ヤマト運輸の転機

 「サービスが先、利益は後」と喝破して、何よりもお客さんへのサービスを第一に考えたヤマト運輸の社長・故小倉昌男(おぐらまさお)さんのことを若い時に知って、いっぺんで大ファンになりました。目先の利益よりも、お客様の「ありがとう」を追求すると、結果は後からついてくるという企業哲学ですね。「松本ミカン事件」として知られる、ヤマト運輸を象徴する事件がありました。営業所の中で、配送作業中に壊れた箱の中からコロコロとこぼれたミカンを、営業所員が食べてしまったことを激怒した小倉昌男社長が、ミカンを食べた複数の社員をクビにしたというものです。たった一個のミカンです。わずかな出来心です。でもヤマト運輸の哲学・理念からすると、ミカンが一個だろうが百個だろうが関係ないのですね。お客様のこととなると、不実な態度にはとても厳しい。ただし、クビにされた社員の行く末を案じて、働き口を見つけるフォローもされたそうですが。

 以来ずっと、私は宅配便はクロネコヤマトに決めて利用してきました。ドライバーの方も親切な人で、毎日のようにいつも同じ方が荷物を持ってきてくださるので、仲良くなっていきました。玄関先で会社内のいろいろな苦労話を聞かせてもらっては感心したものです。ただ最近は、ドライバーさんも次々と変わり、質も変わってきたみたいで、指定時間を守ってくれなかったり、配達日が不安定になったり、サービスが劣化してきている感じです。日本郵便とのゴタゴタも話題になりました。創業精神が忘れられつつあるのかもしれません。「お客様への感謝」「ドライバーさんへの感謝」の気持ちを忘れないようにしたいものです。

 今でこそヤマト運輸といえば「宅急便」というイメージができあがっていますが、当時は日本通運佐川急使などの長距離路線を中心とした運送会社が幅を利かせていて、ヤマト運輸はそれほど力のある会社ではありませんでした。宅急便のスタートは1976年です。1919年創業のヤマト運輸(当時は大和運輸)は、戦前には関東中心に企業間物流を営んでいたトラック運送会社でした。ヤマト運輸が開発した大和便と呼ばれるサービスは、荷物の乗り合いバスのような仕組みで、取引先の企業が輸送したい荷物があるときにトラックが立ち寄り、その荷物を載せることができるものでした。これが、のちの「クロネコヤマトの宅急便」へとつながっていきます。当時、ヤマト運輸は関東一の物流会社でした。

 戦後、貨物の長距離輸送が鉄道からトラックにシフトしていった時、ヤマト運輸は地域内の物流にこだわったため、長距離輸送への進出が遅れました。その結果、ヤマト運輸の経営は、徐々に苦しくなっていきます。そこで、ヤマト運輸は、長距離輸送も含め、戦前から得意の企業間物流や百貨店配送、それに通運事業、航空貨物、海運業などありとあらゆる物流を扱う多角化戦略をとるようになりました。それでも、一向に経営改善は見えてきませんでした。苦戦が続く中、1971年に小倉昌男さんがお父さんのあとを継いで社長に就任します。1973年の「オイルショック」を機に業績がますます悪化していった頃、小倉さんは会社の進むべき方向についてあれこれ考えをめぐらして悩んでいました。このまま、多角化路線でいくのか、それとも事業を絞り込むべきかでずっと悩んでいた小倉さんは、二つのことを自身の目で見て、経営の本質に気づくのです。

 一つは、「日本経済新聞」の牛丼の吉野家に関する記事です。吉野家が、それまであった多くのメニューを一切やめて、牛丼一本に絞り込むという記事でした。記事を見てまず考えたことは、牛丼以外のメニューを選びたい人はよその店に行ってしまい、結局収益が悪化するのではないか?ということでした。記事を読み進めると、そうではないことが分かりました。メニューを牛丼単品に絞り込んだことにより、良質な牛肉を大量に安く仕入れることができ、味はいいし値段も手ごろだと評判になっていたのです。調理もシンプルで、熱々の牛丼を素人のアルバイトでも簡単に提供できる。お客さまが増えて、人件費がずいぶん抑制できたといいます。「そうだ、これだ!」当時、小倉さんは個人向けの物流に高い関心を持つようになっていましたが、もう一つ踏み切れないでいました。そうした時、吉野家の記事を見て、個人宅配ビジネス、今でいう宅配便、ヤマトでは宅急便と呼びますが、これ1本のトラック会社になろうと決意したと言われています。小倉さんが宅急便の市場性に気づいたきっかけが、このたった一本の吉野家の記事だったのです。

 もう一つ、小倉さんが同じ頃、アメリカ・ニューヨークを訪れた時きのこと。マンハッタンの交差点の四つ角に立ち、ふと周りを見ると、交差点の近くにUPS(ユナイテッド・パーセル・サービス)のトラックが4台停まっているのに気づきました。UPSは世界最大の小口貨物運送会社です。当時から個人宅配ビジネスのトップ企業です(私もアメリカからマジック作品を大量に送ってもらうときには利用していました)。そのUPSのトラックがニューヨークのど真ん中に4台も停まっている。「日本でも、これから個人宅配ビジネスの成長が期待できるのではないか」と、後の宅配便事業の成功に確信を持ちました。1976年1月20日、ヤマト運輸が宅急便のサービスを始めました。ちなみに、「宅急便」というのは、ヤマト運輸の商標であり、その後日本通運佐川急便などトラック運送会社が続々と参入し、総称として「宅配便」と呼ばれるようになりました。「これからは、箸でひとつずつ豆を移すんだね。それが宅急便だよ」宅急便誕生初日に扱った荷物は、わずか11個でした。それが初年度には170万5195個もの荷物を配送、現在の総個数が48億個を超えるまでに拡大しています。(2022年3月発表)その中でクロネコヤマトの宅急便は4割超のシェアを誇るダントツの1位です。♥♥♥

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今年の麺一発目は「谷屋ん」

◎週末はグルメ情報!!今週はラーメン

 2025年に入って第一発目の麺は、久々の松江市・西津田町「谷屋ん」です。八幡お気に入りのラーメン屋さんです。以前松江の人気店だった学園通りの「花さか」の後継店です。その昔、私が若い頃に、松江市・今井書店学園通り店の隣に、「花さか」という行列のできるラーメン屋さんがあったんです。いつ行っても、お店の前には長い行列ができていました。超満員のカウンター席で「醤油ラーメン」をいただくのが常でした。教員になりたての頃からずーっと通い続けた松江の名店です。大将とも顔見知りになり、時々頼んでもいないギョーザが出てきたりします。店員さんに「あのー、頼んでないんですけど」―「大将からのサービスです」 こんな感じのおつきあいで長年が過ぎていきました。顔を出すと、大将が「先生も大変だのー。頑張ってーや」と優しいお言葉。味は最高のラーメンでした。大将はことラーメンに関しては妥協のない、厳しい姿勢の職人さんでした。お弟子さんを厳しく叱りつける現場も、私は何度も目撃しています。その後、いったん店をたたまれましたが(駐車場の問題と私には言っておられましたが)、島根大学の近くの路地を入った場所(「昭和軒」の裏手)に移転して、再開されました。しかし網膜剥離で入退院を繰り返され、惜しまれつつ店を閉じられたのでした(今は「天真爛漫」というラーメン屋さんになっています)。当時の松江には、これといって美味しいーメン屋さんがなかったもので、ラーメン好きな私は、ポッカリと穴が開いたようになっていました。その、「花さか」で修業された店長さんが、新たにお店を出されたのが「谷屋ん」で、2012年の秋のことでした。あの懐かしい「花さか」の味を再現しておられいっぺんで好きになりました。国道9号線のユニクロマクドナルドを通り過ぎ、西津田「開運稲荷入口」の交差点から、北側に入ってすぐのお店です。路地裏に佇む「隠れ家」のようなラーメン屋で、テーブル17席、カウンター4席の小さなお店です。

