「the flag」

 CSホームドラマチャンネルで、かつて小田和正さんがゲスト出演した番組「居酒屋の星野仙一」が11月24日(日)に再放送されました。“燃える男”の星野仙一さんとミュージシャン・小田和正さんのトーク番組で、長年親交のある2人が定年間近の同世代へのメッセージを熱く語り合いました。この番組は、2006年にNHKで放送されたトーク番組で、テレビのトーク番組にほとんど出演してこなかった小田さんが、ざっくばらんに本音を語っている非常に珍しい様子を観ることができます。当時の小田さん(59歳)が出演を快諾したのは、相手が大親友の星野仙一さんだったからにほかなりません。二人は1980年代に知り合って以来の大親友で、同じ昭和22年(1947年)生まれの「団塊の世代」です。1983年の星野さん(中日ドラゴンズ)の引退試合で、マウンドまで花束を届けに行ったのは小田さん本人でしたし、1984年、小田さんが「オフコース嫌い」を公言していたタモリさんの「笑っていいとも!」(フジテレビ系)「テレフォンショッキング」に出演した時、救いを求めるように電話をした相手が星野さんでした。星野さんは2013年に、楽天イーグルスの監督として日本一を果たしますが、その本拠地の開幕戦(仙台)で始球式を務めたのが、星野さんと同じ背番号77をつけた小田さんでした。残念ながら星野さんは2018年1月に逝去なさいましたが、同年4月に楽天の本拠地で行われた「追悼セレモニー」では、小田さんの「たしかなこと」が流されています。

 お互いの気心が知れている様子は、番組収録日に行われた小田さんのライブコンサートに、星野さんがゲストでステージに登壇する場面ですぐに分かりました。呼び込む時に小田さんが「こいつは何の芸もなくて」とイジり、星野さんが登場するとすかさずハグ。“闘将”“鉄拳制裁星野”と恐れられた男を「こいつ」呼ばわりして笑顔で迎えられる人間は、そうそういるものではありません。コンサート終了後、元中日・阪神で活躍した星野さんの愛弟子・大豊泰昭さんが経営する台湾料理店に場所を移してトークが始まると、相手を乗せつつ、本音を引き出す“最強のインタビュアー”と化した星野さんの前で、小田さんが饒舌に語り始めるのです。小田和正のラブソングはどのように作られているのか?歌に自身の経験はどれぐらい反映しているのか?なぜ小田の曲は幅広い客層に受け入れられるのか?東北大学で建築を学んでいた小田がなぜ音楽の道に進もうと決めたのか?建築と決別した瞬間とは?建築と歌づくりに共通点はあるのか?次々と明らかになる小田さんの秘話です。

 お互いを「頑固」「一人で何でも決める」と言い合う二人の大きな共通項は、「団塊の世代」のトップランナーであるという自負です。最も人口のボリュームが大きく、日本の成長と発展を支え、ただがむしゃらに働くだけでなく、政治的にも文化的にもさまざまなメッセージを社会に発信してきた世代です。その中でも、二人は野球界と音楽界をリード・変革する存在として走ってきた「熱く燃える男」「静かに燃える男」です。二人はいわば戦友同士なんです。私はこの番組を久々に見て、特に三つのことが印象に強く残りました。

 まず第一の点。実生活の中にはドロドロしたことがたくさんあるから、歌の世界ではドロドロした歌詞はあえて書かない、という小田さんに、「じゃあなぜ、あれだけの客層、ファンの支持を受けるのよ?」と鋭く問いかける星野さん。「だから、それはもうたぶん、みんなが同じ気持ちを持ってるんだ、って。君は空を見てるか風の音を聞いてる人たちなんだな、って思うのよ。で、普段それを日常生活の中で、やな上司がいたり、やってらんねーな、みたいなとこで、俺が歌ってるとこ来て、『君は空を見てるか、風の音を聞いてるか』って言った時に、『あ、そうだ、俺聞いてるよ!』っていう…その場なんだと。その場に来れるっていうような。素直になれるんだと思うんだよね。」「普段そんなこと言ったら、お前何言ってんの?って言われちゃうんだと思うんだよね。会社行って『みんな。今日は、空を、見上げたか?』とか言ったら、気持ちわりい上司だなって思われちゃうんだと思うのよ。それが、もう俺がゆってっから。『そうだよなっ!』って言うんだと思うな。」小田さんは自分の歩みを振り返って、「レールの敷かれていない時代を生きられたのはとても幸せ」と語りました。歌謡曲と演歌が幅をきかせていた音楽の世界の中で、新しい音楽を作り、「ニューミュージック」という新しいジャンルを牽引してきました。そんな小田さんを、多くの団塊の世代の人々が温かく迎え入れているということなんですね。

 第二に、小田さんの次の言葉が印象に残りました。「やっぱり、めんどくさいこと背負わなければ、絶対先には進めないよね。ぜったい。なんか、辛いなー、ってことがないと、不安だもん。要するに、簡単に次に進めそうな時は、どうも自分が信用できないんだ。こんな簡単にできちゃったんだけど、これでいいのかな?って思って。なんか苦労を背負わないと、ちゃんとしたもんになってないんじゃないか、っていう。いや、なっかなかできなかったとか、音楽でも新しい曲、要するに同じことやっちゃいけないと思うから。新しい曲を覚えて、辛い思いしてでも、なんとか覚えて、それを発表しないといけないんじゃないか、とか。そういうことがあると、『よし、これをやれば、乗り越えられんじゃないか』と思うんだよね。」小田さんならではの人生哲学でした。私も生徒たちには日頃から「力を尽くして狭き門より入れ」(ルカ伝)とアドバイスしています。

 三番目。番組の中では、小田さんが「団塊の世代」を意識して書いた曲がいくつか紹介されていました。CMなどでも知られる「たしかなこと」で、小田さんは〈同じ風に吹かれて 同じ時を生きてるんだ〉と歌っています。新しいレールを作ってきたのが団塊の世代。二人の言葉からは、たとえ面倒くさくても、カッコ悪くても、プライドを捨てて社会の中で先陣を切らなければいけないのが自分たちの世代であり、自分なのだという強い矜持を感じました。〈やがていつの日か この国のすべてを 僕らがこの手で変えてゆくんだったよね〉と歌う「the flag」は、もう一度、同世代の奮起を促す歌なんです。この曲をコンサート会場で聴いた星野さんは涙ぐんでいましたね。「今日聴いてて…、3曲目に『the flag』。涙出てきたんだよ。若い時にこう思って、…なんでお前それ貫かないんだと。頑固なまでに、この歳になっても、若い時の夢を貫こうよ!っていう風な、メッセージに聞こえたわけよ。定年、リストラ、早期退職、次の就職、もうひとつは孫の話。おいちょっと待てよお前ら、と。若い時のあの考え、『the flag』じゃないけども、あの考えを。もう少し、考え直してみろと。だから…ある意味、団塊の世代を代表して、俺は指揮とってたと。という風な監督時代だったよ。そういう意識はあったよ。今、そういう意識ない?歌ってて。」歌詞をじっくり読むと、もう一度戦おうよ、とメッセージを発していることがよく分かります。

    the flag
                      作詩・作曲 小田和正

たゞ 若かったから それだけのことかな
あの頃 僕らは 傷つけ合っていた

汚れなき想いと 譲れない誇りと
迷いのない心は どこへ行ったんだろう

あの時掲げた 僕らの旗だけが
今も揺れている 時の風の中で

それからの 僕らに 何があったんだろう
変わってしまったのは 僕らの方なんだ

自由な翼を 僕らは たたんで
二度と そこから 飛び立つことはなかった

やがていつの日か この国のすべてを
僕らが この手で 変えてゆくんだったよね

僕らが この手で すべてを

こゝから 行くべき その道は どこかと
できるなら もう一度 捜さないか
戦える 僕らの武器は 今 何かと
それを見つけて こゝへ 並ばないか

僕は諦めない 誰か 聞いて いるか
僕は こゝにいる 誰か そばに いるか

やがていつの日か この国のすべてを
僕らが この手で 変えてゆくんだったよね

あの時掲げた 僕らの旗だけが
一人揺れている 時の風の中で

 小田さんの「the flag」。この曲は私にとっても思い入れの強い曲です。2000年に、小田さんはアルバム『個人主義』をリリースします。アルバムのタイトルが示

個人主義

▲ジャケットの旗に注意!

