

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stay woke

      最近、マスメディアでwokeというスラング表現をよく見るようになりました。“woke”は、「wake(動詞:目覚める・起きる)」の過去分詞形です。アフリカ系アメリカ人のコミュニティでは「awake(形容詞:目が覚めている・起きている)」の代わりに“woke”が使われています。ここから、「主に人種差別を始めとした社会問題について敏感でいる」ことを“woke”と表現するようになり、今では独立した形容詞・副詞として使われています。“woke”とは、「人種差別や社会問題に対して関心を持つこと、敏感でいること」を意味する英語スラングです。“stay woke”の形で使われ、「人種差別について関心を持ち続ける、社会正義に目覚めている」という意味になります。世界中で起こっている社会の不公正や不正義に意識を高く持ち、声を上げていくことが、今私たちに求められています。

The race riots that happen in Europe and the United States feel like somebody else’s business, but we all have to stay woke.(欧米で起きてる人種差別の暴動って、なんか他人事のような気がしちゃうけど、俺たちもみんな関心を持つべきだよな)

 「見えない差別や偏見のコードにも神経を研ぎ澄ましていること」を意味します。日本語の「意識が高い」「意識が高い人たち」といった表現の意味するところに近く、より挑発的なニュアンスが感じられます。

  少しこの表現の歴史に歴史を振り返ってみたいと思います。⇒詳しくはコチラをご覧ください

 「ウォーク」(woke)という表現は、1920年代前後から黒人の間で用いられ、1938年に発表された黒人ミュージシャン、レッドベリーの楽曲「スコッツボロ・ボーイズ」の最後に出てくる「目を覚ましたまま、彼らの目を開いたままにしておくのがベストだ」(”best stay woke, keep their eyes open”)というフレーズに直接的な起源を求める向きもあります。この曲は、1931年にアーカンソー州スコッツボロで黒人のティーンエイジャー9人が白人女性2人をレイプした罪に問われたことへのプロテストソングです。奴隷解放から70年近く経っても黒人への差別や偏見が執拗に続いていましたが、社会に潜む見えないコードへの警戒を怠るな、といったメッセージがそこには込められていました。

画像1: 「woke/ウォーク」ってどういう意味?

 古くは1940年代に遡り、1970年代にはアメリカの戯曲のセリフで使われるなど、徐々に市民権を得ていきました。“stay woke”というフレーズは、2008年のエリカ・バドゥ(Erykah Badu) の曲「マスター・ティーチャー」(Master Teacher)の中で、I stay wokeというフレーズを使ったことで一般にも浸透したとみられています。それがSNSで爆発的に使われ始めたのは、黒人の人権運動「ブラック・ライヴズ・マター」(Black Lives Matter)が過熱していた2014年のことです。全米で注目を浴びる契機になったのは、2014年にミズーリ州ファーガソンで起きた黒人青年・マイケル・ブラウン(Michael Brown)射殺事件。当時18歳だったブラウンさんは、丸腰であったにもかかわらず、白人警官によって射殺さました。wokeという言葉は、社会正義を追求する態度を示すポジティブな表現として、性差別や人種差別、環境問題などに敏感であることを表現します。アフリカ系アメリカ人が直面している不公平や人種差別に対して「目覚める」ことの重要性が強調され、しっかり認識してアクションを起こそうという意味で、“stay woke”というフレーズがツイートされ始め、それが他の事例にも使われるようになりました。イギリスでは、Black Lives Matter運動までは、“woke”という語はほとんど知られていませんでした。この“woke”OEDに追加されたのは2017年のことで、“being ‘aware’ or ‘well-informed’ in a political or cultural sense”と定義されました。ソーシャルメディアを中心にwokeから生まれた名詞Wokenessがメディアで多用されるようになりました。

 一方、Wokeismという新語が台頭してきました。保守的な人たちが進歩派を攻撃する時に使う言葉です。黒人が苦しんできた人種差別の歴史を、子どもたちに性格に伝えるべきだとする考えを、保守の一部はWokeism(やりすぎなWoke意識)だとして批判します。さらに、黒人が奴隷として苦難の道を歩いたことを題材にする書籍は、白人の子どもにとって愉快ではないので、図書館から除外するべきという主張さえするのです。アメリカの南部を中心に、政治・教育の場で、進歩派と保守派の対立はWoke/ Wokeismをもとにして、ますます激しくなりそうです。――旦 英夫『米語ウォッチ』(PHPエディターズグループ、2024年7月)

 「意識の高いやつら」といった感じでwokeがポジティブに使われることよりも、否定的な意味合いで用いられることも多く目に付くようになりました。ポジティブな意味でwokeが使われているケースを探すのがちょっと難しいぐらいです。保守派や銃規制反対派などの中には「社会的不公正、人種差別、性差別などに対して過度に意識が高すぎる」ことに反感を抱く人もいるのです。過度に配慮された感じでの映画やドラマ、作品、政策などに対して“woke”とはっきりとネガティブな意味で呼ぶ傾向が強まっています。政治的な正しさや社会正義を求めるあまり、過激な発言や提唱をする人々を揶揄するために、本来の意味ではなく「先進的だと気取って過激なことを言ったりやったりする危ない人」といったニュアンスでメディアやSNS上で使われています。♥♥♥

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