 開店当時は、ラーメンの前に野菜サラダがサービスで出てきていました。白濁の、脂の浮いた、とんこつ魚介の背脂チャッチャ系。鶏がらと豚骨・野菜をじっくり煮込んだコクのあるだしと、のどごしのいい中太玉子麺を使っているのが特長で、一度食べたらクセになる味わいです。私はいつも醤油ラーメンを、ネギ、煮卵増しでいただくのでした。あの背脂いっぱいのこってりしたスープは、「花さか」の大将を思い出します。中細の縮れ麺、茹で加減はイイ感じ。脂の多いこってりチャーシューが2切れ。ここが「花さか」時代と違うところです。普通のラーメンを頼んでもチャーシュー麺かと思うぐらい、たっぷりとチャーシューが入っていたのが「花さか」でした。ひげ根は未処理の細もやし。甘い味付けのシナチク。何度でも出かけたくなる味です。開店と同時に満席になることも多く、私はいつも朝いちの11時に行っていました。醤油ラーメン「谷屋ん」、塩ラーメン「をっちゃんラーメン」「ラーメン長さん」が、中華そば「中村製麺所」が、今の私の松江市の定番です。

 「来来亭(らいらいてい)松江店」が、何とその「谷屋ん」の真ん前お隣に大々的な店構えでオープンしたのは2015年9月のことでした。関西の有名なラーメンチェーン店です。もう「ラーメン戦争」勃発だと思いました。当時、ご主人と話すと、あちらは鶏ガラ系でうちとはまったく異なるラーメンなので心配はしていない、味には自信がある、とプライドをのぞかせておられました。ただ夜営業になると、大きな看板と建物で、うちのお店がみんな隠れてしまうのがちょっと困った点、とおっしゃっておられました。私の住んでいる近くの学園通りも、数多くのラーメン屋さんがしのぎを削っておられますが、大規模チェーン店と老舗の味を受け継ぐ名店、共存共栄となるのか、それともどちらかが倒れてしまうのか、注目すべき「ラーメン戦争」でした。どうなることかと心配しましたが、そこはやはり味で勝負です。おいしさは比べものになりませんから。店長さんに聞いてみました。「来々亭の影響はどうですか?」―「あっちがいい人はあっちに行きますし、こっちがいい人はこっちに来てくれますから」 あれから10年。どちらのお店も繁盛しておられます。

 今年最初にお邪魔した「谷屋ん」。現在は秋鹿大東にも支店を出店しておられ、お客さんからの支持を集めています。ご主人も替わられ、開店して13年目です。「来来亭」の影響はありますか?と聞いてみました、「ないことはない」とのことでした。チャーシューは一枚になりました。ネギ増し「醬油ラーメン」(880円+150円)をお願いしました。味はあの頃と変わりません。ただあの頃と比べて、「悟空」「香味徳」「唐崎商店」など美味しいラーメンを食べ歩いているので、以前のような驚きはありません。口が肥えてレベルが上がってきたんでしょうね。♥♥♥

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ポリシー

 生きていく上で、自分が絶えず大切にしている方針。それを「ポリシー」と呼びます。「ポリシー」がないと、方向性が定まりません。目指す方向や守るべき原則が定まらないと、地面から足が宙に浮いたような状態になり、不安定な生き方になってしまいます。当然他人の言動や行動に左右されることも増えていきます。周りからの影響を受けたとき「まあいいか…」と安易に流されやすくもなるでしょう。外部からの圧力に負け、雰囲気に流されてブレてしまうのです。本来持っているはずの理念とか原理・原則を変えてしまうのが「ブレる」ということです。すぐブレる人は人から信頼が得られず評価も低くなります。政治家、特に首相などは発言がブレると急速に支持を失っていくことは石破総理を見ているとよく分かります。「ポリシー」がないと、パワーや勢いが生まれず、行動力が弱くなります。

 私は今から22年前の2002年7月22日に、島根県立津和野高等学校3年1組の学級通信「あむーる」「ポリシーを持って生きていますか?」と題して、生徒たちに次のような文章を寄せています。私はどんな分野であれ、確固たるポリシーを持って生きている人が大好きで、応援したくなります。 


 確固たるポリシーを持った人が好きだ。私の応援する芸能人から紹介する。

小田和正。『いつかどこかで』という映画を作った彼は評論家から強烈なバッシングを受けた。それこそボロくそに叩かれた。にもかかわらず、また映画を作った。『緑の街』だ。今度は映画館での上映ではなく、全国264ヵ所にも及ぶ公民館や小ホールでの自主上映だった。「自分を本当に応援してくれる人だけ見てくれればいい」小田さんの反骨精神を見る思いで、拍手を送りながら県民会館へ出かけたものだ。この映画、彼の自伝でもある。

◆絶対にテレビに出ない。コンサートもやらない。ZARDというグループだ。坂井泉水さんの書く詩が好きでファンクラブに入って応援している。『The Single Collection~軌跡』というベストアルバムが出た時、中に豪華客船で初めてのライブにご招待の応募ハガキが入っていた。ついにライブをやらないZARDのベールが脱がされることになったのだ。でもよくぞここまで我が道を行ったものだと思う。

◆28歳で30億円(!)の借金を抱え込んださだまさし。それも祖父の思い出のある中国の映画を撮るために(『長江』)。年に一度原爆の落ちた日に長崎の稲佐山で無料平和コンサートを続けている(「夏長崎から」)。大赤字を出しながら故郷の皆さんにご恩返しだという。長崎にできた巨大世界地図の壁に赤いレーザー光線で紛争地帯を点滅させるという 「ピーススフィア」の運動も彼の発案によるものだ。一人千円しか寄付をしてはいけない(!)という変わった募金活動によるモニュメントの完成だ。

◆アンコールをやらないCHAGE&ASKA。「出たり入ったりする時間があれば1曲でも多くみなさんに聞いてもらいたい」この言葉には感動したものだ。

◆靴をはかずに靴下でNHKホールのステージに出てきたジョージ・ウインストン。「自分のピアノの音だけを聞いてもらいたい」ペダルのそばにはボロ布が置いてあり、彼の足はそこに置かれていた。「あこがれ・愛」の演奏が始まった時にはあまりの美しさに言葉も出なかった。服装はジーパンにTシャツというおよそらしからぬものだった。これも彼のポリシーだ。

◆大学生の頃からヤマハの援助で音大に通いCDを出していた西村由紀江さん。全く売れない時代にも負けずに頑張り通した。「101回目のプロポーズ」の音楽を担当することになった、とハガキをもらった時には飛び上がった。渋谷のベルコモンズで開かれた内輪だけのパーティに招かれた時に、サインを頼まれた生徒の話をすると出たばかりの楽譜集に「私も頑張ったらいいことがあった。生徒さんにも頑張るように言って」とサインしてくれた彼女。「湖にピアノを浮かべて聞いてもらうのが夢」と語った彼女も今ではインストの女王と呼ばれるようにまで成長した。何度もくじけそうになった時に負けなかったことが今日の彼女を作った。

元ちとせ。あの独特のコブシで100年に一度の「神の声」と言われる。歌手になろうというきっかけが「週刊朝日」7月26日号のインタビューで明らかになった。先日広島へ行って彼女のデビュー前のCD2枚を探し当ててきた。自分の声を絶対に曲げない姿勢はこの頃からのものだ。今日もViewsicでオリコン一位のアルバム『ハイヌミカゼ』の曲の解説をするインタビューを1時間見てますますその音楽に対する姿勢に打たれた。スペースシャワーで23日にもインタビューが予定されている。8月9日には何とあのNHKが彼女の特別番組を夜11時から流すことが決定した。益々の活躍が期待できる今旬の歌い手だ。

▼皆さんはポリシーを持って生活していますか?ただ何も考えずに流行に流されていませんか?10代の貴重な時期を大きな夢を持って胸をはって堂々と生きていますか?後で振り返って後悔の残る生き方だけはして欲しくないものです。


 私は今でもこれと同じことを若い人たちに訴え続けています。私がシンガーソングライターの小田和正さん(77歳)を熱く追いかけるのは、時代に流されない強い信念を持って生きておられるからです。品格が問われる中で、小田和正という存在には、それが備わっていると感じるからです。もちろん品格などというものは、どこかで購入して即席で身に纏えるものではありません。これまでの長い人生の積み重ね・苦労があっての所産です。足し算と引き算の両方を同時にやってこれたからこそ、生きることにあの純度の高さが生まれたのだと思います。私も見習いたいと思っています。♥♥♥

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あきらめない!