すとおり、これまで彼の歌の中で、そこはかとなく内包されてきた世の中への問題意識や想いが、強く打ち出された形となった「主張するアルバム」です。その中の代表的な楽曲が「the flag」でした。自分の同世代へ向けたメッセージ・ソングという点で、特に際立った存在の曲です。自分の気持ちに素直になって歌う、小田さん自身が『個人主義』の中で打ち出したメッセージでした。アルバム・ジャケットが、小田さんの自画像が意匠された「旗」(flag)であったところを見ると(写真下)、この「the flag」こそが、小田さんの思い入れの最も強い楽曲だったように感じます。この『個人主義』は、オリコン週間チャートでは最高4位。必ずしも「売れた」アルバムではなかったのですが、小田さんの長い歴史の中では特筆すべき作品でした。

 60年代から70年代を共に生きてきた、学生時代の友人や同世代の仲間たちに、30年経って、みんなで「この国を変えよう」と議論していたあの頃はどこへ行ったのか、と問いかけます。“若かった頃の、汚れなき想いや譲れない誇りはどこへ行ったんだろう、僕らは変わってしまった、この国のすべてをこの手で変えてゆくと言っていたのに。今また戦う武器を見つけて、その道を探さないか”と、硬派の歌です。若さ一途に、理想や夢に向かって突っ走って妥協を許さなかったあの頃の頑なさや強さは、一体どこへ行ってしまったのか?と。この曲の中で「僕はあきらめない」「戦える僕らの武器」を持って「もう一度並ばないか」と呼びかけるのです。発売当時は「もうこういうことを唄っても良いのかもしれない」と語っておられましたね。心を解放して自分に素直に歌った歌でした。

 今回はとっても本来の部分の、理屈っぽい自分がけっこう頭をもたげたね。the flagはどう考えても男の歌だし、女にはわからないだろうと思う。けどべつにいいやって、今回は歩み寄らなかった。(小田談)

 優しいラブバラードがほとんどの小田さんの作品群(ほとんどの曲に「風」という言葉が登場しますね⇒私の詳しい解説はコチラ)の中にあって、チョット異色な楽曲で、私は大好きなんです。体育会系の小田さんの男気を垣間見れる作品です。そもそも、かつてのオフコースというバンド名自体も、“コースをはずれる”という意味の、つるむことや群れることを好まない硬派のものだったように思います。

 小田さんは77歳の今でも、同世代の先頭を切って歌い続けています。いつも励まし合い、共に戦ってきた二人のトップランナーが、それぞれの歩みの中間地点で大いに語り合った番組が「居酒屋の星野仙一」でした。残念ながら、星野さんはお亡くなりになりましたが、小田さんはまだお元気でご活躍で、今でも自己ベストを更新しながら、喜寿を祝おうとしておられます。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

二兎、三兎を追え!

 どんな仕事についても言えることなんですが、人は一つの仕事に熱中すればするほど、その仕事以外のことが全く見えなくなるという「視野狭窄」の心理に陥りがちです。超ハードスケジュールに忙殺されたり、あるいは仕事が面白くてたまらないなど、仕事以外が目に入らない状態が続いてしまうと、ついつい目先の問題だけにとらわれて、もっと大きな問題が見えなくなってしまうということがあるのです。

 実例を挙げてみましょう。ある生理学者がバッタの足の関節を調べ始めました。最初は、何か生理学上のあるテーマを解明するための一部分だったのですが、研究が進んでいくうちに、バッタの足についての興味が次から次へと湧いてきます。そのうちに、彼はバッタの関節の研究だけに没頭し、他のことは一切頭に入らなくなってしまいました。その結果、当初抱いていたはずの生理学上のテーマは、どこかに忘れ去られてしまい、そのテーマとの関連で明らかになるはずの、当の関節の機能自体についても狭い見方しかできなくなってしまったのです。この生理学者に限らず、人間というものは、どういう訳かこうした視野狭窄に陥りがちな動物なのです。特に真面目な人、仕事熱心な人であればあるほど、この傾向は強いようで、笑えない事例が実に多いのです。

 例えば、第一次世界大戦中、アメリカのマンハッタン計画」で原爆の開発にあたった数多くの科学者たちは、開発に没入するあまり、もし原爆が生まれたらそれが世界にどのような結果をもたらすかという、きわめて重大な問題については、まるで配慮することがありませんでした。そして、実際に原爆を生み出してしまってから、その脅威に気づき驚いて、あわてて原爆反対の意思表示をしたりしています。これもまた、人間なら誰でも陥りがちな視野狭窄の典型的な一例と言えるでしょう。

 私たちの日常生活の中でも、こうした例は非常に多く見られます。例えば、ある部品メーカーが、今月の納期に間に合わせようと製品づくりに必死です。ところが、下請け業者を急がせるために、品質管理が悪くなり、下手をすると納期が遅れそうです。そうなると、その品質管理を補いながら、なおもその仕事に没頭してしまい、他のことが一切見えなくなります。仕事を進める上で大切なスケジュール調整すらできなくなってしまうのです。そして、仕事が遅れる理由も冷静に分析することができずに、仕事はますます遅れるという悪循環に陥ってしまい、ついには納期を遅らせてしまいます。実は、下請けの業者を二軒に分散すれば、ごく簡単に解決できたはずなのです。視野狭窄に陥ったあげく、誰にでも気がつきそうなこの程度の問題にも気がつかず、一つの業者を、「早く、早く」と責め立てていたのです。こうした視野狭窄に陥らないためには、いったん仕事の現場から目を離し、外から客観的に、今の仕事を見つめてみる必要があります。しかし、一つの仕事だけに没頭していると、どうしても意識がそこから離れにくくなります。そこで、こんな場合、なかば強制的に意識を離すべく、その仕事に並行して、もうひとつの仕事を持ってみる。世間では「二兎を追う者は一兎をも得ず」(If you run for two hares, you  will catch neither.)ということわざもありますが、物の考え方に関しては、二兎を追う余裕を持つことが、一兎を追うためにもプラスになり、ひいては次の一兎、さらに次と、二兎どころか三兎をも得ることにつながるのです。この部品メーカーの例で言えば、今、受注している仕事にあわせて、来月の仕事を並行させて進める。こうすると、来月の仕事の段取り、準備が進すということ以上に、今進めている仕事を客観的に見るメリットが出てきます。こうしていったん自分の仕事を客観的に見ることができると、下請けの数が少ないのではないか、あるいは来月と今月の製品をチェンジすること、が可能ではないか、さらに、工程のどこかに無理があるのではないかといった問題点が見えてきます。

 古い話になりますが、この教訓を地で行った会社があります。かつてダイハツ自動車が、「ミゼット」という小型三輪トラックを作っていた時、太陽工業という下請け会社が、このミゼットの幌を一手に納入していました。このミゼットは当時、売れに売れたヒット商品でした。おかげで一時はこのミゼットの幌の売り上げが、太陽工業の総売り上げの7割を占めたこともあると言います。当然、当時の太陽工業は、残業、残業の連続で、毎日、幌の納品に追われていたのですが、当時の社長・能村龍太郎(のうむらりょうたろう)氏は、この猫の手も借りたい時に、同時に全く新しい商品の研究に着手していました。能村氏はこの時期、社員に命じて入手できる限りの海外の資料を集め、かつ欧米に派遣して、海外の動向を研究しています。その結果、日本で三輪トラックを作っていた当時、世ではライトバンが大量に作られていることが分かりました。つまり数年後には、日本でもライトバンが出まわり、幌を必要とする三輪トラックは姿を消すだろうことが予測できたのです。そこで、太陽工業はライトバンの内装の研究開発に着手し、続いて訪れたライトバン時代に見事に適応しています。太陽工業が生き残ったのは、幌の生産に忙殺されている時に、あえて研究開発という他の仕事を行うことによって、視野狭窄に陥らなかったからです。あえて幌作りから全く離れて、客観的な視点に立つことによって、幌作りの次に来るものは何か?というより大きな問題を探し出し、それに取り組むことができたのです。

 ついでながら、この能村社長(会長)に関しては面白いエピソードを読んだことがあります。東京で良い人材を確保しようと思ったら、立派なビルに住まなければ人は集まらない、と考えた能村さんは堂々たるビルを建てました。ところが、ビル建築費の金利が毎月80万円もかかりました。何とかこのビルを利活用して、別途に80万円を儲ける工夫はないものか?と、毎日ビルを眺めながら考えつめていました。と、ある日の新聞記事が目に留まりました。「またも北アルプスで学生遭難……」というような記事です。思い出して見ると、当時の若い人の登山熱は大変なものでした。毎年、何十人かの死傷者を出してもいました。痛ましいことです。と考えているうちに、あるアイデアが閃きました。「そうだ!ビルの外壁を安全で山にそっくりのロッククライミングの練習場にしたら?!」能村さんは研究の末、それを実行して、金利分を優に越すほどの収益を上げました。「必要は発明の母」と言いますが、まさしく切実な必要から必死に考えて飛躍した発想が閃いたのでした。問題意識こそが想像力の母胎なのです。 

 1971年の創業以来黒字経営を続け、独創的なコンセプト「新都市型ホテル」の提案や、DXを取り入れ、お客様に選ばれるホテルを追求して、急速な発展を続けている「アパホテル」(私も会員です)は 創業以来一度の赤字もなく、直近の2023年11月期連結売上高1,912億・経常利益533億円はいずれも過去最高の数値です。今もなお月に約2棟の新ホテルがオープンしています。このアパホテル(写真下)の取締役社長の元谷芙美子(もとやふみこ)さんの哲学で私が感心したのは、次のものです。

二兎を追うものは一兎も得ずと言いますが、一兎だけを追っていたら、どんなにがんばっても一兎しか得ることはできません。だから、たとえ難しくても二兎を追ってみる。そうすれば、二兎を得るチャンスが広がります。  ―元谷芙美子『強運』(SBクリエイティブ、2017年)

 なるほど、そういえば、私が赴任した頃の松江北高では多くの先生方が、「二兎を追え、三兎を追え!!」と、生徒たちに檄を飛ばしていましたっけ。勉強だけでなく、陸上の世界でも何人もの日本一の生徒を輩出していましたし、弓道でも日本一に輝きました。数々の部活動が全国レベルで活躍していたように思います。合唱や英語や将棋でも全国的に好成績を収めていました。これらは間違いなく生徒たちが「二兎、三兎を追った」結果だと思われます。最近では、そんな言葉を学校で聞くことすらなくなってしまいました。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

「Far East Cafe Press」終刊へ

 私のもとに衝撃的なお知らせが届きました。


 長らくご愛読いただきました「Far East Café PRESS」は2025年10月号をもちまして、現在の新聞形式での発行を終了し、以後は小田和正の情報をwebでご紹介させていただくこととなりました。つきましては、「Far East Café PRESS」購読のお申し込みにつきまして、以下のように変更させていただきたく、ご了承のほどよろしくお願いします。

 現在の新聞形式の新規購読会員募集は2024年11月20日をもって終了させていただきます。(2024年11月21日からは新規購読会員のお申し込みはお受けできなくなります。) 尚、購読継続の方につきましては2025年10月号まで引き続きお申し込みいただけます。


 大好きな小田和正(おだかずまさ、77歳)さんの「公式情報紙」としてこれまで月1回発行されて重宝してきた「FAR EAST CAFÉ PRESS」 が、来年10月発行分(420号)を最後に紙媒体としては終刊になるというのです。11月1日にホームページやエックスなどの公式メディアで発表されました。終刊後はウェブ上で情報を発信してゆく予定といいます。数々の雑誌の終刊と共に、「時代の流れ」を感じるところです。

 1990年の創刊以来34年間、今年10月発行分で408号を重ねてきました。(会員は1号500円でバックナンバーを購入できます)。私は長年ずっと購読を続けています。ファンの間では「プレス」の愛称で親しまれ、SNS上では惜しむ声が相次いでいます。私は股関節の手術で入院した際に購読の継続手続きができずに、退院後もう一度慌てて再入会手続きをしたぐらいです。残念とは思いますが、会紙の発行にはおそらく持ち出しの方が多かったでしょうし、これも時代の流れだと受け止めるしかありませんね。今春には「モバイルサイト」の終了もあり、小田さんの年齢(77歳)を考え合わせると活動の整理(終活?)かと勘ぐってしまいますが、今年の音楽活動そのものは、日比谷音楽祭、仲間のコンサート(スキマスイッチいきものがかり)への出演や、楽曲提供、新ベスト盤『自己ベスト3』のリリース(11月27日)と精力的でした。整理の動きだけが目立たないよう、小田さんサイドも考慮したのでしょうかね?会報は毎号実に見事な構成で、私は隅から隅まで熟読しています。小田さんご本人のインタビューが掲載される時には特に楽しみにしたものです。毎号登場する「間違い探し」(3箇所)も味のある素敵な絵で私の脳の活性化に貢献してくれました。コンテンツ的に手詰まり感があったのかもしれませんね。ツアーのチケット先行抽選の権利を得ることができるのも購読の魅力の一つでした。ともあれ、家内制手工業のように長い間編集を担ってきたであろう事務所のスタッフのみなさんに、「長年お疲れさまでした」と心より感謝したいと思います。情報を毎月届けるということに負荷がかかっていたこともあるでしょうし、「そこに縛られず、もう少し自由度の高い場所で情報を発信できるようにしていこうと思います」(最新会報より)とのことです。極端な話、カフェがなくなろうとグッズや会報がなくなろうとも、小田さんが元気で音楽活動を続けてさえくださったら、私はそれで十分なんです。

▲会報の最新号 毎号表紙と同じ写真のポストカードが届く 使えずじまいにひたすら貯めています

 11月27日(水)には、17年ぶりのベストアルバム『自己ベスト―3』(全16曲)が届きました。「このアルバムを出そうと思ったのは、残しておきたい楽曲が、まだまだあったからなんだよ。もちろんベストとなると“この曲は入れておきましょう”みたいな意見もあるわけで。そこに従いつつも、自分としては、こういう機会に入れておかないと“埋もれてしまうような曲”にこだわってね。全体としては少ないものの、そうした作品も選ばせてもらいましたね」と、小田さんはこだわりを語りました。また来る12月24日(火)午後10時から、自身がホスト役を務める恒例のTBS系音楽番組「クリスマスの約束」がコロナ禍以来3年ぶりに放送されます(10時~10時57分、11時56分~1時56分と二部構成)。久しく見ることができなかったので、これは実に楽しみです(でも20回目の今年で最終回!)。来年の5月1日からは、2年ぶりの全国アリーナツアー「みんなで自己ベスト!!」の開催が決定しています。13か所28公演で31万人を動員予定です。77歳7ヶ月での全国アリーナツアーは、昨年75歳で開催した時の自身の記録を塗り替え(その時は9か所18公演)、国内アーティストとして史上最年長記録を更新します。前人未踏の“自己ベスト”更新で、自ら喜寿を祝います。

 新しいアルバム『自己ベスト―3』が、初週5.1万枚を売り上げ、最新の「オリコン週間アルバムランキング」で初登場2位を獲得しました。77歳3カ月でのトップ3入りとなり、2022年7月年に吉田拓郎『ah―面白かった』で達成した76歳3カ月を抜いて「アルバムTOP3入り最年長アーティスト」の歴代1位となりました。♥♥♥