 何事もそうですが、最後まであきらめずに粘ることが大切です。受験も全く同様です。あきらめずに最後の最後まで頑張っていると不思議なことにいいことがあるんです。3年担任や進路部長を務めていた時には、生徒たちにはいつもこのことを強調していました。生徒たちも、先輩たちが最後まで頑張っている姿を見ているだけに、そして逆転合格を果たした生徒をたくさん知っているだけに、推薦で不合格になったとしても、前期で落ちようが、後期の最後まで最善を尽くし、逆転合格を果たした生徒が数多くいました。私が松江北高に赴任した頃は、センター試験で点の取れなかった生徒たちに、立ち向かう道を示し、打開策をみんなで検討し、夜中の2時、3時まで会議をやっていたものでした。逆転合格が起こるのは、周りの熱意と本人の努力が融合した時です。

 私が一番印象に残っている生徒は、看護系志望で、推薦で鳥取大学医学部保健学科看護を受験し、センター試験で大失敗したために不合格。再び鳥取大前期で受験するも当然アウト。滑り止めにと考えていた島根県立看護短大新見公立短大・看護も不合格。幸い石見高看だけは合格したものの、本人は四年制へのこだわりもありどうしても専門学校には行きたくない。両親は女の子ということもあり、浪人には大反対で何度も家族会議が開かれます。そんな失意の中、後期の岡山県立大学の受験に向かいました。家に帰ってからは、浪人するか石見高看に入学するか、のせめぎ合いが家族の間で続いていました。そんな矢先、後期合格発表の当日、本人から合格の知らせが入りました。進路指導室では担任を始め、誰もが「信じられない!」と大騒ぎとなりました。本人が受験番号の載った電子メールの合格通知を持って飛んできました。一番驚いていたのは本人でした。出張先でこの知らせを受けた八幡も驚いたものです。翌朝学校に登校すると玄関でお母さんが待っておられました。一言お礼が言いたかった、と。本人もまもなくやって来て喜びを語ってくれました。自分の苦しみと、最後まであきらめなかったことを涙ながらに語ってくれ、後輩たちに自分の体験を生かして欲しいと、体験記も寄せてくれました。やはり最後の最後まであきらめないことが大事です。

 2017年7月29日(土)付けの『山陰中央新報』「若者よ」シリーズに、松江北高卒業生(37期)のはせがわいずみさんの記事「海外に出て独立心を培え」が大きく載りました。

 はせがわさんは、松江北高校時代には、英語は大の苦手だったにもかかわらず、アメリカ・ハリウッド映画への憧れ、夢をあきらめることができず、30歳を過ぎてから、家族の反対を押し切って渡米。苦労はされましたが、今では「ハリウッド・ニュース・ワイア」という、映画、スター情報配信会社を立ち上げて、エンターテインメント・ジャーナリストとして、セレブのインタビューに取材に、米国でご活躍中です。米国の人気ドラマ「24―Twenty Four」を初期から取材し、日本に紹介したのは彼女でした(メイキング・オブ・24―Twenty Four―』(竹書房、2007年)。2011年10月24日には、松江北高で二年生の諸君に、ご体験を「夢は叶う!」と題して講演をしてもらいました。その時の講演要旨は、当時の松江北高『図書館報』第100号にまとめられています。大変参考になるお話でした「夢は叶う、あきらめないで!」という、はせがわさんの熱いメッセージが強く印象に残っています。♥♥♥

▲松江北高卒業生のはせがわいずみさん

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天神様の合格応援きっぷ

 高校、大学などの入学試験を控える受験生にエールを送る「天神様の合格応援きっぷ」の無料配布が元日から、JR松江駅など県東部4駅で始まりました。JR西日本が9年前から受験シーズンにあわせて受験生などに配っているもので、学問の神様として信仰される菅原道真を祭る菅原天満宮(松江市宍道町上来待)で祈願された切符で、合格を後押しします。天満宮の宮司は私が島根県立松江南高等学校でお仕えした校長の狩野道彦先生です。 

▲松江駅の案内掲示

 他の駅は安来駅(安来市安来町)、宍道駅(松江市宍道町宍道)、出雲市駅(出雲市駅北町)。切符は縦5・5センチ、横9・1センチの名刺サイズで、受験生応援企画の「天神様の合格応援きっぷ」です。宍道駅、来待駅の駅名看板などをデザインしたカードで、改札などで希望者に無料で配布しています。裏面には菅原天満宮の写真が印刷されています。配布箇所・配布数は、松江駅、宍道駅、出雲市駅が各300枚、乃木駅が200枚。安来駅が100枚。なくなり次第、配布終了予定です。「天神様の合格応援きっぷ」は通常の切符よりも大きい名刺サイズの紙の表面に、「宍道(しんじ)→来待(きまち)」と記載されています。「宍道」に「努力が実を結ぶことを信じる」という意味が、「来待」に「いい知らせが来ると信じる」という意味が込められています。

 私は早速勝田ケ丘志学館の生徒人数分をもらって、「共通テスト」前日に生徒に配って喜んでもらいました。御利益があるといいですね。♥♥♥

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予想通り!~「共通テスト」の検証

◎「共通テスト」を検証する

 「共通テスト」が終わりましたね。受験生のみなさん、指導に当たられた先生方はお疲れ様でした。新課程入試一年目ということで傾向がどのように変わるのかが注目されましたが、リーディング】は予想通り、リスニング】は昨年通りという結果でした。リーディング】試作問題」の問題がそのまま採用され、モニター調査」通りに第1問~第8問構成で出題されました。これは私が『重要問題演習 2025共通テスト 英語リーディング』(ベネッセ)や、『直前演習 2025共通テスト 英語(リーディング)』(ベネッセ)で取り上げたままの形でした。ホッとひと安心です。私が予言したことを検証してみたいと思います。やはりここでも私が「ギャンブラーの誤謬」で指摘したこと(⇒詳しくはコチラをお読み下さい)が重要だということが分かりました。

【リーディング】

 書かずに論理的な文章を書かせる【第4問】(文章の論理の構成や展開に配慮して文章を修正する)、話さずにプレゼンを組み立てる【第6問】(自分の立場に立って、自分の意見の理由や根拠を明確に示すために複数の資料を活用して文章のアウトラインを組み立てる)が「試作問題」で公開されており、来年の「新課程共通テスト」の目玉問題となります。今行われている各社の模擬試験問題もこれらを含めた【第1問】~【第8問】の8問構成となっています。 (2024年11月12日付け)

▼予想通り「試作問題形式」を含む第1問~第8問構成となりました(解答マーク数49→44に減)。第4問と第8問に配置されました。演習や模試で練習した通りでした。やはり大学入試センターからの発信・試作問題はきちんと読んでおかないといけません。

 問題用紙が配られたら、まずザーッと第1問から第8問(?)までに目を通しましょう。大きな変更点がないかどうかを確認します。今年は新課程入試で大きく内容が変わることが予想されています。もし変更があったとしたら、それを頭に入れた上で解き始めます。ああ、ここが新しくなっているんだなと頭に入れて問題を解くのと、やみくもに最初から解き始めて途中でビックリするのとでは、心理面でも大きな影響があります。ここで覚えておいて欲しいことは、新傾向問題が登場した1年目は、問題の難易度は決して高くありませんから、落ち着いて解けば必ず解けるはずということです。 (2025年1月16日付け)

▼配置順の変更はありましたが、新傾向問題の第4問と第8問は試作問題通りの出題で、難易度は難しくありませんでした。新傾向問題が出題される一年目は難易度は《易》であることは過去の出題からも明らかでした。

 私がじっくりと読み込むことをオススメしている大学入試センターから公表されている「共通テストリーディング」に関する「問題評価・分析委員会報告書」でも、この分量の多さについての言及・苦情がありました。現場からのこれだけ強い要望と、このようなやり取りを頭に入れると、新課程の「共通テスト」リーディングでは、伸び続けた語数の増加はいったん歯止めがかかるのではないか、と私は踏んでいます。 (2025年1月15日付け)

リーディング問題文の長さに関しては、今年は歯止めがかかるのではと予想しています。(2025年1月16日付け)

▼私の予想通り、昨年度より約700語程度短くなりました。やはり「問題評価・分析委員会報告書」は読んでおかないといけないと強く感じました。今まで主張してきた通りです。