▲小田和正『自己ベスト・3』と特典のオリジナルステッカー

カテゴリー: 私の好きな芸能人 | コメントする

渡部昇一先生のエピソード(34)~分からないことを恐れない

 尊敬する故・渡部昇一先生がまだ上智大学にお勤めだった頃、入学試験の面接でいつも苦笑しておられたことがありました。受験生に「愛読書は?」と聞くと、三人に一人ぐらいが決まって「夏目漱石!」と答えるのです。渡部先生漱石を読み始めたのは大学三年生の頃で、文系の大学生としてはかなり遅い方だったのです。なぜそんな年齢になるまで漱石を読まなかったかと言うと、どうしても面白いと思えなかったからでした。先生が面白いと思う本にはかなりの偏りがありました。なにしろ、当時講談全集や落語全集、そして、大好きだった佐々木邦という作家の全集は表紙が擦り切れるまで繰り返し読んでいるのに、夏目漱石森鴎外などは、一冊も持っておられませんでした。それでもと、大学に入って最初の夏休みに、漱石『草枕』を読んでみました。しかし、非常に薄い本であったにもかかわらず、最後まで読み通すことができません。どうしても面白いとは思えなかったのです。それが大学三年生の頃、教育実習で神楽坂のあたりを毎日歩き、上京して初めて「東京」というものを感じて以来、俄然、漱石が面白くなったと言います。神楽坂は、漱石が住んでいたあたりからそれほど遠くはありません。それまで知らなかった「東京」を肌で感じ、東京のインテリの体験を綴った漱石の小説が分かるようになったことが、先生の中で、漱石を面白いと思うようになったきっかけだったのです。

 愛読書に漱石を挙げる受験生が、決して嘘を言っているわけではないでしょう。おそらく、中学か高校の頃に読み始めて、それなりに面白いとは思ったのでしょう。しかし、先生が大学三年生の時に感じた面白さとは質が違うのではないかと思えてなりませんでした。例えば、『吾輩は猫である』は、中学生の必須読書本のごとくになっていますが、そこで繰り広げられているのは、当時の漱石が、寺田寅彦森田草平などを相手にして実際にしゃべっていたのと同水準の会話です。それを、中学生や高校生が読んで、心から面白いと思えるだろうか?ひょっとしたら、彼らは漱石を愛読したと思い込んでいるのではないか?こんな危惧さえ抱いてしまうのだ、と述べておられましたね。

 どうして渡部先生が、ここまでこの問題にこだわられるかというと、この「愛読したつもり」、「分かったつもり」という思い込みこそが、周囲に流され、自己の成長を止める危険があるからでした。先生の高校時代の恩師である佐藤順太(さとうじゅんた)先生は、分からないことを分からないとはっきりおっしゃる方でした(⇒この恩師の先生についてはコチラに詳しく紹介しました)。この先生を神の如く崇めていた渡部先生は、以降「分からない」ということを一切恐れなくなりました。つまり、自分の正直な実感を一番の拠り所にしたということです。だから、漱石も大学三年生で本当に面白いと思うようになるまでは読まれませんでした。難しいことを分かったように話すのが一種のトレンドであった大学でも、分からなければ、はっきりと分からないと言いました。分かったつもりになっていることからは、何も学ぶことはできません。ただ周囲に合わせて「知ったかぶり」をしているだけでは、何一つ得るものはないのです。私も漱石を読み始めたのは、大学一年生の時に、高校時代の恩師に『漱石全集』(岩波書店)をプレゼントしてもらってからでした(大学一年の学期試験で全科目「優」を取ったらプレゼントしてやるとの約束でいただきました。感謝!)。特に漱石の英語力に強く惹かれました。

 知識であれ何であれ、人の中に何かが蓄積されるとき、そこには、必ず自分自身の「分かった!」という実感があるものです。だから、しっかりと自分の頭で考え、面白いと思うもの、ぞくぞくするほど分かったと思うものだけを着実に積み上げていけば、その全てが、自分の血となり肉となるのです。読書にせよ、勉強にせよ、何にせよ、この已に対する忠実さこそが、真に人を成長させるのです。大切なのは、分からないものを分からないとし、分からないという状態に耐え、本当に分かったものだけを分かったことにすることです。周囲に流されない、考える頭を養うためには、この決意が不可欠なのだ、と強くおっしゃっておられました。渡部先生「つねに“知の驕り”を慎む」という謙虚な態度を実践なさっておられたのです。

 私の恩師故・安藤貞雄先生も、かつて「英語の理想の教師像」として、7つの教えを私に語って下さいましたが、その中の一つが次のものでした。

 生徒の質問にごまかさずに誠実に答えること。自信をもって答えられない場合は、十分に調べた上、後ほど報告すること。(生徒に誠実でありたいと思うならば、このような措置は当然であろう。)

 私は「分からない」ことは「分からない」と言います。そして分かるまで調べ上げます。一つの疑問の解決に10年以上(!)要したこともあります。生徒たちにも日頃から「自分の疑問」を大切にするように強調しています。♥♥♥

カテゴリー: 渡部昇一先生のエピソード | コメントする

ORIGAMI

◎週末はグルメ情報!!今週はコーヒーカップ

 無類のコーヒー好きの私は、いろいろなコーヒーカップを買い求めています。同じ一杯のコーヒーでも、お気に入りのカップで飲むと、やはり気分が上がるものです。一杯のコーヒーが日常に彩りを与え、人と人とをつなぎ新しい世界への扉となります。私の一番のお気に入りはウェッジウッドのものです。コーヒーをよく飲むようになってからは、旅先でおしゃれなカップを見つけると、思わず買ってしまうことが多くなりました。そんな私の最近のお気に入りのコーヒーカップ「ORIGAMI」は、プロのバリスタの願いから生まれたブランドです。よりよい一杯を追求し続けるすべてのバリスタのために、 バリスタと向き合い、共に成長し、ともに世界を旅する、これが「ORIGAMI」の変わることのないスローガンです。ORIGAMIドリッパーでも有名な「ORIGAMI」のカップ。UCCより届けてもらいました。カラーやフォルムの選択肢がとても豊富で、本当に迷ってしまいます。

 「たった一杯のコーヒーが、日常に彩りを与え、人と人をつなげ、新しい世界への扉となる、美味しいコーヒーが増えたら、もっと世界は楽しくなる」。バリスタの願いから生まれ、バリスタと共に歩むORIGAMIの切なる想いです。

▲最高のコーヒー(ブルーマウンテン)と大好きなケーキ

 扱いやすいこと。頑丈であること。主張し過ぎず、しかし洗練されたデザインであること。何より、コーヒーが美味しくなること。ORIGAMIがこだわるのは機能性であり、利便性と実用性を備えた魅力的な道具であること、バリスタにとって真に実用的な道具を目指しています。「ORIGAMI」商品では、色とりどりの豊富なカラーバリエーションを展開しています。お買いものでの選ぶ楽しさを感じて欲しいとともに、どんなコンセプトのお店にもフィットする道具でありたいというのが会社のスタンスなのです。

 ごくわずかなブレがドリップの精度を左右する競技会においても、「ORIGAMI」の製品が支持されている理由の一つは、プロに選ばれ続ける商品の安定品質にあります。日本有数の陶磁器の産地である岐阜県美濃地方で、熟練の職人による手仕事と最新設備のテクノロジーの融合により、高品質で安定したプロダクトの提供を可能にしました。400年以上の伝統を誇る美濃焼(陶磁器の飲食器製造の6割を占める)の伝統技術と、バリスタの追求する「おいしさ」を融合して共同開発されたのがORIGAMI(オリガミ)のカップ&ソーサーです。特筆すべきは「口当たりの良さ」です。カップの縁は程よい薄さで、それが口元に触れた時の飲みやすさに繋がっています。胴部分はしっかりとした厚みとなっているので、保温性にも優れ、強度も問題のない作りとなっています。またカップが指にフィットするように計算されたハンドルです。

 「ESPRESSO」は、エスプレッソ用に造られたカップ。主にラテアートやカプチーノを作る際に、カップ内の曲線はミルクと混ざりやすいよう”対流構造”が意識されています。エスプレッソ用だけど普通にコーヒーを淹れたり、ミルクと混ぜてカフェオレを作ったりしても全然いいんです。カラーはターコイズ。エスプレッソマシンとかは持っていないので、普通にコーヒーを淹れて使っています。容量は250mlあり、たくさん飲みたいときにいいですね。取っ手の部分は指1本入る大きさ。呑み口を含めた全体に厚みがあるので保温性に優れ、冷めにくいのが特徴。苦味や質感を感じやすく、深煎りのような重ためのコーヒーともよく合います。コーヒーがなかなか冷めないのも特徴です。八幡は最近は、もっぱらこのカップで美味しいコーヒーを楽しんでいます。そのコーヒーが、品不足から大幅に値上げになるというショッキングなニュースが流れています。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

投手王国をつくるための3年計画

 巨人・桑田真澄2軍監督(56歳)が12月1日、上原浩治(49歳)さんがご意見番を務めるTBS系番組「サンデーモーニング」にゲスト出演して、巨人の投手陣について興味深いお話しをされました。桑田2軍監督は、「2022年ですかね。1軍の投手コーチをやってた時に『投手王国をつくるための3年計画』というのを7人の投手で始めたんですね。そのうちの3人が、ちょうど今年が3年計画の3年目で侍ジャパンのユニホームを着て投げてくれたっていうのは、個人的にはうれしかったですね」と話しました。その3人とは、先日まで行われていた「プレミア12」に巨人から出場した大勢(25歳)、戸郷翔征(24歳)、井上温大(23歳)の3投手です。『投手王国をつくるための3年計画』へえー、そんなのがあったんですね。残る4人は、赤星優志(25歳)、横川 凱(24歳)、堀田賢慎(23歳)、山崎伊織(26歳)で、その7名で構成していたと名前を挙げました。来季はメジャー挑戦を決めた今季15勝したエースの菅野智之が抜けるのですが、「さらにですよ、今季入団した西舘勇陽(22歳)、又木鉄平(25歳)というピッチャーもいますので、菅野君の穴は若いピッチャーたちで埋めていけるんじゃないかなと思っています」と話していました。若いピッチャーがめきめきと力をつけてきており、一応筋は通っていますね。

 確かに、原辰徳前監督「2年後くらいには投手王国ができる」と発言していたおと思います。巨人が強い時代は投手力が優れていました。試合に出続ける野手に光が当たりがちですが、過去を振り返っても、勝っている時は強力な先発、ブルペン陣を抱えていました。各投手が最小失点に抑えれば勝率は高くなる。原監督も手応えを感じていたからの発言だったのでしょう。巨人の昨季のチーム防御率はリーグワースト3.69で、「Bクラスとなった原因」とされていました。将来的にチームの軸になれる投手をテストする期間にもなったと思います。今季は戸郷、山崎が10勝以上を挙げ、今後どれだけ彼らがさらに“本格ブレイク”を果たせるかがチームの成績を大きく左右しそうです。生え抜きの投手たちが王国を形成できるのか。来季の巨人の若手ピッチャーたちに注目したいと思います。

 ドラフト3位で入団した赤星投手はルーキーイヤーの昨季、2試合目の登板となる4月3日の阪神戦(東京ドーム)でプロ初勝利をマーク。その後は3戦連続のKO、リリーフへの配置転換も経験しましたが、9月には先発した試合で2勝を挙げるなど、今季はさらなる飛躍が期待されていました。キレのあるストレートを投げるぴっちゃです。しかし、今季は先発しても、先発しても負け続け、わずか1勝7敗に終わりました(いいピッチングをしてはいたのですが、援護がなく辛抱ができずにポカをして負けるというパターンの繰り返しでした)。来季には期待です。

 桑田二軍監督は現役引退後に早稲田大学の大学院でスポーツ科学を学ぶなど、メカニックの専門家で、リハビリ中の育成選手、身体の使い方を習得中の若手投手などの指導には適任だと思います。彼の知識、経験が最大限に生かせるはず。育成契約となった投手も虎視眈々と一軍での活躍を狙っています。チーム内に激しい競争が生まれることも良い兆候です。

 昨年チームは低迷しましたが、今季は先発、リリーフともに“核”となる投手が現れて、抜群の投手力で優勝することができました(セリーグNo.1)。まずは戸郷を中心とした強固な3本柱を作りたいところです。そこに他の20代の投手が切磋琢磨して追い付いて欲しいと思います。私は戸郷、山崎、赤星の3本柱に期待したいと思います。共に制球力に優れていて大崩れしないのが共通した良い点です。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

「フェリシモチョコレートミュージアム」

▲フェリシモ新社屋

 通販大手のフェリシモは昭和40年創業の大阪に本社を置く会社でした。神戸市の「ファッション都市宣言」に魅力を感じ神戸に移転してきました。元町の旧居留地にあった旧本社より海寄りの場所に自社ビルを建設を計画する際に、多くの人に開かれて、地域に喜んでもらえるミュージアムを建物内に作ることにしました。目の前に神戸港を臨むフェリシモ新社屋(「Stage Felissimo(ステージ・フェリシモ)」)2階に2021年10月にオープンした、世界中のさまざまなチョコレートのパッケージをコレクションする「フェリシモチョコレートミュージアム」です。「神戸から新しいチョコレート文化を発信する」をコンセプトに、世界中のチョコレートやカカオに関する情報、パッケージを展示しているミュージアムです。世界で最も多くのチョコレートパッケージをコレクションするミュージアムを目指しています。ミュージアムのネーミングから、チョコレートを展示していると思われがちですが、実際にはチョコレートのパッケージをコレクションしているんです。1996年以来、“幸福(しあわせ)のチョコレート”として世界のレアチョコレートを日本に紹介し続けてきたフェリシモが、世界のチョコレートやカカオに関する歴史や文化、情報を収集・編集し、常設展や企画展を通じて発信しています。ユニークな展覧会を通して、多彩なチョコレートやカカオの可能性を体験することができます。神戸には、150年の歴史を誇る神戸港を交流の窓口として、さまざまな西洋文化を受け入れてきた歴史があります。ユーハイム、モロゾフといった神戸発の老舗洋菓子ブランドはその象徴でしょう。チョコレートもその一つです。チョコレートには、食べる人も、作る人も、贈る人も、みんなを笑顔にする優しさと力があります。このミュージアムでは、チョコレートそのものの技術的な製造工程ではなく、チョコレートやカカオに関する歴史・文化・レジェンド、そして革新にまつわるさまざまな情報やファッションやアートやカルチャーとの繋がりなどを収集・編集・発信します。視覚や臭覚など五感で楽しめるような場所に工夫されています。

 チョコレートは人をしあわせにする食べ物です。また、贈り物になりやすい、という特徴もある。そこには、人をしあわせにするために(チョコレートという)しあわせを包み込んだパッケージがあります。(代表取締役 矢崎和彦)

 チョコレートのパッケージをメインの収蔵品として、また、常設展や企画展を通じて、世界のチョコレートやカカオに関する歴史や文化、情報を収集・編集、発信します。チョコレートやカカオとともにある幸せや、新たな価値を発見するユニークなミュージアムをチョコレートを愛する皆さんと共に創り上げていきたいと思っています。また、ミュージアムでは、ショコラティエの想いや創造性が余すところなく表現されたパッケージの意義を後世に伝えていくために、世界中のチョコレートパッケージを収集・展示・保管しています。「felissimo chocolate museum」 は、チョコレートとの新たな関係を育む場として、チョコレートを愛する人たちと一緒に創るミュージアムになることを目指し、2021年10月にオープンしました。一つひとつのスクエアに配置された“CHOCOLATE”の文字は、“宝石”になぞらえられたチョコレートのひと粒ひと粒をイメージしており、マーク全体がひとつの“宝石箱”のようになっています。また、この“宝石箱”は「felissimo chocolate museum」の見どころのひとつである「世界のチョコレートパッケージコレクション」を構成する個々の「パッケージ」の姿も表しています。