 私が「NOT問題」と呼ぶものです。「notなものを選ぶ」「errorを指摘する」「remove(取り除く)ものを選ぶ」これらは全て「NOT問題」です。いずれも今年の「共通テスト」で出題されて受験生を悩ませた問題です。正しいものを一つ選ぶ従来の設問に比べ、正しいものを一つずつ3つ外していかねばなりませんから、余計に時間がかかります。《難問》と言えましょう。これに深入りして最後に時間不足が起こらないように注意が必要です。間違いなく来年も出題されます。 (2024年11月12日付け)

remove~の形で1問出題されました(第7問問1)。物語を改善するために盛り込んだ方がよいものを二つ選べという問題も、本文に書かれていないものを選ぶので「NOT問題」の変形と呼べるものです(第6問問4)。

 私が「推測問題」と呼んでいるものがあります。今年の「共通テスト」では「most likely~」で設問が導かれていました。implyやinfer(暗示する)で導かれる問題もこれに相当します。本文に明確に書かれていないことを、書かれた内容から推測する問題です。解答が直接書かれていないことを推測して読み取るわけですから、当然難しくなります。 (2024年11月12日付け)

most likely ~という設問で推測させる問題が4問も出題されました(第1問問1、第2問問2、第3問問3、第5問問5)

 「事実」と「意見」の問題・・・この種の問題が消えるという議論がありますが、私は引き続き出題されると思っています。「意見」は形容詞・助動詞で表される特徴があることは一応頭に入れておきましょう。 (2025年1月16日付け)

▼「意見」(opinion)を選ぶ問題が一問出題されました(第2問問3)。「事実」と「意見」をきちんと区別できる力は今日のネット社会では重要です。

 正答率を見ると、出来事の並べ替えを苦手にしている生徒が多いようですが(⇒解き方についてはコチラを参照)、ここは選択肢まで「先読み」して簡単にメモしておくのが効率的です。どんな出来事が登場するのかを頭に入れてから本文を読み、それが出てきたところで番号を振っていくのです。注意することが2つあります。第7問は5つの選択肢から4つ選ぶようになっていますから、ここで5つ全部答えてしまい以降のマークの順番が狂わないように注意しましょう。もう一つは、出てきた順番が必ずしも起こった順番とは限らないことに注意しましょう。着眼点は、①時を表す表現、②時制(過去完了、助動詞)の二つです。 (2025年1月16日付け)

▼予想通り二問出題されましたが(第3問問2、第6問問1)、二問とも5つの選択肢から4つを選ぶ形式となりました。ダミーに注意です。

 「問題作成部会」の見解を読むと、「温かみのある物語文」が予告されているように感じます。私はセンター試験時代の過去問から選りすぐりの心温まる英文を読ませて送り出しています。もし他種類の英文を出したら詐欺ですよ[笑]。 (2025年1月16日付け)

▼この部分だけ(第6問)予想がハズレました。詐欺です〔笑〕。回想シーンを含む難しい小説問題で、感動や面白みはありませんでした。最後のオチ(Melodyは誰?)が分からなければ何の話なのかが全然分からない、受験生にとっては唯一酷な問題でした。この問題は正答率が目茶苦茶低くなります。

【リスニング】

 今年は特にリスニングが難しくなると思っておいた方がよいでしょう。(2025年1月16日付け)

▼形式は昨年通りでしたが、昨年よりも少し難しくなりました。注目すべき点が三つありました。

①昨年までは第1問~第3問までの配点が59点でしたが、今年は58点となりました(第1問25点→28点 第2問16点→12点)。やはりリスニングが苦手な受験生に点を取らせたい配慮です。

②第5問は試作問題Cの形式を踏襲していました。やはり大学入試センターからの発信には注意しておかなければいけません。

③第6問Bのディスカッションは昨年は4人だったのが3人に減り、受験生の負担が大きく軽減しました。

 不正行為・・・ネット全盛時代に新手の電子機器を使った不正行為が増えています。「共通テスト」ではどんな不正行為があるのですか?という質問を受けました。馳浩文科大臣の時から内容が公表されるようになりました。昨年の「大学入学共通テスト」でも、4人の不正行為を確認しています。大学入試センターによると、不正行為のあった4人のうち、2人はカンニングペーパーの使用でした。山口県内の会場で地理歴史・公民の試験時間に受験生1人が複数枚のメモを机上に置いているのが確認。広島県内の会場では受験生1人が数学2での時間に、数式が書いてある紙を机上に置いていたといいます。残る2人のうち、1人は東京都内の会場で、外国語の試験時間が終了して「解答やめ」の指示があったのに従いませんでした。過去に一番多い不正行為がこれです。試験監督の指示にきちんと従うことが大切です。もう1人は岐阜県内で理科2の試験時に不正行為とされる定規の使用が確認されたといいます。 (2025年1月16日付け)

▼今年も不正行為がありました。大学入試センターによると、不正行為のあった4人のうち1人はカンニングでした。北海道の会場で、数学②の試験時間中、監督者が、机に数学の公式が書き込まれているのを確認したといいます。別の1人は、高知県の会場で、英語リスニングの試験時間に、「解答はじめ」の指示の前にICプレーヤーを再生し、解答をしていたといいます。他の2人は、いずれも「解答やめ」の指示があったのに従いませんでした。1人は福井県の会場であった地理歴史・公民の試験で、もう1人は大阪府の会場であった情報の試験での行為でした。

 前日に「握手をお願いします。」と言ってきた生徒は満点を取りました。さあ、今から一ヶ月は個別試験私大試験に向けて「水中の陣」です。♥♥♥

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芸術は太陽と同じ

 私は故・岡本太郎(おかもとたろう)さんのファンです。前回の万博の際の「太陽の塔」が大好きで何度も大阪万博公園に足を運んでいます。誰に何と言われようと、自分のポリシーを曲げることはありませんでした。そういった生き方に強く惹かれます。岡本太郎さんは「絵を描いても、売らない」と話していたように、自分の絵画を売ることは決してありませんでしたが、公共の場所に置かれる壁画やモニュメントは、喜んで制作しています。理由は「芸術は太陽と同じ」という考えからです。太陽は地上にいる人に差別なく無条件に降り注ぎますが、かといって「オイ、あったかかったろう。いくらかよこせ、なんて掌を出したりはしないだろう。芸術もそれと同じだよ」岡本さんの言い分でした。なるほど!

▲岡本太郎「こどもの樹」

 かつて「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」というウィスキーのCM(ロバート・ブラウン)がヒットしたことがあります。そのウィスキーを一本買えば、岡本さんのデザインしたグラスが貰えたのですが、それを知ったある画商が岡本さんに、「ただでついてくるものをつくると、ご自分の値打ちを引き落とすことになるから、これからはやらないでください」と忠告します。「自分を安売りするな」という諫めなのですが、岡本さんは芸術に関心のない人が、グラスでウィスキーを飲みながら、「ああ、この顔のグラスはいいなあ」と喜んでくれるなら、「ただでもちっとも悪いことはない」と答えたそうです。岡本さんにとって芸術は誰もが楽しみ、誰もがつくりたいと思えるものでなければならなかったのです。

 岡本さんは小学校を3回も転校するほど、学校側から見ると厄介な生徒でしたが、そこには岡本さん自身の「こんな学校では学びたくない」という強い意志があったと言われています。特に岡本さんが嫌ったのは、勉強でも運動でも子どもに「等級」をつけることでした。等級という順番によって子どもは力の限界を思い知らされ、心に傷を負うことになります。優等生は「いい子」、順番が下だと「お前はどうしてそんなにダメなんだ」と言われるわけですが、ではその順番と人間の価値に関係があるかというと、何の関係もありません。学生時代の成績がいい者が社会に出て成功するとは限らず、世界を変える何かをつくり上げるとは限りません。学校の成績にとらわれず、「オレはそんな薄っぺらな物差しで測れる人間じゃないぞ、と思ってりゃいい」というのが、岡本さんからのアドバイスでした。小学校1年生の時に3回も小学校を替わっています。理由は幼いながらに小学校の先生の理不尽を嫌い、ガキ大将グループにも決して妥協しようとはしなかったからです。最初の青南小学校では「先生だからと威張り腐る」態度に我慢がならず、2番目の日新小学校はやたらと気位の高い学校の雰囲気についていけず、3番目の十思小学校はムチを振るって生徒を従わせようとする教師を許すことができませんでした。ガキ大将グループのいじめに「自殺したい」と思ったこともありますが、決して強い者に順応しようとはせずに、「スジを守る」生き方を貫きます。最終的に慶應幼稚舎に移り、以後、転校することはなくなります。後年、同級生の一人から当時岡本さんが描いた絵を見せられ、「オレは変わらないなあ、なんて貫いているんだろう、と思って嬉しかった」と振り返っています。

 時代に合わせ生き方や考え方を変えるのは決して悪いことではありませんが、「自分の意志」ではなく単に「時流」や「時世」に合わせてコロリと目先や思想を変えていくのはバカバカしい、というのが岡本太郎さんの考え方です。ついこの間まできれいなタペストリーの前に女の子を裸にして絵を描いていた人が、「そんなのはもう古い」「時代はモダンアートだ」と言われた途端に、移動準備を開始して、「新しい絵」の時代に合わせることがあります、長く孤軍奮闘、新しい絵を主張していた岡本さんとしては、本来は大勝利のはずですが、「あまり嬉しくない」といいます。時代に合わせてコロコロと変わるのは画家だけではありません。岡本さんがパリで知り合った日本人の若者の一人は、戦前は左翼思想を振り回し、戦争が始まれば途端に右翼思想に染まり、戦後は民主主義を賞賛したかと思うと、20年後には憲法改正や再軍備を唱えるようになったといいます。時代の流行に合わせて考え方がコロコロと変わるのはある意味「器用」なのかもしれませんが、実状は確固たる自分を持たない「変節」です。たとえ社会と対立しても、人には守り通すべき「スジ」があるのです。そんなことを、岡本太郎さんの生き方は教えてくれます。♥♥♥

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「平和祈念像」に込められた思い

 被爆地・長崎から戦争犠牲者の冥福を祈る象徴的な存在となっている「平和祈念像」。今年のノーベル平和賞受賞に「日本被団協」が選ばれ、改めて大きくクローズアップされた被爆地・長崎のシンボル「平和祈念像」です。長崎市民の平和への願いを象徴する像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さ30トン、青銅製の巨大な「平和祈念像」。制作者の長崎県・南有馬村出身の彫刻家北村西望(きたむらせいぼう、1884~1987年)は、この像を神の愛と仏の慈悲を象徴として、垂直に高く掲げ天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、横にした足は“原爆投下直後の長崎市の静けさ”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という追悼の想いを込めています。原爆が投下されてから80年。あの惨禍を二度と繰り返してはいけないと、雄大な姿のその像はこれからも被爆地・長崎で平和を祈り続けます。でもなぜこれほどまでに巨大な裸体の男性像になったのでしょうか?平和のイメージといえば母子像や鳩の姿です。この像はそれとあまりにもかけ離れた姿だったために多くの批判にさらされてきました。「あれが表象するものは、断じて平和ではない。むしろ戦争そのものでありファシズムである」(小説家 堀田善衛「あまりに醜くてカメラマンもとても撮る気にならない」(映画監督 黒澤明) と手厳しい批判にさらされました。抗議やアトリエの窓が割られることも度々であったといいます。

 像の完成から70年近くが経つ中、制作が構想され始めた頃の作者の強い思いがうかがえる新たな資料が発見されました。そこには、時代を超えて誰もが平和を祈ることができる像を目指した作者の思いがありました。

 見つかったのは、像の制作が構想され始めたころの写真などをまとめた「スクラップブック」とメモが綴られた「雑記帳」です。スクラップブックには、像の原型を撮影した写真などが貼られ、雑記帳には、制作への考えが走り書きされたメモなどが残されていました。資料を残したのは、この平和祈念像を制作した長崎県出身の彫刻家、北村西望です。実在のモデルをもとにした筋骨たくましい男性像を得意とし、戦前から日本美術界の先頭を走ってきました。戦後、長崎市から「平和祈念像」の制作の依頼を受け、東京・北区に当時構えていたアトリエで構想を練り始めました。そして、構想から5年後の昭和30年に「平和祈念像」は完成しました。北村さんが70歳の時の作品です。

 実は、「平和祈念像」の変遷をたどるスクラップブックはこれまで複数見つかっていましたが、完成した像に近い段階になってからの資料しか存在しませんでした。今回見つかった資料からは、当初は異なる形の像が構想されていたことが新たに分かったのです。スクラップブックに貼られたデッサンの写真には、しこを踏むような姿の像が写っていて、当初は現在の座った像とは異なる形が構想されていたことがわかります。また、雑記帳には「人間的なものから非人間的なものへそしてさらに超人間的なものへといった記述が残され、人の力で成し得なかった平和を人間を超えた存在によって実現しようとした作者の思いをうかがうことができます。

 その中に残されていた「昭和25年11月25日」という記述の脇にある「平和祈念像」のデッサンを撮影した1枚の写真。そこに映る像は、大きく足を広げてしこを踏んだようなポーズをしています。異なる大きさの像を比較したスケッチもありました。方眼紙に並べて描かれたのは、30尺(約9メートル)と40尺(約12メートル)の大きさの像。足元には、像の縮尺にあわせた人間を立たせ、どのくらいの大きさの像をつくるのが最善なのかを探っていたことが分かります。このほかにも、左右を反転させた像や、腕の形を微調整していた跡も残されていました。こうした試行錯誤から北村さんが新たな平和のイメージを求めて模索を続けていたことがうかがえます。

 さらに、雑記帳には北村さんが目指した表現をうかがわせる記述が残されていました。「人間的なものから非人間的なものへ そしてさらに超人間的なものへ」“超人間的”という言葉の脇には、“エクストラヒューマン”という文字も書かれていました。また、北村さんは平和について「人類が希望し尚且人力を以て未だ成らず」と書き記していました。人の力では成し得なかった平和を「人間を超えた存在」によって実現しようとしたのです。人間の力では平和を成し遂げられなかったからこそ、俗世間の騎馬像や軍人像など偉い人たちの像ではなく、神様や仏様のような俗世間には実際にはいない存在を表す必要があったのでしょう。

 さらに、北村さんはどのような立場の人でも平和を祈ることができる像を作ることを意識していました。「極右、極左、保守、中庸派なるものが生ずる原因に就て深く考慮すべきだ」北村さんは戦時中、武器の製造に必要な金属を集めるため、鉄や銅などでできた像を壊されたり、戦後もGHQの意向で軍人像が撤去されたりする経験をしていました。特定の思想やイデオロギーに偏らない表現で平和祈念像を制作することが、時代を超えて受け入れてもらうために必要だと考えたのです。今も長崎から恒久の平和を訴え続けています。♥♥♥

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「豚丼屋TONTON」

◎週末はグルメ情報!!今週は豚丼屋

 美味しさで話題の「元祖豚丼屋TONTON」が、ついに山陰エリアに初登場です。2024年12月16日(月)、島根県松江市春日町「元祖豚丼屋TONTON 松江店」がオープンしました。北海道帯広の伝統的な豚丼松江で楽しめるお店ができました。北海道の帯広といえば、豚丼が有名ですが、なかなか現地まで足を運ぶことは難しいですよね。それが地元で、本場の味が楽しめるというのは、本当に魅力的です。私の自宅にも近い所のお店なので訪問してみました。

 「元祖豚丼屋TONTON」の特徴は、本場北海道・帯広の味を元にした秘伝の甘辛ダレを使用していることです。このタレに漬け込んだお肉を焼き上げる際には、注文を受けてから二度焼きを行い、余分な油を落としながら、香ばしさを存分に引き出します。その結果、食べるとお口いっぱいに広がる風味が楽しめるのです。これまでも新店オープン時には、最大2時間待ちの行列や、あっという間に売切れになるケースが続出し、その人気の高さを証明しています。

 松江店のオープンを祝して、特別キャンペーンを実施していました。12月16日から12月30日までの期間中、豚丼を1サイズ無料でアップグレードできるチャンスです。 並盛が830円(税込913円)で大盛、さらに大盛が1,030円(税込1,133円)で特盛にしてもらうことができました。年内は特に、豚バラ丼や豚ロース丼、お子さま向けメニューも提供していますので、家族連れでも楽しめそうです。さらに、挑戦者向けの大ボリュームメニュー「てっぺん盛り」もあり、制限時間内に完食すると無料になるという夢のような挑戦も用意されています。こちらのチャレンジは、テレビでも取り上げられており、多くの人がそのスリルに挑んでいます。

 開店から一週間経った頃に、開店直後の11時過ぎにお邪魔してみました。5,6人のお客さんです。私が食事をしている間にどんどんお客さんが増えていき、満席状態になっていきました。店内は、温かみのある照明と木を基調としたデザインで、居心地の良い空間になっています。一人でも入りやすいカウンター席と、グループで利用できるテーブル席があり、様々なシーンで利用することができます。頼んだのは「豚ロース丼」(830円)並盛りです。無料で1サイズ増やすことができるとの案内でしたが、そんなに食べ切れないので「並盛り」でお願いしました。脂分が少ないロースを食べやすい薄切りにし、秘伝のタレに漬け込んだお肉を炭火で豪快に焼いています。あっさり派の方にオススメです。本場の味を忠実に再現し、秘伝の甘辛いタレと香ばしい焼き目が食欲をそそる、こだわりの豚丼を提供しています。注文を受けてから丁寧に焼き上げる豚肉は、余分な油が落ち、旨味が凝縮されています。口にした時の香ばしさと、とろけるような肉の柔らかさが、ご飯との相性抜群です。実際に食べてみて、その期待は裏切られませんでした。豚肉の柔らかさとジューシーさはもちろん、タレの甘さと香ばしさが絶妙にマッチしていて、本当に美味しかったです。特に、二度焼きすることで余分な油が落ち、豚肉の旨味が凝縮されているのがよく分かりました。

 営業時間は11:00〜14:30と17:00〜22:00です。駐車場が狭いので、自転車や徒歩で来店した方には、レジで1割引をしてくれました。ラッキー!!♥♥♥

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逃げない!

 現・JR九州相談役の唐池恒二(からいけこうじ)さんの本『逃げない。』(PHP出版、2020年)を読んでいて、参考になる話がありました。博多・釜山間に高速連絡船をつくることになり(浸水を隠したまま運行していたことが発覚して船舶事業から撤退することを決定)、JR九州船舶事業部が1989年4月に発足しました。そのナンバー2の企画課長に任命された唐池さんが、部長の大嶋良三さんから、教えていただいた人生の指針です。大嶋さんは国鉄時代に岡山の宇野高松を結んでいた宇高連絡船の経営にあたっておられた海運のプロです。ある時、操船の極意について教えてもらったことがあったそうです。海で嵐に出くわした時の操船方法についてです。押し寄せる高波に対して、船首を真正面に向けると船は転覆しません。5万トンのタンカーでも10トンの漁船でも、これは変わらない鉄則です。どんな大きな波が来ても船が正面から向かっていくなら沈没はしません。ところが、高波に対し、船首を横に向けたり、波から逃げようと後ろ向きにしたりすると船は転覆します。どんな最新鋭の機器を積んだ大型船でも横波や追い波に抗する力はないのです。この話を聞いた時、大嶋さんの行動の原点が分かった気がしました。この教訓は人生や仕事にも通じることです。難局にも逃げずに真正面から立ち向かうと必ず解決する。いやな仕事から逃げたり、やっかいな仕事を直視しなかったり後回しにしたりすると、後で余計に問題が大きくなって取り返しがつかなくなるのです。「難局に直面したときには、逃げずに正面から立ち向かう。」という教訓ですね。私も若い頃から、この精神で頑張ってきました。「逃げない!」という哲学ですね。

 私の大好きなさだまさしさんが28歳の時に28億円の借金をしたことは有名です。1981年に、中国の長江を舞台にした映画を自分の資金で制作、ヒットはしましたが、それ以上に制作費が膨れ上がり、28億円の借金を背負いました。29歳のさださんが選んだ道は「歌で返す」というものでした。年間100本以上のコンサートを継続。30年かけて完済しました。最近のコンサートでは、自虐的に「過払い金はなかったのかなあ。10-10-10に電話してみようか」と笑いを取っておられます。

 「その責任の重さに眠れない日もありましたが、一方で、あまり大したことだとは思っていなかったんですよね。カネのことですから。要するに、駄目だったらつぶれるだけですし。自分が不名誉なことになって、抹殺されたとしても、その程度のことだろうと。みんなの前で公開処刑されるわけでもないし、そういう意味じゃ、破れかぶれのところがありましたね。僕個人が借りたカネですから、他の選択はなかったです。破産して借金から逃れる気持ちもなかった。今思えば、そこまで頑なに返済にこだわったのは、父の夢の後片付けだったからあもしれませんね。父が生きているうちに全額返済できてよかったです。」

 多額の負債を背負い、自分のことも大変困難だった時代にも、1992年の長崎・雲仙普賢岳の噴火災害のチャリティライブや、1987年から20年間も続いた「夏長崎から~平和祈念コンサート」で、原爆投下の地・長崎で生まれた自分の使命を果たし続けます。

 そのうちなんとか なるだろうって信じて 毎日頑張った。 何とかなるモンだよ 。

 何とかなると思って、 放っておくんじゃなくて、 何とかなると思って がんばっていれば、 事態はいくらか変わってくるものだ。   (「さだまさし一所懸命日めくりカレンダ-」より)

 その昔2016年11月8日(火)、午後8時からテレビ朝日系列「人生で大事なことは…”○○から学んだ!”」に、さだまさしさんが出演し、映画『長江』で背負った28歳で35億円(28億円+金利)の借金返済について生々しく語られました。また『BIG tomorrow』 2017年2月号(青春出版社)では、「借金があったから頑張れた!僕のお金と幸せ人生道、今も驀進中」と題するインタビューで当時の苦労を回想をしておられます。「関白宣言」「親父の一番長い日」「北の国から」など誰もが知る名曲を多数生み出し、これまで開催したコンサートは通算4500本を超えました。しかし、その大記録の裏には10ケタを超える「借金」という、やむにやまれぬ事情もあったのです。借金を返し、スタッフを食わせるためには懸命に働くしかなかった。今日は、さださんの「今振り返るなにくそ!人生の軌跡」をたどってみたいと思います。

 大借金の原因となったドキュメンタリー映画『長江』は、1980年代当時の長江沿岸の街並みや、中国国民の姿を映像に残した貴重な記録としても評価されているものですが、決して興業が失敗して借金を背負ったのではないのです。興業的には成功を収めているのですが、元手(製作費)をかけすぎたのがいけませんでした。借りる方も借りる方ですが、貸す方も貸す方ですね〔笑〕。さださんは、完済後のトークイベントなどでは「貸した方もプロだから、さだなら返せるとふんだのでしょう。そう思ったら、自分も一生懸命返すしかないと思った」と語っています。同時に「過払い金とかなかったのかなぁ…。ちゃんとした銀行だから、それはないか?!」と、お得意の話術で笑いをとっています。この辺にも、転んでもただでは起きない、負けじ魂や人生観がにじみ出ます。

 1981年、28歳のさださんは、中国大陸を流れる大河・揚子江を舞台にしたドキュメンタリー映画『長江』(主演・監督・音楽=さだまさし)を制作します。「大河の最初の一滴を見たい」という企画の実現を一番望んだのは、さださんのお父さん・雅人さんでした。戦争中兵隊として中国にいたこともあるし、祖父(大陸でスパイとして活躍)への思いからも、中国で映画を撮りたかったのでしょう。「今、長江を撮影する企画は6カ国が競合している。おたくの会社を調べたが、大変小さい会社だとわかった。しかし、お金が仕事をするのではなく、人が仕事をするのだから、最も優れた企画を出した貴社に撮影の権利を与える」と中国から返事が来て、プロジェクトが始まりました。最初は、テレビ局がバックアップしてくれるはずだったのですがうまくいかず、自分でやるしかなくなります(テレビ局が軽い安易な番組の別企画を出したら中国側がヘソを曲げた)。自己の手持ち資金は2億円。映画そのものは国内で120館で上映され、ヒットしますが、それ以上に経費がかさみ28億円の赤字、金利まで入れると35億円を個人で背負うことになります(例:中国の軍隊がヘリを使っての空撮、高価な35ミリフィルムを山のように使用、など)。

 監督と主演はさださん自身が担当。脚本、演出、撮影は日本映画界のプロに依頼し、撮影終了後の編集は、巨匠市川 崑監督が行なってくれることで話しがつきました。ちなみにスタッフ表には「製作総指揮」として、父・雅人氏の名前が掲載されています。さださんは後年「名前が載っているだけで何もしていない」と冗談めかしていますが、実は映画『長江』は、祖父・繁治氏はもちろんのこと、父・雅人氏にも捧げるための映画でもあったのです。父・雅人氏の映画『長江』への想い、応えようとした息子・まさし。先にも述べました通り、莫大な借金を抱えることが分かりながらも、途中で断念せず、映画をカタチにしたのは、さださんがお父さんの想いに応えようとしたからになりません。父・雅人さんは第二次大戦中、陸軍兵として中国戦線に身を投じていました。そして実は、対戦相手の中国兵に追われる中で、手榴弾の破片により左手親指と左耳の鼓膜に一生の大怪我を負った経験があるとのこと。その因縁の地こそが、まさに長江の沿岸部であり、さださんも最初の撮影でその地を開始場所として選んだと語っています。思うように進まない撮影と、膨らみ続ける借入金、実際の撮影はかなり過酷なものだったそうです。中国側から撮影許可こそ得ていたものの、その現場には常に公安関係者が張り付き、半ば監視されていた状態でした。そんな中で事前の調査なども行えないまま、現地において情報収集を行なって、ロケハンして撮影という非効率的なやり方を余儀なくされたそうです。それこそ監督・主演であるさださんは、一日3時間眠れればよい方だったとのこと。もちろんさださんの会社には、こうした進行を管理してくれる人材やノウハウもなく、スケジュールは大幅に遅れていき、その度に借入金も増え続ける一方でした。もう一つ、当初はVTRでの撮影を予定していたそうですが、映像劣化を防ぐ目的から、35ミリフィルムに変更したことも予算を大きく圧迫しました。 「最初の一滴」に辿りつけないままに、四川省で撮影継続を断念、結果的には、予算面でも当時の時代背景の面でも、当初の目的であった長江の最初の一滴を撮影することは叶わず、それでも祖父の縁の地、四川省までの撮影をもって継続を断念。その時点で30億円の費用がかかっており、自前で用意していた2億円を差し引き、28億円の借金が課せられることとなってしまったのです。

 なぜ中国で映画を撮ったかというと、ある意味で佐田家のルーツだったからです。さださんの祖父は中国大陸からシベリアを股にかけて諜報活動で活躍したスパイ(軍事探偵)、祖母はウラジオストックで一番大きな「松鶴楼」という料亭を経営するなど、中国大陸がさださんのルーツでもあり、小さい頃からの憧れだったからです。その松鶴楼に官憲に追われて逃げ込んできたのが祖父の佐田繁治さんでした。「滔滔と流れ続ける長江はまた、故郷長崎まで一直線に伸びたシルクロードと感じていた」と言います。さださんは、1980年の長者番付の歌手部門4位にランクインします。レコードのヒットで稼いだ手持ちの2億円を元手に、映画を撮り始めますが、終わってみたら30億近くかかってしまったというわけです。名目上の製作総指揮であった父・雅人氏は、中国より国賓扱いでもてなされ、表彰までされたとのことです。さださんは雅人氏の死後に、「親父は最後まで、とうとう一度も侘びも礼も言わなかった」と、これまた冗談めかして語りましたが、それもこの親子ならではの照れ隠しなのでしょう。

 金利を入れて35億円近い借金は、僕の会社ではなく、僕個人の借金ですから返さざるを得ない。でも、会社を維持し、社員に給料を払い、なおかつ税金も払いながらの返済ですので、かなり厳しかった。10日ごとに8千万円、5千万円、1億5千万円という手形を落とさなければならなかったわけですから…。負債額がわかったとき、破産宣言するよう勧めてくれた人もいました。「そうすればチャラになって楽になるから」と言って。このときは一晩考えましたね。その結果、貸した側の身になって考えてみよう、と。お金に関してはプロの銀行が融資してくれたのは「さだまさしなら返せる」と考えたからに違いない。だったら返せるんじゃないか。ここは”プロの勘”に懸けてみようと思ったんです。返済の過程で二度不渡りを出したことがありました。半年に二度不渡りを出すと銀行と取引停止になるんですけど、僕の場合は数年おいてでしたから会社はつぶれなかった。つぶれなかったことで「このままいけば返せるんじゃないか」と。そうすると勇気がわいてきて、それが「返そう!」というモチベーションになるんです。返済が終わったときは、ある種の脱力感に襲われたし、「ああ、これで返済に追われなくてすむ」と思いましたね。

 借金を返済する過程で感じたり、学んだことはいっぱいあります。ひとつは”人の情け”です。銀行の担当者をはじめおおぜいの人達が僕を助けてくれた。そういう意味では、僕はついていたし、本当に人に恵まれているな、と思ったことが何度もありました。それと、何事も最後の最後までわからない。だから、諦めてはいけないということも学びました。だから、僕は決して投げないですよ。そして何よりも僕のファンであり、コンサートに来てくださる方たちのパワーです。僕が莫大な借金を返済できたのも、前人未到のソロコンサート4千回を達成できたもひとえにファンのみなさんのおかげです。これからは、みなさんに恩返しをしなければいけない。ということは、僕は歌手をやめたくてもやめられないんですよ(笑)。   ―『女性自身』1月21日号

 さださんが恵まれていたのは、取り立てに会社に押し寄せて来る債権者が、照明・音響などの仕事仲間であったことで、「とりあえず、いくら足りないんだ」と逆にお金を持ってきてくれました。「今月はこの金をあっちに回して」と、スタッフと金の算段を話し合っている。さださんが「ごめんね」と謝ると、「お前には金のことはわからないから、向こうに行っとけ」と追い払われた、おかげで自分の仕事に専念できたことです。 借金を返し、スタッフを食わせるためにも懸命に働くしかありません。毎年、年間100本以上のコンサートで全国を回ったのには、こういう背景があったのです。当時、結婚したばかりの(奥様は島根県・浜田市出身)さださんは、1年以上家に給料は入れていません。同居していたお母さんの蓄えで暮らしていました。会社を解散しようかという話もあったそうですが、責任感の強い性格からか、ここで投げ出してしまえばお金を貸してくれた人に悪い、という思いがまず第一にあったし、その才能ゆえにどこかで「何とかなる」と思ってもいたようです。

 1987年、そんな自分の借金返済で大変な中、広島に原爆の落とされた8月6日に、長崎から平和を祈る野外コンサート「夏・長崎から」をスタートさせます。借金返済に追われる胸突き八丁の苦しい頃のことです。「そんなときに何でまた。そんなことをとお思いのことでしょう。…ほんと、何考えてんだか」。実はその前年、広島で平和コンサートが始まり、手弁当で歌いに行ったさださんは、同じ被爆地である長崎で、同じような平和を祈るコンサートがないことが悔しくなったのです。入場料を無料としたのは、家族の誰もが気軽にのぞけるように、というさださんの強い思い入れからでした。舞台設置費用に800万から1千万。アルバイトの人数も考え、スタッフの移動費、宿泊費、ギャラ、それにゲストへの謝礼を考えると、最低3千万円はかかります。3千万円は確実に赤字が出る。でもやらないわけにはいきませんでした。「有料にすれば只の商売にしか写らない。俺は故郷に世話になってきた分、どうしても平和を考えるコンサートをやりたい。と、なれば有料は駄目だ。誰でも来られる、それこそ夕涼みがてら家族で俺たちのコンサートを聴きに来るという”家族の構図”がもう平和の象徴になる。料金を取れば子供や老人は留守番になるかもしれない。チャリティにすれば志は曖昧に見えるのが世の常、人々はそこで動く”金額”にだけ気を取られる。純粋に俺が長崎で好きなことをやる、その代わりに、メッセージを伝える。だから無料でなければ駄目なんだ。スポンサーを探し、あちらこちらに頼み込む。俺が自分で頭を下げて歩くから、頼むから無料でやらせてくれ」 これが長崎で20年(1987年~2006年)も続きます(このコンサートを20年でやめた理由については私も詳しく取り上げています⇒コチラです)。この決断に対して、事務所の社長であった弟・佐田繁理さんは頭を抱え込んでしまったとのこと。しかしNHKによる全国放送の申し出や、さださんの心意気に賛同した企業(例えばパナソニック)、音楽界の仲間たちの協力、市民ボランティアの協力などもあり、以後20年間に渡って、長崎の夏の風物詩となっていったのです。まったくもって、あっぱれですね。ここら辺がさださんの男気です。借金返済で苦しく辛い時期に、スタッフの面々は、さださんを支え続けます。しかし始めた当初は、冷ややかに見ている人も多く、売名行為だとか、選挙に出るんじゃないかと批判する人もいました。

 今から10年前、デビュー30周年、コンサート3000回突破記念の時に、この借金のことを振り返って、次のように語っておられました。

 のことについては後悔はしています。あれが有意義でなかったとは少しも思わないけど、同じ額使うのなら、もっと効果的な、もっと世の中の役に立つ金の使い方もあったな、と。でも、これは結果論。あれは100年後に評価されますから。ま、返済には一生かかるけどね(笑う)。でも、金に対する恐怖心が消えた事件だったよね、僕にとっては。“何とかなる”ではなく、“何とかしなきゃ”って。身体の病気は金では治らないけど、貧乏は金で直るからね、翌日。金さえあれば翌日直っちゃうんだから。簡単なことだと。ただ、稼ぐのは大変だけど…。もし、あの時僕が35億借金していなければ、今その額を持っているかというと、たぶんそれはないと思うし。もしあの時に借金していなければ、その後はバブルで引っかかっているな、とね。一生立ち直れないくらいの傷を負っていただろうってね。あの時、まだ30歳前だったから、頑張って立て直そうと思ってきたし。この年になってみればまぁ冒険野郎だったな、と思うね。年とったときのネタになるね。話のネタに。“お前ら、スケールちいせぇよ”っていえるもん(笑う)。“5千万や1億でガタガタいうんじゃねぇ”って。会社の借金じゃなく、個人の借金だよ。俺、だから逃げ隠れできないんだよね(笑う)。あの時には社員にも迷惑かけたけど、立ち直ってきた今になれば、いい思い出だよ。 ―『週刊女性』

 返済には1にも2にも、音楽という本業での稼ぎを充てるしかなかったのです。そして、さださんには、CD(当時はレコード)の売上もさることながら、コンサートへの集客力の高さという強みがありました。そこで銘打ったのが「神出鬼没コンサート」。東京・大阪・名古屋といった大都市圏に限らず、地方都市や地域などもくまなく回るという作戦です。実際、借金直後の1982年には、年間162回!それ以降も、年間100本以上のソロコンサートを行うようになりました。もちろん、その合間に、曲づくりやレコーディング、テレビ・ラジオ番組の出演、さらには小説家として執筆作業もこなしながらです。いやはや、もう脱帽するしかありませんね。コンサートの集客のために行った、さださんならではの戦略とは?グレープ時代のヒット曲「精霊流し」「無縁坂」をはじめとして、ソロ歌手転向後の「雨やどり」、「関白宣言」、「道化師のソネット」、「防人の詩」、「秋桜」、そして「風に立つライオン」などなど、錚々たる名曲を生で聞くことができるコンサートは、もちろん魅力的なものです。しかし、そこに胡座をかくことなく、より魅力的に、よりリピーターや新規来場者を増やすために、さださんが行ったこと・・・それは「コンサートのバラエティ化」でした。次も来てくれるリピーターは今の半分。だから次も満員にするためには、その人たちにもう一人ずつ連れてきてもらうという「モットー」に基づいて、とにかく観察に徹底してサービスもします。こんなエピソードがあります。とある芸人さんは若手に対して「さださんのコンサートに行って、話術を勉強して来い」と命じたとのこと。また、さださん自身も「コンサートに来たお客さんから、曲はレコードで聞くから、もっとトークを聞かせてくれって言われちゃいました」というある種の自虐ネタを披露しておられます。これこそが、さだまさしのコンサートに来場者が絶えない理由と言っても過言ではないでしょう。3時間の公演のうち、楽曲演奏はもちろんのこと、合間のトークや、本格的な小噺(中学・高校時代には落研で磨いた)、故郷の思い出、ツアー先でのエピソード、寸劇なども取り入れ、持てるもの全てをお客さんに提供して心から楽しんでもらう。ステージ・トークだけを集めたCDや本まで出ているのは日本広しといえどもさださんだけでしょう。「会場を満員にするにはどうしたらよいか?」を必死に考える、この姿勢があったからこそ、4000回以上ものコンサートを今まで続けられ、ひいては借金完済まで実現できたのでしょう。ソロ歌手という言葉だけでは括りきれない、マルチな才能とはこのことです。58歳、およそ30年をかけての借金完済、そして父・雅人さんの死去。 2010年、いよいよ、その日がやってきます。さださんは映画『長江』で背負った合計35億円の借金を58歳にして、完済。実に30年近い年月をかけ、凡人ではとうてい不可能なことをやってのけたのです。そして奇しくも、息子の借金完済を見届けてまもなく、父・雅人さんは天国へと旅立ちました。決して偶然ではない、何かのおぼしめしがあったのだと、つい思ってしまいたくなりますね。父・雅人さんは生前、さださんに対して一度も礼や労い、侘びや謝意といった言葉を発したことはなかったそうです。

「ひたすらライブやって一心不乱になって返しました。借金から逃れる気持ちはなかった。たかだかお金のことだから返せるか返せないかでしょう。今思えば、そこまで頑なに返済にこだわったのは、父の夢の後片付けだったからかもしれませんね。父が生きているうちに全額返済できてよかったです。」(さだ談)

 一方、私たちファンの間では有名だったエピソードが一つあります。父・雅人さんは生前、自身が出向いたコンサート開場では、必ず開演前に入場口に立ち、来場者一人一人に挨拶。また終演後も、同じように、深々と礼をして観客を見送っていました。やがてファンの間では、お父さんに直接会って言葉を交わせることが、楽しみになっていきました。息子に直接言葉で言えない代わりに、自分にできるささやかな務めとして行なっていたのでしょうね。

 58歳になり「もう借金の心配をしなくてもいい」となった時には、「ああ、これで歌手をやめることができる」と心底思い、「よし、60歳になったらやめよう!」と心の中で誓った矢先に、東日本大震災が起きます。あまりのショックに呆然とする中、音楽の無力を感じ、しばらくは動けないままでした。気仙沼の階上中学校の卒業式で中学生が「苦境にあっても天を恨まず」と泣きながら叫んだ姿を見て(私も感動しました⇒コチラです)、目を覚まされたと言います。「がっかりしている場合じゃない。とにかく現場に行こう」と東北に向かいます。普段は絶対にさだまさしなど聴いてくれないような人たちまで喜ぶ姿に接して、「そうか、こういうときのために、さだまさしは有名になったんだな」と、まだまだやれることがあることに気づかされます。お客さんと正面から向かい合って、「今日のコンサートが、ラスト・コンサートになっても恥ずかしくないステージをやろう」と言い聞かせながら精進しておられる最近のさださんです。

 さださんは完済後のインタビューにおいて、「借金を返せたのは、ひとえにファンの皆さんのおかげ。また助けてくれる仲間がいたから」と答えています。そして歌手生活50年以上を経てなお、そうした皆さんに恩返しをするためにも、まだまだ引退することはできない」借金返済後も、「お客さんに育ててもらったのだから、お客さんに納得してもらえるまで走り続ける」とも。親子三代にわたるファンも多く、エンターテイメントの世界において、さだまさしというビッグネームは、今後も当分の間、私たちを楽しませ、感動させ続けてくれることでしょう。

 2025年1月13日には、能登半島地震で被災した石川県輪島市珠洲市を訪れ、昨年10月に長崎市で開いたチャリティーコンサートで集まった約2,400万円を、被災地や伝統工芸団体などに寄付しました。名曲「いのちの理由」も弾き語りで披露し「日本中に応援している人がいる。明日に向かって頑張りましょう」「本当に二重三重苦の中で、それでも頑張ってやろうって思っている人がたくさんいらっしゃるというのは、本当に心打たれますし、日本中で応援している人はいっぱいいるから、ここで切らないで、またつないで、明日へ向かって頑張りましょうというエールを届けに来ました」とエールを送りました。

 3月23日(日)には久々に(前回はコロナ禍真っ最中に人数制限をして対策下で強行)松江・島根県民会館でアコ-スティックコンサートが行われます。今から楽しみです。私は毎回会場の暗がりの中で、曲順、トーク内容をメモを取りながら聴いています。♥♥♥

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