 ここ神戸に誕生した「フェリシモ チョコレート ミュージアム」は、約500ブランド約18,000点以上のチョコレートパッケージを収集・展示しつつ鑑賞できる、チョコレートの博物館です。“世界で最も多くのチョコレートパッケージをコレクションするミュージアム”を目指しています。

「フェリシモ チョコレート ミュージアム」神戸に、世界500ブランドのチョコパッケージ1万点以上集結|写真1

 建物の中に入ると、長い真っ白な空間が広がっています。長い真っ白な階段は上から光が射して輝いていました。

 館内は8つの常設展のコーナーに分かれていて、イントロダクションとなる部屋「プレリュード(prelude)」、寄贈寄託されたチョコレートパッケージの中からテーマを設けて常設展を行う「クリエイティブウォーク(creative walk)」、チョコレートやカカオと様々なジャンルのアートとのコラボレーションを軸にした企画展を行う「アートスクエア(art square)」など様々なエリアで構成。グッズやチョコレートを販売するミュージアムショップ「ミュージアム ホリック(museum holic)」も併設しています。

 最初のコーナーは「prelude(プレリュード)」と銘打たれた薄暗い部屋。保存のために照明は最小限にされています。ミルクチョコレートを思わせるブラウンを基調とした受付・ミュージアムショップのゾーンを抜けると、チョコレートの甘い香りが!

 アーティスト木村浩一郎氏のオリジナルの展示台オブジェの上に、チョコレートの原材料であるカカオ豆の種皮(カカオハスク)がびっしりと敷き詰められています。チョコの甘い香りがあたり一面に漂い、訪れた人を、嗅覚でうっとりとチョコレートの世界へ誘います。土台となっているのは「MIYAVIE」というポリエチレンなどの樹脂を加工した新素材によるものです。照明が落とされているのは、臭覚に意識を向けてもらうための趣向なんだそうです。確かに、部屋いっぱいに広がるチョコレートの甘い香りに思わず笑みがこぼれてしまいます。この幸せの香りの正体は「カカオハスク」と呼ばれるカカオ豆の種皮の展示、それとイタリアの調香師がブレンドしたものを焚いているというアロマでした。臭覚でチョコレートを感じるインスタレーションです。

 ミュージアムの天井高くまで並べられた、世界中のチョコレートパッケージのコレクションを展示するコーナー「symphonic forest(シンフォニック フォレスト)」は圧巻です!ヨーロッパの美術館でガラス張りの保管庫をそのまま展示室として公開していたことを思い出し、デザイナーと相談して、棚の寸法から全てオリジナルで設計し、収蔵と展示を一度に行える空間を作り上げました。

チョコレート パッケージ

 味覚だけにとどまらないチョコレートの多様なクリエイティビティーを感じることができます。ミュージアム開館にあたり、国内外のショコラティおよびチョコレート関係者、フェリシモの取引先企業、そして一般のコレクターの方々から寄贈・寄託された12,000点・500ブランド以上のチョコレートパッケージが床から天井まで壁一面695段のショーケースに並べられて収蔵・展示されています。そのあまりの数と種類に圧倒されます。そのコレクションが順次入れ替えられ、展示されています。収蔵庫がショーケースのようになっています(収蔵展示)。四方の壁が天井まで展示ケースになった空間は圧巻です。後世に残すべき貴重な資料でしょう。

チョコレート パッケージ

 「art square(アートスクエア)」と名付けられた企画展示エリア「AMAI」では、イタリアのアーティストValerio Berruti(ヴァリレオ・ベッルーティ)氏による、カカオ豆を輸送する際に使用するジュート(麻袋)をキャンバス代わりに描いた作品が。お隣のエリア「imagination picnic(イマジネーションピクニック)には、板チョコの巨大模型が。壁に展示された巨大チョコレートはまさに写真映えスポットです。このオブジェは取り外しが可能で、ひびのような箇所から取り外して、チョコのかけらを手に持って、SNS映えを狙える写真を撮ることができます。なじみのある大手菓子メーカーから海外の小さなチョコレート工房のものまで、チョコレートの多彩なデザイン表現を楽しむことができます。カラフルでかわいらしいパッケージをひとつすつ眺めていると時間が経っのを忘れてしまいます。

チョコレート パッケージ 展示 下から

 高い所に飾られているパッケージは、下から見えるように透けた棚に下向きに置いているのもポイントです。工夫を凝らした展示に、思わずぴんと背筋が伸びて見入ってしまうのも面白いですよ。

 2022年3月21日(月)までは、スイスの高級機械式時計メーカー『フランク ミュラー』が展開する『フランク ミュラー パティスリー』に関する企画展が開催されていました。4月1日からは初の展示替えとなる新しい企画展「6 Essenses―チョコレートを表現する6人の知覚」『AMAI―Valerio Berrutiの世界』、常設展『Morozoff―90年の記憶―』を開催していました。

 『フランク ミュラー』の日常時間の過ごし方のひとつとして、スイーツを愛でる時間や豊かな時を楽しむ空間を提案していました。素材や製法にこだわったチョコレート菓子の数々は、時計作りの本質に則って、日本文化への理解や自分自身の人生を大切に生きるという理念から誕生したそうです。「しあわせな時」「至福の時」とは、どのような「時」かを問いかける展示です。

 展示室の最後は、歴史や文学作品に登場するチョコレートにまつわる言葉、チョコレートづくりに携わる方々やチョコレートを愛する方々からのメッセージを紹介するコーナー「magic spells(マジックスペルズ)」です。

 展示を堪能した後に迎えてくれるのがミュージアムショップ「museum holic(ミュージアムホリック)」です(ここはチケット不要)。展覧会に関連したチョコレートや限定グッズや図録、記念品やお土産、バッグなどのミュージアムのオリジナルグッズなど、ここでしか入手できないものもたくさんあります。このミュージアムのエピローグですね。

 担当者は「このミュージアムを拠点として、世界のチョコレートやカカオに関する歴史、文化、レジェンドなどの様々な情報のほか、ファッションやアートとのつながりなどを収集・発信していきます」と意気込んでいます。訪れてみて、笑顔を生むお菓子・チョコレートの魅力をチョコレートを愛する人々と一緒に創っていくミュージアムと感じました。♥♥♥

 訪れた人たちから、様々な反応がもらえる場所でいたいですね。チョコレートや展示テーマ、アートや作家などについて興味を持ってもらえたら嬉しいし、この作品や展示があまり好きじゃないと思うなら、それはそれで結なんです。見ただけで終わらず、何かを感じていただける場所でありたいです。池田香学芸員

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

稲尾和久投手

 プロ野球投手の鉄人・稲尾和久(いなおかずひさ、1937―2007年)さんの苦労話を本で読みました。昭和時代後期の豪腕投手で、1956年に西鉄に入団すると、21勝で新人王、1957年から3年連続で30勝以上。1961年はなんと42勝も!今では考えられない働きぶりです。1958年には、巨人が相手の日本シリーズで3連敗のあと、4連投して逆転優勝に尽くし、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれました。実働14年、通算276勝137敗。1993年に野球殿堂入りしました。

 大分県内の無名の高校で、甲子園にも行けなかった投手の実家に、プロのスカウト(西鉄)がやって来て、契約金50万円を現金で積んでくれて、それを見たお母さんが目を白黒させてひっくり返ってしまった、というエピソードが書いてありました。稲尾投手は喜んで球団に入り、練習生として頑張りました。一緒に入った甲子園に出場したエース候補のピッチャーはブルペンで練習するのですが、稲尾さんはバッティングピッチャー(打撃投手)として来る日も来る日も300球~400球ほど投げ込みます。当時の西鉄には中西太大下弘豊田泰光といったものすごい強打者がいて、それがバットをぶんぶん振り回してきます。まだ防護ネットのない時代に、打球は自分の体のすぐ横をかすめ、うなりを上げて飛んでいきます。まともに当たったら死ぬかも知れないと思うぐらいの恐怖心を抱きながら放っていました。ストライクばかりでは打者によっては「疲れるではないか。3球に1球は外せ!」と言われ、ボール球も球1個分を外し、内角のあとは外角へと試していきました。いずれ劣らぬつわもの、くせ者相手の100球はブルペンでの200球の値打ちがありました。次第に打撃練習のマウンドが「宝の山」へと変わっていきます。この実践で緻密な制球力が身についたのです。後年「精密機械」と呼ばれた絶妙なコントロールは、こうやって磨かれていったのでした。練習から帰ると、宿舎の二階までの階段が上がれないほどへとへとになっていたそうです。

 そのうちに、一緒に入った高卒のエース候補に「おまえ、契約金いくらもらったんだ?」と聞いたら、一人がいとも簡単に「500万」、もう一人は「800万」と答えました。稲尾さんのお母さんは50万円で目を白黒させてひっくり返ったのに……。「月給は?」と聞いたら「月給は50万だ」と。普通ならそこで、世の中を恨んだり、そねんだり、妬んだりするところなのですが、稲尾さんは違いました。それはしようがないな、あいつらは有名な、甲子園に出場したピッチャーであって、自分は無名だったんだからと、黙々とバッティングピッチャーを続けていました。そのキャンプの打撃練習で、稲尾の絶妙のコントロールに目をつけた主軸打者の豊田中西が、「稲尾起用」三原脩監督に進言したことによって、開幕早々に一軍でチャンスをもらい、一気に才能を花開かせたのでした。

 そうやって稲尾さんは自らどんどん苦労を買って、だまされることを承知の上で、昨日も先発で投げ、今日もまた途中で投げ、明日も投げと、一言の不満も言わずに淡々と投げ続け、西鉄の日本一に大いに貢献しました。酷使されても喜んで投げていく、一心不乱に野球に打ち込むことによって素晴らしい人間性ができあがっていきました。本人は投げるのが大好き。頼られると意気に感じるタイプだけに、酷使された感覚は全くありませんでした。しかし、その「労働量」はすさまじいというほかはありません。投手の役割分担がまだ確立していない時代でしたから、「先発、そして救援に」と酷使されて、投手寿命は短命に終わりました。例えば記録を、稲尾さんよりプロ入りが26年遅い工藤公康投手(西武など)と比べると、その差は歴然としています。稲尾は実働14年、756試合に登板して、完投179、投球回3599、276勝137敗、防御率1.98。工藤は実働29年、635試合に登板して、完投116、投球回3336回2/3、224勝142敗3セーブ、防御率3.45。ご本人は後年「私の投手人生は8年で終わった」と述懐しました。恨みがましい響きは一切ありませんでした。新人時代から4年間、稲尾を“酷使”した三原脩監督「選手には『旬』がある。その時期を逃さず稼がせてやるのも監督の使命」と語りました。同世代の藤田元司(巨人)、秋山登(大洋)、杉浦忠(南海)、権藤博(中日)らもこの時代の流れに沿い、投手としては短命でした。もし仮に稲尾が先発専任で、中5日のローテーションで投げていたらどんな成績を残し、どれほどの生涯年俸を稼いだことでしょうか?酷使されても喜んで投げていく、そういう苦労をして精進した稲尾さんは、「ひたすら働くことの価値」を教えてくれます。

 あの大打者・野村克也さんは南海ホークスの4番として稲尾さんとはライバル関係にありました。どうしても稲尾さんの変化球(カーブ)を打てなかった野村さんですが、攻略法を探すために、当時はまだ珍しかった「16ミリフィルム」で録画して徹底して研究したそうです。お互いのクセや作戦を研究し合うなど「一流が一流を育てる」を絵に描いたような関係で、タイプ的にも「頭脳派で野球観も似ている」と尊敬し合う関係だったそうです。人を滅多にほめないあの野村克也さんが「稲尾に育ててもらった」と発言しているのは印象的でした。また、三度の三冠王に輝いた落合博満さんも「野球を教えてくれた数少ない人」と振り返りつつも、心残りとして“自分自身の評価”を聞けなかった点を挙げていました。また、稲尾和久さんがロッテの監督を解任された際には、落合さんも「監督が居ないのなら辞める」と発言して、実際にロッテから中日ドラゴンズへトレードされています。平成の名指揮官二人を育てた鉄腕・稲尾投手は偉大な野球人だったと断言して良いでしょうね。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

「ギャンブラーの誤謬」

 授業で、毎年東京大学の2002年度の「ギャンブラーの誤謬(ごびゅう)」に関する二次試験の入試問題を読んでいます。東大入試の英文は毎年本当に良く練られた質の高いものです。英文は、「神が世界を相手にサイコロ遊びをするなどとはとうてい思えない」というアインシュタインの有名な言葉で始まりますが、人生は理詰めで動くチェスではなく、一手ごとにサイコロを振る運任せのバックギャモン・ゲームなのだ、と展開します。しかし、日常生活では過去の出来事の経緯から、次に何が起こるかを予想することが有益である、という内容の英文です。

 「ギャンブラーの誤謬」というのは、コイン投げで表、表、表と連続して表が出ると、次は裏が出そうな気がするという心理傾向です。実際には、何回表が連続して出ようとも、コイン投げは、毎回独立事象(前回の結果と次のコイン投げは無関係)ですから、次に表が出る確率は1/2なんですが。日常生活においては、過去の歴史から、パターンを読んで、次に何が起こるかを予想する(ギャンブラ-の誤謬)ことは、意味のあることですし、またそうすべきです。私が過去の「センター試験」「共通テスト」を詳細に分析して、そこから次年度の試験の内容を予想するのもその一つの好例でしょう。過去のデータから、来週の天気を予想するのもそうですね。「歴史は繰り返す」もそうです。ところがそれが通用しない例外が一つだけあるので注意しなければいけません。それが「ギャンブル装置」です。出来事がそのような予想過程とは無関係に起こるように設計されている機械には、今言ったような過程は通用しないのです。そんな内容の英文ですが、人生で種々の決断を迫られる時にも役立つお話なので、毎年取り上げることにしています。

 少し前の話になりますが、例を挙げてみましょう。2021年の「共通テストリスニング」第1問 Question No.5に、Almost everyone at the bus stop is wearing a hat.という英文を聞いて、それを正しく描いた絵を選ぶ問題が出題されました(写真下)。基本語almostの意味がきちんと把握できているかどうかを試す良問でした。実は、2019年のセンター試験、第1回試行テスト、第2回試行テストにおいて、計4回もこのalmost~(もうちょっとで~になる)の用法が出題されていました。この事実をどう考えたらいいのか、私はじっくりと考えました。

 2019年の「センター本試験」の第2問Aの問3に、次のような問題が出題されていました。「基本語almostの使い方は分かっていますか?」という問いかけですね。かなりの受験生が間違えた問題です。よく見る単語でも、その正確な意味が案外分かっていないことが判明しました。

After (    10    ) dropping the expensive glass vase, James decided not to touch any other objects in the store.

    ① almost                    ② at most                    ③ most                ④ mostly

 「もうちょっとのところで高価なガラスの花瓶を落としそうになって、ジェームズは、店にあるその他の物に一切ふれずにおこうと決めた」という文章で、almostを埋める問題です。almostが「もう少しのところで~するところだった」という意味であることをきちんと把握していて初めて解ける問題でした。「ある動作をもう少しの所でやりそうになるが、結局はやらない」「ある状態にもう少しの所で達しそうになるが結局は達しない」という意味を持った単語がalmostです。ところが受験生のほとんどは日本語で「ほとんど」と覚えているので、この単語の意味するところを正確に掴むのが難しいのです。実際に、今年のセンター試験で、この問題の正答率は、ベネッセ調査で44.9%、河合塾の調べでも43.9%と低い結果が出ていました。「基本語の理解」を問う良問です。

 実は、そのちょっと前の2018年11月に行われた第2回目の「試行テスト」「リーディング」においても、第4問において、Surprisingly, we almost won, which was amazing as there were 20 entries in the competition.(驚いたことに、私たちはもう少しのところで優勝でした。カラオケ大会には20組が出場していたので、そのことは素晴らしいことでした)という英文を読んで、表彰台のイラストを参照しつつ、正解の「2位」となったことを選ぶ問題が出題されています(正答率64.5%)。さらには、第6問Bでは、By the 1940s, however, wolves had almost disappeared from Yellowstone National Park.「オオカミはもうちょっとのところで絶滅するところだった(→完全には絶滅しなかった)」とalmost用法が出題されています。また2018年2月に実施された第1回の「試行テスト」「リスニング」においても、almostの用法が問われていました。The boy is almost as tall as his father.の英文の内容に最も近い絵を選ぶ問題です。単語集などに出ているようなalmost「ほとんど」と機械的に覚えていると、正しい選択に苦労します(正答率9.9%とほぼ全滅状態)。「ちょっと足りない」というイメージで押さえておかないといけない単語です。

 これほど短期間の間に、4度も立て続けにalmostの用法が問われる、ということの意味を真剣に考えてみなくてはいけないと私は思いました。間違いなくそこには、「大学入試センター」の、現場に対するメッセージが込められていると考えました。「基本語は実際に使えるレベルにまで習熟しておきなさいよ」というメッセージと受け取ったのです。そのことを『ライトハウス英和辞典』(研究社)の販売促進パンフレット(2019年11月)にも、「この1年でalmostが4回も出題された!!」と題して論考を寄せています(写真下)。

▲ズバリ、的中!!

 授業でも何度も取り上げて、生徒たちに注意喚起を図ってきました。日常生活では「ギャンブラーの誤謬」を恐れずに、過去の出来事の経緯から、次に何が起こるかを予想することが有益である、という結論です。そしてその予想通り、「共通テスト」に出題されたのでした。

 かつて「センター試験」時代に第1問A,Bの発音・アクセント問題において、過去の問題が繰り返し出題されている実態から、「お色直し」が予想される、と毎年予言していましたが、やはり過去問からの出題が毎年かなりの語数に及んでいました。そこで私は1990年以来の「センター試験」に出題された全ての英単語を自費で一覧表にカラー印刷して、生徒たちに事前確認をさせていました。音声が欲しいという生徒たちの要望が多かったので、これも自費でCD化して配付していました。これも「過去の出来事の経緯から、次に何が起こるかを予想できる」好例でした。

▲センター試験発音・アクセント出題語リスト 沢山の先生方にも喜んでいただきました

 私が講演会等で強調している、(1)昨年度の追試(今年の場合には「試作問題」も)、(2)評価委員会の報告書の二つから次年度の問題の内容が予測できる、というのも同じことでしょう。よく「なぜ予想が当たるのですか?」という質問を受けるのですが、ちゃんと立派な根拠があり、「ギャンブラーの誤謬」を実践すればよいのです。来年の新課程「共通テスト」で、(1)NOT問題、(2)推測問題、(3)複数箇所を参照する問題、複数解答の問題、(4)物語文の「いい話」、(5)「事実」と「意見」を問う問題、(6)「つなぎ語」を問う問題、(7)要約問題、タイトル付け問題、などが出題されるであろうという私の予想も、これに基づいています。♥♥♥

カテゴリー: 英語指導に関して | コメントする

「コロンブスの卵」

 

 イタリアの探検家であるコロンブスが新大陸を発見してスペインに帰ってくると、朝野を挙げて熱狂的して出迎えました。ところが、どの世界でもそうですが、あまりにも評判が高いと、これに反感を持つ者もいたのです。ある日、数人の貴族富豪がコロンブスを招いて盛大な宴会を開きましたが、みんな尊大で傲慢で、彼のことがしゃくにさわり妬みを持っている連中ばかりでした。お酒が回るとだんだん無礼なことを言い始めます。「君はアメリカを発見した。もちろん結構なことだが、いわば当たり前のことじゃないか。誰でも西へ西へと行けば、アメリカにぶつかるに決まっているのだ。ただ偶然に、君が最初にぶつかったというだけのことじゃないか。自国には優れた人材が豊富なので、あなたじゃなくても新大陸の発見は誰にでもできる」といった具合に嫌みを言われ、中傷されました。それがまた、この宴会の目的でもあったのでした。コロンブスは黙って、この無礼な発言を聞きながら、静かに立ち上がって、ゆで卵を一つ持って、こう言いました。「皆様、どなたでも、この卵を真っ直ぐに立ててみてくださいますか?」一人ひとりが試みますが、卵のことですからころころと転がってしまって、うまく立ちません。最後にコロンブス「それでは私が立ててみましょう」と言って、卵の端を少しだけ割って平たくして、そこを下にして卵を立てました。それを見て人々は笑います。「なんだ馬鹿馬鹿しい!それなら誰だってできるじゃないか」すかさずコロンブスは言い返します。「そうです。誰にでもできる容易なことです。しかし、この容易なことを、たった今、どなたもできなかったのです。他人のしたことを見れば、誰でも容易なことだと思いますが、誰もやらない時に真っ先にそれをやるということが貴いのです。真似ることは全く易しいんですがね」この言葉にさすがに皆の者はシュンとしてしまいました。

 有名な「コロンブスの卵」の話ですが、それが生まれる経緯は、以上のようなことでした。できたものを真似するのは実に簡単なこと、あるいは改良を加えて性能を向上をさせることはそれほど難しいことではありません。誰かが成功させた後に続いて実行するのは、すでに解決策が分かっているので容易にできるでしょう。しかし最初に行う場合、思いもよらないトラブルに遭遇する可能性もあります。前例が全くない状態で、手探りで成功へのルートを探し出さなければなりません。一番大変なのは、最初にそれを行うことです。したがってオリジナルを完成させた人は貴いのであり、十分な尊敬を受けるに値するのです。「創見は難く、模倣は易し」ということですね。このことから、「コロンブスの卵」は逆転の発想や他人が気が付かない盲点、という意味としても捉えられるようになりました。

 私が日赤で心臓の手術を経験して退院したばかりの病み上がりの時に、当時ラーンズの社長、編集責任者、島根県営業担当の三人がわざわざ松江に訪ねて来られました。当時「センター試験英語」の問題集は山ほどありましたが、私は若い時から、各大問の「解き方」をまず徹底してから演習をすると効率が上がるので、自分でその「解き方」のノウハウを自費で地元の印刷屋さんにお願いして「英語センター試験対策本」として冊子化して、毎年生徒たちに指導していました(第14版まで発行)。当時そのような教材は全く出ていなかったので自分で作るしかなかったのです。私が依頼されたのは、そのような「解き方」を解説する小冊子を『センター試験重要問題演習』(ラーンズ)のために書いて欲しいという内容でした。思うようにやらせてもらえるのなら、とお引き受けして、執筆に入りました。いざ出版されてみると、他社にはない貴重な冊子だということで、先生方に好評を博し全国で非常に多くの高等学校でご採用いただき、現在に至っています。『共通テスト重要問題演習』(ベネッセ)「ナビゲータ&チェック」がこの冊子です。今ではどこの会社の問題集にもこうした「解き方」のポイントを解説する小冊子が付くようになりましたが、最初にやったのはこのラーンズの英断でした。その来年度版『2026共通テスト対策【実力養成】重要問題演習英語(リーディング)』(ベネッセ、1,060円)が届きました。新課程に準拠したどこよりも早い出版です。どうぞよろしくお願いします。♥♥♥

▲最新版「ナビゲーター&チェック」解き方を教える

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする