「ジェットストリームシングル」

 昨年3月、ジェットストリーム(三菱鉛筆)に、よりかろやかな書き心地の新型「ジェットストリームシングル(ライトタッチインク搭載)」が出た、との噂を聞きつけて、文具好きの八幡は早速入手してきました。王者・ジェットストリーム「低粘度油性ボールペン」の先駆けで、「クセになる、なめらかな書き味。」のキャッチコピーで、世界中で大好評のシリーズです。従来のジェットストリームのサラサラ感、しっかりとした濃さなど、良い点を引き継ぎながらも、より軽く、よりサラサラ書け、ストレスが減るように新開発されたインクが、このライトタッチインク」です。この新インクは試行錯誤を繰り返しながら数年かけて開発したといいます。初代のジェットストリーム発売が2006年ですから、18年を経た新シリーズとなります。以下は「文房具の八ちゃん」の詳細レポートです。 

▲ジェットストリームシングルの特長

 「シングルボールペン」は、事務的な印象を受ける今までと違い、プレーンなデザインと爽やかな印象を受ける、流行のパステルカラーを合わせて、女性にも受けやすいおしゃれなデザインになったと思います。特に、グリップ部分もボディ同色にすることで、野暮ったさをなくしており、疲れにくさにも考慮されており、秀逸です。しかも、よくよく見ると、グリップ部が少し太く設計されており、その辺の持ちやすさもよく考えられています。それだけではありません。クリップ部分も改良され、よりしっかりホールドしてくれるだけでなく、根元の取り付け位置が変わったため、胸ポケットなどに差した時に出っ張る部分が少なくなり、よりスマートに見えるようにもなっています。細かな点にまで気配りがなされています。仕事にもプライベートにも馴染みやすい、丸みのあるボディデザインで、カラーラインナップも周りの風景や雑貨に溶け込む優しくナチュラルな色合いが揃っています。クリップにまで同色のシームレスな洗練されたデザインは◎です。

 今までの無骨さはまるっきりなく、非常に可愛らしく、シンプルなフォルムになっています。それでいて本体自体も軽く、実用性におしゃれさ・使いやすさを加えた、非常にコスパに優れた一本になったと思います。それだけでなく、本体自体も従来版よりも短くなっていて、携帯性にも優れています。このように、女性がオフィスで使ってもおしゃれだと思えるボディに、軽い身のこなし(書きやすさ)で、選んで・使い倒して間違いない、本命の一本だと感じました。ノック棒には筆記時の振動や異音を抑える機能を搭載しており、より心地よく使える工夫を施しています。クリップは手帳や胸のポケットにすっきり収まるように、飛び出し部分がすくなくなるような形状を追求しており、細かな改良が施され、みんなに愛される存在になっています。

 書き出してみて、思うのは「本当に軽い」です。ボディが軽いとかそういうことだけではなく、油性ボールペンを思わせないくらいスラスラ書けます。この感覚、元々通常のジェットストリームでも感じるものでしたが、今回の新モデルは「ライトタッチ」の言葉通り、今まで以上に軽く書ける感じがあります。水性ボールペンのようなスラスラ感ともまた違い、なんというか、本当に「軽い」です。書き味のいい上質な紙に、上質な鉛筆で書いているような感覚でしょうか。それでいてジェットストリームらしく色も濃く、低粘度油性ボールペンの一つの完成形のように感じます。

 「よりかろやかな」というキャッチフレーズには、もう一つ重要な改善点がありました。「紙すべり」の軽減です。ジェットストリームはなめらかすぎて、紙によっては滑ってしまい、かえって書きづらいという現象が起きて、苦手だというユーザーが一定の割合でいました。よりかろやかな書き味にするために、この「ライトタッチ」が発売されたのです。未来の定番を目指し、「クセになる、なめらかな書き味。」を実現する、世界初の画期的なインクシリーズから、よりかろやかな書き味の『JETSTREAM Lite touch ink』を新開発。従来のインクよりさらに筆記抵抗を減らし、よりかろやかな書きごこちを実現しました。またインクのボテや紙すべりをさらに改良し、よりストレスの無い安定した筆記を提供します。時代や環境により「書く・描く」シーンが多様化する中で生まれた、ジェットストリームの新しい選択肢です。

 筆記時に振動や異音を抑えたノック棒、ポケットに挿した時に収まりのよいクリップ形状など、使い心地にもこだわりました。このインクでしかできない表現があるので、それを知ってもらう企画を色々と考えています。気軽に試して、既存のジェットストリームと書き比べてみてください。(商品開発部)

 ここまで書くと、いいことばかりなのかと思いますが、個人的に気になる部分もあります。それは、「従来比で色が薄い気がする」「軽すぎる故、力を入れて書けない」という点です。色に関しては、従来のものと黒色で比べると、今回のほうが少し黒さは薄いように感じました。世の中の評価を見ていると、むしろ濃くなったという話もありますので、ペンの太さや紙など、状況にもよるのかもしれません。次に、力の問題ですが、特にマルチだと顕著なのですが、ボディも含めて軽い分、剛性感が薄く、とても力を入れて書けません。「日本語を美しく書く」ために強弱をつけて、止め・はね・払いを意識して書こうとすると力が入りますが、そうするとなんとなく折れそうになります。

 今回のライトタッチインクは、ジェットストリームの良さを活かしながら、現代のニーズにピッタリ合ったものにうまくアップデートされているな、と思いました。シンプルで使う人・シーンを選ばないデザイン、サッと書くのに適した軽い書き心地など、コンセプト通りの製品になっています。さすがですね。発売後の反響は予想を上回るものでした。ただし、先述の通り、少し軽すぎる印象はあるので、ゲルインクや水性インクのようなサラサラ感より、油性ボールペンならではのねっとりとした感じを好む方は従来型の方が好みになると思いますので、その点はご考慮ください。このように、なかなか面白い一本となっていますので、ぜひ一度体感してみてください!なお、ライトタッチインク芯(リフィル)はそれぞれ(0.7mm、0.5mm共)一本132円で買うことができます。私のお気に入りの色は限定色の「ブルーブラック」のインクです(写真下右)。

▲リフィルも豊富に品揃い

 ちなみにこのボールペンは「2024年Bun2大賞」で第3位を受賞しています。『文具屋さん大賞2025』(扶桑社ムック、2025年2月)では「機能賞」を受賞しました。また、文具王・高畑正幸さんがスポンサーとなって開催している、お気に入りのボールペンを選ぶ「第14回OKB48総選挙」(投票期間:2024年10月1日~12月31日)では、絶対王者「ジェットストリーム スタンダード」(三菱鉛筆)が第1位で14連覇を達成し、今回ご紹介した「ジェットストリーム シングル(Lite touch ink搭載)が第2位に輝きました。当面「ジェットストリーム」の栄華は続いていくのでしょう。恐るべし!「ジェットストリーム」!!♥♥♥

 

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小倉総合車両センター移転

 JR九州は2024年7月24日に、同社の車両工場「小倉総合車両センター」(北九州市小倉北区)を移転する、と発表しました。開設からすでに130年以上が過ぎていることから別の場所に新しい車両工場を建設し、施設や設備の老朽化に対応するとのことです。移転先は同じ小倉北区内の東小倉駅小倉駅から約1.8kmほど門司寄りにあるJR貨物の貨物駅ですが、2002年に営業を休止しています。JR九州JR貨物から東小倉駅の用地を取得し、「小倉総合車両センター」の機能を移転する考えです。私は昨年の3月にJRのツアーでこの地を訪問してきました。

▲私が訪れたJR小倉総合車両センター

 JR九州は新しい車両工場の基本コンセプトとして、「新技術の導入及び効率的な検査ラインの構築によるコンパクトな車両基地」「検査日数の短縮及び省人化による効率的な車両検査の実現」などを挙げています。敷地面積は現在の「小倉総合車両センター」が約15万8,000平方メートルに対して(「みずほPayPayドーム福岡」3個分)、移転候補先の東小倉駅はおよそ半分ほどの約7万8,000平方メートル。2031年度末ごろの完成を予定しています。投資額の想定は約480億円。今のところ、現在の「小倉総合車両センター」跡地の用途については検討中です。

 「小倉総合車両センター」は、JR九州が保有する全ての在来線車両を対象に、車両の検査や製造、改造などを行っています。1891年(明治24年)、門司まで開通した九州鉄道の車両整備工場として開設されました。創設当時はたった60人程度の小さな工場でしたが、1907年の九州鉄道の国有化で国鉄小倉工場になり、1987年の分割民営化でJR九州の車両工場になっています。この地に工場が立地されたのは、敷設を予定していた日豊本線の起点であること、車両の陸揚げを行う港が近いこと、蒸気機関車の燃料である石炭の産地が近くにあったことなどが理由でした。最初は、海外から輸入した車両部品の組み立てを主な業務としていましたが、やがて業務を拡大していき、D51、「ゆふいんの森」「SL人吉」「指宿のたまて箱」「ななつ星in九州」など、JR九州特有の個性的な車両も数多く手がけています。2011年の組織改正で現在の名称に変わりました。昨年2024年で開設から133年になり、全国有数の規模を誇る車両工場に成長しましたが、施設や設備の老朽化が課題となっていました。現在はJR九州の社員約140人、グループ会社を含めると1,000人以上の従業員を抱え、おおよそ1,700両の車両の検査や修繕を引き受けています。技術力の高さは海外にも知れ渡っており、インドネシア国鉄へ技術者を派遣するなどもしています。

 このJR九州「小倉総合車両センター」には、普通一般人は立ち入ることはできませんが、JRの限定ツアーで入場することができます。日本における鉄道開業150年を迎えたことを記念し、この地には「小倉工場鉄道ランド」が2022年4月23日にオープンしているんです。私も早速訪れてきました(⇒私の詳しい訪問記はコチラです)。ここでは、2022年に開所50年を迎えた「ドーンデザイン研究所」の主宰者・水戸岡鋭治(みとおかえいじ)先生の作品を一堂に集めたミュージアムやショップ、小倉工場の歴史の展示、「小倉総合車両センター」の社員が今も利用する現役の「つばめ食堂」での昼食などを楽しむことができます。また200点以上のデザインパネルや試作した家具、ボールプール、ブランコ、新幹線用の実物シートが配置され、小さな子ども向けのミニトレインと三輪車も用意されています。オリジナル・グッズの販売もショップで行われていました。ここは現時点では、JRの限定ツアーでのみ公開されており、全国の鉄道ファンが憧れる聖地でもあります。♥♥♥

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柴田紘一郎先生ご逝去

 尊敬する医師の柴田紘一郎(しばた・こういちろう)先生が、2月19日にお亡くなりになりました。84歳でした。宮崎大宮高校から長崎大学医学部に進学し、長崎大医学部を卒業後、30歳代の頃(1971年~1973年)、同大熱帯医学研究所員としてケニアに渡り、過酷な環境下で医療活動に従事しました。そのケニアでの経験や思い出を聞いて、親交のあるシンガーソングライターのさだまさしさんが作詩・作曲したのが楽曲「風に立つライオン」です。この曲のモデルになった先生です。柴田先生は、さださんが設立した慈善活動を支援する「風に立つライオン基金」の永久名誉顧問にも就任しておられます。さださんは「半世紀以上のお付き合いでした。大好きな、素晴らしい兄貴でした」と追悼のコメントを寄せました。

 生前、柴田先生は、ケニアでの経験は、医師として自分がどうあるべきか、また患者とどう向き合えばいいのかにつながっていると話しておられました。

「医者が患者から奪ってはいけないもの。それは命ではない。心なんだ『希望』なんだと。命が心につながってきますから、その心を大切にするような医療を続けていきたいし、そういう今からの医療であってほしいなと」

 かつて英語を教えていた松江北高二年生(当時)の安樂万智子(あんらくまちこ)さん(現在は薬剤師として活躍中)を、中国ブロック代表として、2013年8月22日(木)、宮崎市民ホールで開催された「第33回高校生英語弁論大会」(全国国際教育研究協議会主催)に引率しました(全国第4位⇒コチラに詳しく)。そこで私はこの柴田先生「運命的な出会い」をすることになります。この大会のゲスト講演講師に、あの柴田紘一郎先生がいらっしゃったのです。さらに運命とは恐ろしいもので、安樂さんのお父さんは、当時「松江日赤」のお医者さんだったんですが、長崎大学の学生時代に、柴田先生に直接ご指導を受けておられたのです。こんな偶然って本当にあるんですね!そんな不思議なご縁で、私も柴田先生とお知り合いになることができました。宮崎から帰ってから、後日先生に講演のお写真をお送りしたところ、丁重なお礼状もいただきました。また、このブログも見ていただき、身に余るお言葉をいただくことができました:「先生のホームページも拝見させていただきましたが、英語科の教師としてすばらしい英語教育に、またあまたの一般事象への高いご見識を常に発信されている姿勢に感銘いたしました。」(柴田紘一郎)

▲2013年宮崎での講演会にて 柴田紘一郎先生

 さだまさしさんのコンサートでは、いつもアンコールに歌われることの多いこの曲の壮大なスケールとエネルギーに圧倒されるばかりでしたが、柴田先生「僕もいつか風に立つライオンのようになりたい」と謙虚です。「まさしさんはこれは僕の歌だと言うけど、これは『風に立つライオン』という歌であって、自分はこの歌のヒントになったに過ぎない。だけど僕はあなたの描いたライオンに一歩でも近づくために、これからもがんばっていきます」と、実にカッコいいのです。映画化の際のさださんのコメントです。

 ケニアにある長崎大学熱帯医学研究所から帰ってきたばかりの柴田紘一郎先生に出会ったのは僕が二十歳の頃です。40年以上も昔のことです。
 彼の語るケニアを聞き、その言葉のひとつひとつに憧れ、いつか歌にしたいとプロの歌い手になってからずっと思っていました。そして、ようやく15年かけて自分なりのケニアが身体の中に育ち、「風に立つライオン」という歌ができあがりました。
 歌い続けるうちに、その歌は驚くほど多くの人達の心に強く働きかけるようになっていきました。この歌を聴いて医療従事者を志したり、青年海外協力隊に参加する若者がたくさん現れました。日本を離れ、海外で頑張っている医師も少なくありません。また、ある女性 はケニアでマサイ族の勇士の夫人となりました。少しずつ、沢山の人々の人生を変えていきました。そんな歌を僕は他に知りません。
 大沢たかおさんもこの歌を愛してくれる一人で、彼の熱い思いによって、ついに映画になりました。
 自分で作った歌というより、神様にいただいた歌なのだと感じていますが、これほど多くの方に愛され、影響を与えた歌を書いたという責任も感じていますし、少しでも海外で頑張っている人達の応援をしたいという思いで、今回、28年振りに歌い直したシネマ・ヴァージョンを配信でリリースして、売上の一部をチャリティとして寄付することにしました。
 再録にあたり、新たに渡辺俊幸くんにリアレンジしてもらいました。元々8分半もある長い曲なので、映画の主題歌としてエンドロールで使っていただくには長すぎると思い、短くするつもりでしたが、オーケストラを使ったより雄大なアレンジになり、逆に40秒も長くなってしまいました。にもかかわらず、三池監督はフルコーラス、エンディングの一番いいところで使ってくださり本当に感激しています。ただ、映画に感動して泣きたいのに、自分の歌を聴いて泣いているように思われるのは嫌なので、できれば映画は、誰もいないところで、一人きりで見たいなとつくづく思います。(さだまさし)

 医師を目指した理由を聞かれると、「非常に月並みですよ。何も変わったことは思っていないんですよ。小学校一年生の頃、親同士が国鉄ということで仲がいい女の子がおったんですよ。その女の子のお父さんが五右衛門風呂に入とってですね、板から出ていた釘が足に刺さって、七日後に死んだんですよ。今でいう破傷風ですね。まあ、元気で身近な人がいきなり亡くなると、悲しいですよね。皆さんと一緒で、非常に月並みな理由なんですよ。子供心に、非常に悲しかったんですよ。」と。さらに医者の良い点、悪い点を聞かれると、こう答えられました。

 医者の良い点というのは、我々はどこにいても、例えば無医村にいても都会にいても、相手となる患者さんというのは尊厳価値においては同一じゃないですか。どういう所にあっても全力で仕事ができるというところでしょうか。悪い点は、医者の中には“自分が治している”と勘違いしている人がいる、ということでしょうね。患者さん自身が治ろうと、治そうとしているのに、医者はそれを神様と共にちょっと手助けするだけなのに、“自分が治している”と思い上がった心を持ってしまう…。まあこれは僕だけの意見ですけどね。

 「理想の医者」を聞かれると、「僕の独断と偏見ですけど、臨床医は芸者ですよ。患者さんは心身ともに悩んでいるのですから…。医者は常に向学心を持ち、芸の心をもって、患者さんに尽くすこと。これが理想ですね。」と。

 柴田先生が若い頃の、ガン患者の奥さんの話が映画の中にも出てきました。これは実話です。肝臓ガンが見つかりすぐに処置しなければ危険な若い奥さんが、「大学病院にしか入らない」と言い張ります。当時病院のベッドが一杯で、ベッド一つ空けられないくらいのペーペーの頃の柴田先生は、自分の信頼する他の病院を世話しようと、再三再四、自宅に足を運んでまで入院を説得。でも、その奥さん、頑なに「ベッドが空くまで待つ」と言い張り、二ヶ月経ち、三ヶ月経ち、半年が経ち、結局、手遅れで亡くなりました。柴田先生は、周りの反対を押し切り、よせばいいのに、責任を感じ、その奥さんの通夜に行くのですが、お焼香もさせてもらえません。悲しみに怒り狂う旦那さんが「お前が家内を殺した!」と罵倒、「力足らずで申し訳ありませんでした」としか言えませんでした。その重荷を生涯、ずーっと心に抱き続ける、そんな素敵な先生です。

 毎年、教え子の多くが医学の道を志します。彼らに柴田先生の大好きな一言を贈ります。自戒したいですね。

突然の事故。救急車で運ばれ、病院到着。
ドクター、ナースの顔を見てホッとする私に
「最悪だよな」
「先生と当直すると最悪の患者ばかりですね」と一言ずつ。
そんな中、「もう大丈夫ですから頑張ってくださいね」
看護学生のその一言に、
思わず涙が一粒こぼれた。   (児島美恵子)

 柴田先生はこうおっしゃいます。「医療に携わって何年か経つと、どうしてもこのドクターやナースのように思う日が出てくるんですよ。僕だってそうですよ。でも、それじゃあいかんと…。初心を忘れるなとは、このことなんですよ。あなた方は今、ここに出て来る看護学生と同じ立場なんです。その気持ちをずっと忘れないでほしい。僕が言いたいのは、ただそれだけなんですよ」――初心忘るべからず」ということですね。

 そして2015年、大沢たかおさんの主演で「風に立つライオン」が映画化された際には、宮崎市清武町の介護老人保健施設で、施設長を務めておられた柴田先生から「映画館に5人連れて行くように」との指示が届きました〔笑〕。多くの人を「松江東宝」(現在閉館)に案内して、約束を果たしました。実に感動的な映画でした。人生にはこうした不思議な運命・偶然の出会いというものがあるのです。映画を見終わって館内が明るくなって帰ろうと立ち上がった時に、私の席の後からいつもお世話になっている高梨泰至先生(高梨眼科)ご夫婦に声をかけられてビックリしたのもいい思い出です。♥♥♥

▲大ヒットした映画「風に立つライオン」

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「着たきり雀」

 最近はあまり聞かなくなったことばですが、 「着たきり雀」 ということばは、私が子どもの頃の昭和30年代には、よく聞くことばでした。いつも同じ一着の服ばかり着ている人、まあ、要するにその一着しか着るものがないわけですが、そういう人をからかう言い方として 「着たきり雀」 ということばが使われていました。使い方としては、「旅行中の荷物を減らすと、『着たきり雀』になってしまう」「父親が『着たきり雀』のため、新しい服をプレゼントした」です。

 それ以来何とも思っていませんでしたが、今になってこのことばを突然思い出してしまい、そういえばなんで 「雀」 だったんだろう?と不思議に思ってしまいました。の体色や模様がいつも同じだから、って言うのなら、に限らず、ほとんどの動物はみなそうです。「着たきりツバメ」 「着たきりハト」 「着たきり牛」 「着たきり猫」 「着たきり犬」だってよかったのです。調べてみると、なんのことはありません、これは童話の 「舌きりすずめ」 の語呂合わせで作った言葉だったのです。「したきり」 を 「きたきり」 ともじっただけのことなのです。子どもの頃は、ある意味ではみんな 「着たきり雀」 だったと思います。中学や高校は、だいたいは男子は黒の詰め襟の学生服 (今でいう学ラン)、 女子はセーラー服でした。学校以外でも、ちょっと改まったところへ行く時は、学校の制服が正装とみなされていました。それ以外に何を着たことがあるのか、思い出せません。夏の暑い時期は、白いワイシャツだったと思います。そこへいくと,今の中学・高校生は、学校では制服があったとしても、それ以外では、いろいろとバラエティに富んだ服装ができて羨ましいかぎりです。

 私の尊敬する故・渡部昇一先生の通われた上智大学は共学ではなかったので、女性の目を意識せずに済み、服装を気にする必要もなく、大学時代は、学生服一着の「着たきり雀」で、履き物は破れた軍靴一足だけで、紐でしばってはき続けるような徹底した貧乏生活をしておられました。学生というのはどんなオンボロを着ていても構わないんだという考えに甘えて、非常にだらしない格好をした時期があった、と反省しておられます。当時は「明治以来、書生は弊衣破帽が美徳だ」と思っておられたのです。服装というのはだらしなくした方が手がかからないし、お金もかかりません。そんな学生時代に、アメリカ留学の話が持ち上がりました。昭和25年頃のアメリカ留学といえば、今では想像もできないぐらい難しく、かつ光栄なことでした。成績・品行・健康などの点では最も有利な候補者であった先生は、当然成績トップの自分が選ばれるものと思っておられました。ところが「渡部は社交性がない」という理由で、別の学生が選ばれたのです。貧乏学生で服装はいつも「着たきり雀」、喫茶店などに入る余裕もなく、勉強勉強の生活です。遊んでいる暇などありませんからね。服装を構うことはありませんでした。そんな様子を、アメリカ人教授は「非社交的」と判断したのでした。アメリカ人の感覚では、こんな服装のだらしない者を留学させるわけにはいかない、ということだったのです。それでも先生は腐ることなく、ひたすら全科目百点を目指して勉強を続けられ、ドイツ留学の栄誉を得られたのでした。♥♥♥

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前刀禎明「自分らしくあれ」

 前刀禎明(さきとうよしあき)さんは、ソニー、ベイン・アンド・カンパニー、ウォルト・ディズニー、AOLなどを経て、ライブドアを創業。スティーブ・ジョブズ氏に日本市場を託され、アップル米国本社副社長 兼 日本法人代表取締役に就任。独自のマーケティング手法で「iPod mini」を大ヒットに導き、危機的であったアップルを復活させました。現在はリアルディア代表取締役社長で、ラーニングプラットフォームの開発、コンサルティングなどを手がけておられます。私の尊敬する企業人です。

 話は今からちょうど12年前にさかのぼります。2013年1月末のことです。松江北高の図書館に放課後、山陰合同銀行から電話がかかってきました。ちょうどベネッセの担当者が二人ほど職員室にお見えになっており、お話をしている最中のことでした。山陰合同銀行前刀禎明(さきとうよ前刀禎明maeしあき、(株)リアルディア社長)さんを講演にお招きした際に、私への色紙をことずけてくれと預かっている、というお電話でした。当時、前刀さんは、めざましテレビ」(フジテレビ系)「さきつぶ」というコーナーをお持ちで、毎朝楽しみに見てから学校へ登校していたのです。そのコメントは他の評論家とはひと味もふた味も違う明確かつ深いもので、いっぺんに好きになりました。前年には『僕は、だれの真似もしない』(アスコム、2012年)という著書を出版され、私もこのブログで取り上げさせていただいたばかりでした。前刀さんはその記事を読んでいてくださって、松江にいらした際に、私に色紙をことずけてくださっていたんです。憧れの方から私に色紙が、と考えただけで、電話口で奇声を上げて喜んだのを、今でも覚えています。当時部屋にいらしたベネッセの営業の人たちもびっくりしたことでしょう。その講演会の企画担当をなさった方のお嬢さんが、松江北高に通っているということで、ことずけてくださったのです。それが写真下の私のお宝の色紙です。「自分らしくあれ」とありますね。その時は喜びのあまり、「八幡は八幡らしくありなさい」という意味のことかな、程度にしか考えていなかったんです。

IMG_15165年先 2016年に、前刀さんが『5年先のことなど考えるな』(PHPビジネス新書)という新刊書を出されました。私は前刀さんの熱狂的なファンですから、ご著書は全部読んでいます。その本を読んでいて、以前にいただいた色紙の「自分らしくあれ」という言葉の真意がようやく分かりました。

 僕の中で、「せねばならぬ」や「世間の常識」に囚われない人の究極の姿がいくつかありあります。

 『浮浪雲(はぐれぐも)』というジョージ秋山さんの漫画をご存知でしょうか。この漫画の主人公の生き方は、文字通り大空にぽっかり浮かんで悠然と漂う雲のように自由で、将軍様からも認められた”公式の自由人”という設定です。彼は何にも束縛されず、他人に何を言われようと気にしません。あれこそ、僕が理想とする姿です。

 また、アップルを率いたスティーブは「Think different.(人と違ったことを考えろ)」というコピーを残しました。でも、スティーブ自身が自分のことを変だと思っていたかというとそんなことはなくて、本人は自然に振舞っていたんです。ただそれが大多数の普通の人の目に、変に見えていたというだけ。スティーブが本当にいいたかったのは「人と違うことを気にするな」ということなのだと思います。

 「前刀さんなら、Think different.をどう訳しますか?」と尋ねられたとき、だから僕は「自分らしくあれ」と訳しました。我ながらいい意訳だと思っています。自分らしくある、ということは、人の意見を気にしない、ということでもあります。言葉を選ばずにいえば、少なくとも僕は、人の意見なんてどうでもいい。だから世の中のいろんなものに興味がない。人がいいといっているからよく思える、というのが僕という人間にはありません。  (pp.126-127)

 「自分らしくあれ」―そういう意味だったんですね。前刀さんはご講演に使われるプレゼンのスライド1枚1枚にも、ものすごいこだわりを持っておられることも書いてありました。0.1秒単位でテロップをコントーロールすることも苦にならないそうです。まさに職人技ですね。どの前刀禎明くらいのスピードで文字を表示していくと臨場感が出るのか徹底的に研究して、音楽をどこで流せば効果的か、ベストの表示方法とスピードを探っておられるとか。講演用のスライドづくりには、講演時間の優に10倍の時間を割いておられるのも分かりますね。これらすべてが「自分らしくある」ための真摯な追求であることがよく分かります。そういえば、3年前にお電話をくださった山陰合同銀行の講演の企画担当の女性が、今までに見たことのない講演だった。あのプレゼン資料のすごさには感動した」とおっしゃっておられたのを思い出します。普通の人は利用できるデータを分析して、そこまでで止まってしまいます。前刀さんは、そこから“So what?”(それでどうした、それが何なんだ)と自問します。そこからが勝負だというのです。「これは自分にしか言えないことか?」「自分らしい視点が入っているか?」と自分に問いかけながらカメラの前に立つとおっしゃいます。見る」「視る」「観る」「俯瞰してみる」を使い分けることが大切だと力説されます。これが前刀流のプレゼンの極意なんでしょう。一度ぜひ私も、前刀さんの講演を聞いてみたいと思っています。最近のインタビュー記事でこんなことを語っておられました。なるほど。

 “模索”っていうと、探している答えが必ずどこかあるというニュアンスですが、僕はこういうとき、正解は“創るもの”だと思っているんです。だからビジネスにおいても、“未来予測”ではなくて“未来創造”だと思っています。平成から令和に変わるときに、街頭インタビューでメディアがこぞってしていたのは『あなたは令和がどんな時代になってほしいと思いますか?』という質問でした。あたかも令和という時代が天から降ってくるかのように、時代は与えられるものであるかのように。そうじゃなくて、本当は『あなたは令和をどう生きたいと思いますか?』とか『令和をどんな時代にしたいですか?』と聞かなきゃいけない。一人一人が主人公で、当事者意識を持って動いていく結果が、時代の未来。未来は創っていくものだという感覚が僕にはあるんです。未来は自分次第。自分の人生を自分でコントロールできないなんてつまらないじゃないですか。

 私が早朝楽しみにしていためざましテレビ」のコーナー「さきつぶ」の最終回ににおいて、前刀さんはクリエイティブに生きるため、そしてセルフイノベーションを起こすために、3つのシンプルな原則をお話しになりました。1)「~もんだ」をやめる。(2)子供になる。(3)自分を信じる「○○はこういうもんだ」という常識や前例にとらわれることなく、理屈も損得勘定もない純粋な子供のように好奇心の赴くままにチャレンジする、そして自分を信じ、自分の考えに自信を持つことの大切さを喚起されたのです。アップルの日本社長時代に「アイポッドミニ」を日本で爆発的ヒットを成し遂げた途端、スパっと辞職され、自分のやりたい夢の追求に邁進された方です。このように、前刀さんの生き方には勉強させられるところがいっぱいあります。詳しくは次のご著書を読んでみてください。きっとハッとさせられると思いますよ。改めてお宝の色紙をいただいたことを、前刀さんにお礼申し上げます。❤❤❤

前刀禎明『僕は、だれの真似もしない』(アスコム、2012年)
前刀禎明『人を感動させる仕事 僕がソニー、ディズニー、アップルで学んだこと』
(大和書房、2013年)
前刀禎明『心が動く伝え方』(KADOKAWA、2015年)
前刀禎明『5年先のことなど考えるな』(PHPビジネス新書、2016年)
前刀禎明『とらわれない発想法 あなたの中に眠っているアイデアが目を覚ます』
(日本実業出版社、2017年)
前刀禎明『アップルは終わったのか?』(ゴマブックス、2017年)
前刀禎明『学び続ける知性 ワンダーラーニングでいこう』(日経BP、2021年)
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麺屋匠ラーメン

◎週末はグルメ情報!!今週はラーメン

 JR岡山駅ビル・サンステーションテラス「さんすて岡山」が2020年3月13日に、約10か月の改装期間を経てリニューアルオープンしました。岡山で誕生し岡山で育ってきた、まさに岡山のラーメン、「麺屋匠」(たくみ)。改装前から「さんすて岡山」にあり、とても賑わっていた人気店(私も東京からの帰りによく利用したものです)が、リニューアルして、スタイリッシュでカジュアルなお店として復活です。「岡山駅新幹線口から一番近いラーメン屋さん」ということで全国のラーメン好きの方々にも愛されています。「匠」のラーメンは見た目も美しく、何度も食べたくなる美味しさで、店員の皆さんの元気で明るい接客も大好きです。私は新幹線から降りた足でよくこのお店を利用しています。

 しゃきしゃきとした食感で風味豊かな黄ニラと、「ピーチポーク」を低温調理でじっくりと焼き上げることでとろけるような柔らかく上品なうま味のチャーシューが、鶏ガラベースのスープと好相性です。

 岡山の玄関口「さんすて岡山」に店を構える「麺屋匠」。日本料理店で培った経験と技術を生かし、丁寧に作り上げるラーメンが人気を博しています。中でも、鶏ガラをたっぷり使用した昔ながらの「しょうゆラーメン」をベースに、黄ニラやブランド豚「ピーチポーク」など、岡山県産食材をトッピングした「黄ニララーメン」は、こちらならではの一杯です。

 「麺屋 匠」林洋次さんは、和食の板前として長年培った経験や技を生かして、繊細な岡山ラーメンのレシピを完成、当時、関東を席巻していた魚介系のダブルスープで人気を博したのです。場所を岡山駅に移して、お店の佇まいだけでなく、味も変わったのでしょうか?

 お店の中に入ると、以前とうってかわってオシャレな内装になっています。大人っぽくてシックな感じになっていますね(写真上)。

 まず器に入るのは、鶏ガラを炊き込んだ時にでる鶏油(チーユ)。ここへカエシ(醤油、カツオブシ、みりん少々)を加えます。「匠」のカエシは、よくあるチャーシューの煮汁ではなく、一から作ったものなんだそうですよ。麺は中細麺で、スープとの相性を考え、以前のお店の時代からマイナーチェンジしているのがよく分かります。スープは、豚骨に鶏ガラと香味野菜を加え半日炊き込んだ後、カツオやサバなどの魚介系と合わせます。それぞれ特注した荒削りで、この厚みが豚骨の脂に負けないがっぷり四つに溶け合ったダブルスープを生み出すのです。精魂込めて毎日毎日仕込んでいるスープは、「匠」「匠」であるための大切な存在です。まず、豚骨や親鶏・地鶏の鶏ガラやモミジは丁寧に下処理を行い、雑味となる不要なものは全て取り省くところから始めます。たっぷりの香味野菜と共に長時間高火力で煮出した濃い動物性のスープに厳選した利尻昆布、鰹、うるめなどから抽出した上質の和出汁を合わせることで、「匠」自慢のスープが完成するのです。

 一緒に頼んだ岡山のソウルフードの「デミカツ丼」は(⇒岡山市「味司野村」「デミカツ丼」が美味しかった思い出があります。私の紹介はコチラです)、ご飯の上に千切りのキャベツと揚げたてのトンカツを乗せて、デミグラスソースに鶏がらスープを合わせた深い味わいの「おかやまデミカツ丼」です。すべてお店で仕込んだ自家製です。ミニサイズもあるので、岡山の味を満喫できるセットでいただくのもおすすめです。出てきた「デミカツ丼」はラーメンの丼に盛られていました。合理的ですね。カツは揚げたてらしくて実に美味しい。デミグラスソースは酸味があって、ハヤシライス的な味付けでした。このデミカツ丼、ポイントはキャベツの食べ方ですね。カツの下ではなく、隣に添えられている形なので、デミグラスソースがキャベツにはかかっていないのです。

▲岡山名物「デミカツ丼」

 基本的にラーメン屋なので、テーブルにソースの容器が置かれているわけでもありません。キャベツをそのまま食べるか、カツにかかったデミグラスソースをそっちにも流用するかとなるわけですが、でも、それほどカツにかかったソースが多いわけでもないんですよねえ。

 一杯のラーメンに止まらず、お客様に対しても真心を込めた接客を心がけています。「美味しかった」にはラーメンの味だけではなく、心地良い空間と気持ち良い接客が不可欠なものだからと「匠」は考えているからです。心がほどけていく笑顔と、美味しかったの一言を何よりの励みとして、今日もスタッフ一同ラーメンを真剣に作っています。女性一人でも気軽に入ることのできるスタイリッシュでカジュアルな店舗です。お買い物途中に、通勤通学のお帰りに、来岡の機会にと様々なシーンに活用することができます。

 今日は神戸からの帰りに、「塩ラーメン」「デミカツ丼」ハーフサイズをいただきました。大満足!!♥♥♥

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バタフライ効果

 最近「バタフライ効果」という言葉を聞く機会が増えてきましたね。「小さな蝶の羽ばたきが、遠くの国で嵐を引き起こす」という例えで知られるこの概念は、科学やビジネス、日常生活にまで大きな影響を与える重要な理論です。一見些細な行動や出来事が、長い時間をかけて予測不可能な大きな変化をもたらすという考え方は、私たちの選択や未来を考える上で非常に興味深いものです。「バタフライ効果」(Butterfly Effect)とは、「わずかな初期条件の違いが、時間の経過とともに大きな影響を与える現象」を指します。この概念は、アメリカの気象学者エドワード・ローレンツによって提唱されました。ローレンツは、コンピューターを用いた気象予測の研究をしている際に、「ほんのわずかな数値の違いが、将来的には全く異なる天候パターンを生み出す」ことを発見しました。この発見から、彼は「ブラジルで一匹の蝶が羽ばたくことが、アメリカで竜巻を引き起こす可能性がある」という例え話を使い、この現象を説明したのでした。このバタフライ効果は、カオス理論の一部として知られ、単純な原因と結果の関係では説明できない複雑なシステムの特徴を表しています。簡単に言えば、「小さなキッカケが、やがて大きな思いもつかないことに発展する」ことを指しているんです。

 このバタフライ効果は、私たちの身近な出来事からビジネス、歴史的な出来事に至るまで、多くの場面で見ることができます。人生において小さな選択や行動が、将来の結果を大きく左右することがあるのです。例えば、朝食をちゃんと食べることや、運動をすること、新しいスキルを学ぶことなど、些細な選択や行動が私たちの人生の方向性を大きく変える可能性がある、といったことです。具体例を見てみましょう。

(1) 歴史におけるバタフライ効果

●1914年、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されたことがきっかけで、世界大戦へと発展しました。一人の青年の行動が、結果的に何百万人もの命を奪う戦争に繋がったのです。

ナポレオンがロシア遠征で敗れた要因の一つに、フランス軍の服のボタンが寒さで壊れやすかったことがあると言われています。

(2)健康習慣におけるバタフライ効果

●【食事】 毎日の食事の選択(野菜を多く摂るかジャンク・フードを食べるか)が、長期的には健康状態や疾病リスクに大きな影響を与えることがあります。

●【運動】 定期的な運動習慣が、心血管の健康やメンタルヘルスの向上に役立ちます。逆に運動不足は、肥満や関連する健康問題を引き起こす可能性があります。

(3)人間関係におけるバタフライ効果

日常的な些細なコミュニケーションや親切な行動が、信頼関係を築くのに役立ちます。友人、家族、職場の同僚に対する感謝の一言が、お互いの雰囲気や関係に大きな影響を及ぼすことがあります。

(4)キャリア選択におけるバタフライ効果

●【教育】 学生時代の専攻や履修する科目の選択が、その後のキャリアに大きな影響を与えることがあります。特定のスキルを学ぶことで、その後の職業選択や昇進の機会が広がることがあります。

●【初めの仕事】 最初の職場での経験や得たスキルが、その後の自らのキャリアに大きな影響を与えることがあります。

(5)財政管理におけるバタフライ効果

●【貯金と投資】 若いうちからの小さなちょっとした貯金や投資が、長期的には大きな資産形成に繋がることがあります。逆に、無駄遣いや借金が積み重なると、将来的な財政的な安定が難しくなることがあります。

 ちょっとした失敗を何とも思わずに、いつまでもダラダラと同じ失敗を繰り返す人がいます。5分の遅刻を、これぐらい遅れたことにならない、とたかをくくっている生徒もいます。生徒たちには、小さなミスが、重大な事故や危機に結びつく可能性を推計した「ハインリッヒの法則」の話をよくしてやるんです。1つの重大な事故や事件が起きた場合、その前には29の小さなトラブルや軽微な事故が発生し、さらにその29の小さなトラブルの前には、およそ300の小さなミスや勘違い、ヒヤリとすること、ハッとしたことが隠れている、という有名なあれですね。これは、1941年にアメリカの損害保険会社の調査部にいたハーバート・ウィリアム・ハインリッヒが、さまざまな事故や災害を調べてレポートしたものです。企業の不祥事や航空機・原子力発電所の重大事故などの背後にもこの法則が働いています。単なる凡ミス、ちょっとしたミスだからと軽く考えて、ミスを防ぐための改善を行わずに放置していれば、やがて取り返しのつかない事故につながりかねません。

 「事故」だけでなく、これは「勉強」にも言えることです。小テストに名前や番号を書き忘れる不注意な生徒が後を絶ちませんが、これなどはどこかで大事故につながりかねません。指示を読まずに書類を書く人は、大切な出願の時に大ポカをします。単語の綴り・用法を間違って記憶している人は、ずーとそれが尾を引きます。自分のちょっとした間違いをそのまま放置しておくと、またとんでもないところでそれが顔を出すものなんです。気が付いたときにちゃんと手を打っておく人とそうでない人とでは、大きな違いになって表れてきます。私が模試の度に、うるさく言うのはそういう具体例を度々見てきたからです。

 「答案の見直し」をうるさいくらいに言っている私ですが、この時期には1点のミスで、1年を棒に振る生徒をたくさん見てきました(「まあいいか、その一言でもう一年」)。「共通テスト」模試の自己採点のいい加減さは、合否に大きく関係してきます。チョット気をつけるだけで防げるミスはいっぱいあるんです。そしてそれが「成功」にもつながるんですよ。ここでかけた汗と時間は、必ず元が取れることを、私は経験上知っているんです。♥♥♥

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戸田奈津子さん、叙勲おめでとうございます!

 映画字幕翻訳家としておよそ1,500本もの作品を手がけた戸田奈津子(とだなつこ)さん(88歳)に、旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)が贈られました。おめでとうございます!!心よりお祝い申し上げます。外国映画の字幕翻訳の我が国の第一人者です。「私はこの仕事が好きでね、長い間、好きなことをずっとやってきて、それなりに楽しんできましたから。それでもう十分と思ったんですよ。だからなんでそんな今さらご褒美いただくのは恐縮しちゃってる」と笑います。米寿を迎えても、おおらかでスピーディーな話しぶりは変わりません。昔から私の大好きな映画字幕翻訳家です。

  大学の英文科を卒業して10年経った頃、映画『アリスのレストラン』(1966年)の記者会見の通訳の仕事が舞い込みます。これが外国人としゃべった初めての機会だったそうで、非常に緊張したそうです。この通訳という仕事、元来、私は大の苦手。私たちの世代は英語を聴いたり話したりの勉強はいっさい受けていないから、読み書きはできても会話はできない。私も当初は恥をかきかき、通訳の仕事をしていました。なにしろ初めて英語をしゃべったのは三十歳を過ぎてから」と。以降、一年に数本、字幕翻訳をするようになります。大きな転機は、さらに十年後の43歳のとき、フランシス・コッポラ監督『地獄の黙示録』(1979年)でした。来日したコッポラ監督の通訳をしたことが縁で、撮影現場にも立ち会わせてもらい、字幕を任せると言ってもらいます。「日本滞在中の監督の案内兼通訳のような役を務めた私を、鶴の一声で指名してくれた」と振り返ります。これで次々と仕事が舞い込むようになり、一週間一本の仕事のペースで字幕翻訳を依頼されるようになったのです。「20年待ち続けて、やっとやりたい仕事ができるようになった」と、無我夢中で仕事に打ち込み、多い時には年間50本の映画を手がけました。その間、字幕の質に関して、かなり辛辣な批判にもさらされましたが、めげることはありませんでした。ハリウッドの名優が来日すると、記者会見でよく隣にチョコンと座って通訳を務めておられるのが戸田さんです。彼らから絶大な信頼を寄せられている証です。「素晴らしい人たちと親密な時間をもてた」と語ります。トム・クルーズさんらとの親交はよく知られています。この度も最新作の「ミッションインポッシブル」(字幕担当:戸田奈津子)をひっさげて25回目の来日をしたトム・クルーズの記者会見の会場でも、「日本の母」として深い敬意をもって紹介されておられましたね。

 「字幕翻訳は直訳ではない」と強調します。字数が限られているうえに、「エモーション(感情)に訴えるのが映画」だからです。「コンピューターではなく、感情を理解できる人間の頭を通過させたのが、字幕翻訳の言葉だと思う」と。

 戸田奈津子さん、言わずと知れた日本の映画字幕翻訳の第一人者です。津田塾大戸田奈津子学・英文科時代は、一人映画館に通う毎日でした。大学三年、そろそろ就職を考えなくてはならない時になって、映画の字幕をつけている人の存在を知ります。しかもそれを職業として。当時の第一人者清水俊二さんに手紙を出して、お目にかかります。「とにかく難しい仕事だよ」と言われましたが、決してあきらめませんでした。とりあえず大学の紹介で、第一生命の社長秘書室に勤め、英語文書の翻訳を主にしますが、9時から5時まで拘束されることと、制服を着せられることが苦痛でたまらず、わずか一年半で退職します。組織の一員として働くのは性に合わないのでした。フリーで雑誌記事の翻訳や単行本の翻訳などをやりながら、清水先生「まだあきらめてはいません」と年賀状を送っています。年頃なので、母親からは縁談を勧められますが、結婚願望はなく、好きでもない人と結婚するなんてまっぴらごめん、と断り続けます。何としても映画の字幕を仕事にしたい、その一心でした。この頃の自分を回想して、次のように語っておられたのが目を引きました(『PHP』2月号、2014年)。

 「追い続けていると、夢はいつか必ずかなう」などという人がいます。でもこれは、非常に危険な考え方です。夢がかなうかかなわないかは、五分五分、追い続けても、かなわずじまいで終わってしまうことも、決して珍しくありません。「かなわないこともある」という現実を直視することも大事です。私がホームレスを覚悟しつつ、一方では、目の前の仕事にも精を出していたのはそうした意識があったからです。(中略) 夢や目標を成就させるには、何よりまずその対象が好きなことが大切です。好きでないと長く続けられない。私は映画が好きだから英語を勉強しました。そうでなかったら、英語は勉強しなかったでしょう。(中略) 現実を見据えつつ、好きなことに打ち込む。結果がついてきたら、ラッキー。そう思って前を向き続ける人生もまた、素敵ではないでしょうか。

 「映画にドラマを感じることが少なくなった」と気づき、手がける映画の本数を5分の1に減らしました。自由な時間が増え、海外旅行やドライブを楽しみ、今はタップダンスに夢中です(『読売新聞』)。全盛期のようにあれもこれもやると負担になる。体と相談しながら、老後を楽しまなくちゃね」と、笑顔で語ります。

 2014年9月に、戸田さんの自叙伝とも言うべき本が出ました。戸田奈津子・金子裕子『KEEP IMG_5805ON DREAMING』(双葉社)がそれですが、そこには、「このように内臓的にはいたって健康なのですが、唯一、眼にだけは酷使のツケが回ってきました。もともと超ド近眼だったのですが、それも原因で、左目が最近iPS細胞の移植ですっかり有名になった「黄斑変性症」になりました。左目の中心部がドーナツ状に真っ暗で、字も読めないのですが、幸い、眼は2つある!片方の目だけでなんとか今日まで過ごすことができ、かなり怪しくなったけれど運転も続けています。」(pp.176-177)とありました。これまで語られることのなかった素顔が見える、とっても面白い本でした。「映画だけで終わった人生なんて、単細胞かもしれませんけれど、ほかに行きたい道がなかったのだから仕方ありません。」という言葉に、戸田さんの映画字幕人生への自負を見た気がしました。

 彼女の体験に基づく参考になる本は『字幕の中に人生』(白水社、1997年)『字幕の花園』(集英社、2009年)などいくつかあります。若い頃、戸田さんの字幕映画(ジェームズ・ボンド物は戸田さんが多いです)を見るたびに読み返したものです。かつて、戸田さんがアメリカの人気マンガ「ガーフィールド」の翻訳をされたことがあり(研究社)、私がその推薦文を書かせていただいたことがあります(写真下)。今となっては懐かしい思い出です。

 その戸田さんが今までの人生を振り返った本が『枯れてこそ美しく』(集英社、2021年11月)でした。戸田さんが対談相手に選んだのは、米国在住の村瀬実恵子(むらせみえこ)さん。85歳の戸田さんより一回り上の御年97歳。コロンビア大名誉教授や、世界的収集家のメアリー・バーク夫人のアドバイザー、メトロポリタン美術館の特別顧問などを務め、日本美術の素晴らしさを世界に広めた方です。しかし、日本ではほとんど知られていませんでした。オンラインでの2人の対談では、海外暮らしが長い村瀬さんが語る“言葉”の美しさに驚いたと言います。「しぐさやものの考え方も、日本人としてのアイデンティティーを失っておらず、感銘を受けました。おしゃれで、いつもすてきな靴を履いている」と。

 戸田さんは海外の映画の魅力を日本に、村瀬さんは日本の美術の魅力を海外で伝える仕事に長年携わってきました。「人の心を打つ、人が感動する仕事に携わってきたことは共通していて、私も村瀬先生も仕事一筋。一人で生きてきた女性として、とても共感したんです」。また、「お互い運がよかった」とも感じました。「村瀬先生は日本の美術がそれほど評価されていない時期に活動された。私も字幕翻訳者になるまで20年かかったけれど、好きなことに生きて、一生続いた。長く続く好きなものに出会えたことはお互い幸せだった」他にも対談では「美」や「おしゃれ」「キャリア」「人との付き合い」「楽しみ」など多彩なテーマで語り合い、当然、「終活」も。「80、90歳なんてとんでもないおばあさんと思うかもしれないけど、自然体で全然飾ってませんから、年齢も意識しない。こういう生き方もあるって、思っていただけたらうれしい」。先駆者たちの流儀は、かっこいいものでした。その二人がニューヨークで初めて出会い、戸田さんが村瀬さんに「深い感銘を受けた」ことによって生まれたのが、対談集『枯れてこそ美しく』でした。好きなことを貫いてきたお二人の軽やかで深いスペシャルトークには、人生を最後まで楽しく、美しく生きるヒントがびっしりと詰まっていました。

 夢が叶うか、叶わないか?いわゆる確率的には五分五分だから、大きなリスクですよ。それをわかってて、やっぱり覚悟していたのですから我ながら思い込みが強かったと思います。つまり字幕翻訳者になれないこともあると最初からわかっていて、どんな結果も受け入れる心構えがありました。覚悟を決めて、絶対にブレなかったから、情熱が長続きしたんだと思います。私は若い子たちから人生で重要なことは何かと聞かれたときには「自分がやりたいことをきっちり見極めて、自分で選択しなさい」ということをいつも言います。人の意見を聞いてもいいけど、選択するのは自分自身。最後の決断は自分で下すべきだと。人の言うなりになったり、右へ倣えしては絶対にダメよときつく言っています。

 

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戦争とミステリー作家

 我が国のトラベルミステリーの第一人者・西村京太郎(にしむらきょうたろう)先生は、2022年に91歳で惜しまれつつ逝去されました。発表された著書は649作にのぼります。私がかつて湯河原でインタビューさせていただいた時には、東京スカイツリーの634mを上回る635冊を書くのが夢だとおっしゃっておられましたから、目標を優に達成されたことになります。熱狂的西村ファンの私はそのほとんどを読んでいます。この2月に西村京太郎『戦争とミステリー作家 なぜ私は「東条英機の後輩」になったのか』(徳間書店)が出版されました。もともとの文章は、「東京新聞」の夕刊に2019年8月1日から10月31日にわたって連載された記事で、それらをまとめて一冊にしたものです。サブタイトルの「東条英機の後輩」というのは、戦争中に西村先生東京陸軍幼年学校」に入っていたからです。東条英機もその学校の出身です。短編のエッセイを連ねていくような形で、戦前、戦中、戦後の歩み、ミステリー作家として下積み時代から成功するまでを淡々と綴っておられます。戦争に対する子どもながらの矛盾や複雑な思いが綴られていて、西村少年の葛藤を感じることができます。戦後80年の年に問う、この国の在り方と、独りのミステリー作家の深き半生。奇跡の発掘。戦前に生まれ多感な時代に迎えた開戦。西村少年は陸軍幼年学校に入学、一気に冷めていく、この不思議さは何だ? 敗戦を経て作家の道を歩んだ。 往時を振り返り記した自伝的超克の書になっています。最後に収録された特別編では、京都時代の故・山村美紗さんのことにも触れておられました。巻末の文芸評論家の山前 譲氏の手になる詳細な年譜も大きな魅力です。

 私は西村先生の熱狂的ファンで、若い時からその著作のほとんどを読んでいましたが、晩年(2015年~)の作品群には、大きな傾向の変化が見られました。十津川警部が活躍する設定は同じなんですが、作品中には必ず戦争の事実の記述や体験談が盛り込まれ始めたのです。この時期の作品には必ずといっていいほど戦争の記述が見られます。日本推理作家協会「嗜好と文化」Vol.46に登場した西村先生は、その理由をはっきりインタビューで語っておられました。

 戦争ものを書いておきたいと思いまして。B29などをデスクに置いておくと、この爆撃機に校庭で追いかけまわされたなあ、と当時のことが思い出されますから。最近の作品に、戦争中や戦後社会のことを書いています。戦後70年の今年出版される十津川作品にはすべて戦争、戦後のことが入っています。特攻隊員の生き残りなど、事件の関係者の祖父、祖母の経験したことを回想として描いています。元軍国少年としては、今の視点で書くのではなく、当時生きていた人間がその時どう感じていたか、を伝えたいという思いがある。表現上難しいところもありますが、これが実際にあったことだ、ということを伝えたい。でないと、戦争を忘れちゃうでしょう。最近の若い編集者と話していると、B29を見て、『これは何ですか』と聞く。戦争や戦後のこと、知らないんですね。がくぜんとします。

 「赤旗」日曜版にも、西村先生は語っておられました。

 終戦の時は15歳でした。陸軍幼年学校にいたので、あと何年か戦争が続いていたら、小隊を率いて死んでいたでしょう。怖いのは、戦争になると死を恐れなくなること。戦争のための教育をたたきこまれたから、死ぬのは全然怖くなかった。戦争末期は爆撃も激しくなり、誰も勝てるとは思わなかった。でも上の人は”勝てないけど負けない”と言う。そんなおかしな理屈をのみこみ、自分は勇ましく死ぬんだと思いこんでいた。狂気にかりたてられていたというか、狂気が”普通”になっていました。僕は『戦陣訓』が嫌いです。陸軍刑法には、捕虜になったときの規定がある。法律上は、捕虜になってもよかったんです。でも、『戦陣訓』のせいで、死ななくてもとかった人がたくさん死んだと思います。日本人は家庭ではいい人です。でも実際は、戦争中の話をいろいろ読んでいくと、違いますよね。兵隊になったとたん、おかしくなっちゃうんです。僕は戦争したくないけど、なかには戦争したい人もいるんだよね。不思議なんだけど。アニメやマンガの中には、戦争を何か勇ましいことのように描くものもある。だけど実際の戦争は違う。首相も政治家の多くも戦争を知らないんです。昔は自民党の中にも戦争を知る政治家がいて歯止めになっていた。そういう人たちがいなくなっちゃうのは困るんだ。戦争中、東条英機首相の暗殺計画があったんです。それを踏まえて考えると、いまの日本は平和だけど、上の人(首相)がおかしくなって日本が戦争に突き進もうとするようになったら、首相を暗殺しようとする動きが出てくるかもしれない。現実はもちろん許さないことだけど、小説だから、そんな話も考えています。世界中が戦争になっても日本だけはたたかわない方がいい。たたかわない国が、一国でもないと、まずいんだ。日本は第2次世界大戦の時のスイスのように、したたかな外交力を発揮すべきです。アメリカと一緒になって戦争に巻き込まれるのはまずいと思うな。誰から何をいわれようと、日本は戦争はしない。その道を突き進めばいい。そういう国がないと、戦争の仲裁とかもできないでしょう 

 十津川警部シリーズでおなじみの鉄道ミステリーの第一人者・西村京太郎先生は、昭和24年4月にエリート将校養成機関である東京陸軍幼年学校に入学し、その四ヶ月半後に終戦を迎えました。当時の自身の生々しい戦争体験や、それに基づく独自の戦争観、日本人論について自伝的ノンフィクションという形で書き下ろされた異例の本が、十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』(集英社新書、2017年)でした(先生には終戦工作秘話をテーマにした小説『D機関情報』という作品もあります)。昭和から平成にかけて出版してきたベストセラー作家が、なぜ今戦争体験を振り返るのか?8月15日の敗戦までの、短くも濃密な4ヶ月半。「天皇の軍隊」の実像に戸惑い、同級生の遺体を燃やしながら死生観を培い、「本土決戦で楯ととなれ」という命令に死の覚悟を決めました。戦時下での少年は何を見て、何を悟ったのか。そして戦後の混乱をどのように生き抜いて作家となったのか。本書は、自身の来歴とともに、今こそ傾聴したい、戦中派の貴重な証言となっていました。西村先生の著作としては異色の内容ということもあって、刊行直後から大きな話題となり、出版社にも予想以上の反響があり、テレビ、新聞、雑誌、ウェブ媒体などから多数の取材依頼が舞い込みました。酷暑の中、多忙なスケジュールに追われた西村先生ですが、「取材はどんどん受けますよ」と言って精力的に対応しておられました。マツコ・デラックスさんのバラエティ番組「アウト×デラックス」に出演したり、「報道ステーション」に出演したり、と飛び回っておられました。そんな一つが、『スポーツ報知』「西村京太郎さんの戦争体験」と題して掲載されました(写真下)。

 B29の空襲で校舎を焼き尽くされ、本土決戦が迫り来ようとしていると信じる中でも、「盾になって、天皇陛下をお守りするのだ」と覚悟していた軍国少年の西村先生。玉音放送を聞いた日から80年たった今、確信するのは日本人は戦争に向いていないということです。日本人は権力に弱く、戦争を叫ぶ権力者の声に従ってしまう。そして一番恐れるのは『臆病者』『ひきょう者』と言われること。戦争は始まってしまったら一刻も早く止めるべきなのに、勝算のない戦いをダラダラと続けてしまったんです」「最近はなんとなくきな臭いからね。安倍総理もそうだけど都知事の小池さんも『右』だからね。走り始めるとずーっと右へ行っちゃう。怖いですよね。子供の頃、皆が読んでいたのは『新戦艦高千穂』とか『見えない飛行機』という小説。読むと日本は戦争に勝てるんじゃないかと思うようになる。日本人は空気に弱いですから。総理大臣の話も威勢がいいほうが受けますけど、政治家がそういうことを言っちゃいけないんですよ」 2015年に「安保法案」が国会で可決され、西村先生には戦前・戦中の悲惨な記憶が蘇ってきます。2015年(平成27)は、太平洋戦争の終戦からちょうど70年となります。十津川警部シリーズの2015年以降の作品から、突如として戦争の話が組み込まれていくのは、そういう事情からなんです。西村先生「このままでは、だれも戦争のことが分からなくなる。だから、書いておかなくてはならないと思ったのです会報『十津川エクスプレス』vol.31)と。

 貧家生まれの少年が、立身のため将校を志して「陸軍幼年学校」に入学するのは戦前は珍しくありませんでした。しかし敗戦で「陸軍幼年学校」が廃止され占領下の社会に投げ出された少年は、統制もなく自由に生きられる良い占領と受け止めました。軍人の夢破れると作家になりたいと願い、どんな苦しい生活にあっても夢を諦めなかった彼がベストセラー作家となれたのも、この敗戦があったからでしょう。そんな西村京太郎先生山村美紗という得難いパートナーと出会い、時代の変化など平然と無視する京都人の心意気に触れたのは第二の人間修業と言えるでしょう。最後まで売れる作家であり続けた理由はそこにあるのでしょう。戦後80年経ち、世界各地でキナ臭い戦争が繰り広げられている今、もう一度じっくりと考えてみたい問題です。♥♥♥

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使えるものは何でも

 「英語の勉強の8割までは単語の勉強」が私の持論です(「花より単語」)。そして生徒が毎日一番苦労しているのもこの「単語の暗記」です。暗記の作業はとにかく苦痛です。覚えてもすぐに忘れます。私は授業の中で、時々「語呂合わせ」を持ち出すことがあります。代表的なものは、dictionary(辞書)「字引く書なり」kennel(犬小屋)「犬寝る」deny(否定する)「そうでないlawyer(弁護士)牢屋に出入りするに関係があるから」などです。あ、結構面白いぞ、となってきたらしめたものです。その他にも、killは人を切るから「殺す」です。quarrelは人間関係がコワレルから「けんか、口論」です。私はよく机をバンッ(ban)と叩いて「禁止する」と教えます。その昔、ベストセラーになった『英単語連想記憶術』(青春出版)なる本には、これでもかというぐらい例が挙げられていました。続編・続々編が出たくらいですものね。かつて、barnという結構レベルの高い英単語を、「納屋でね」といった意味深な「語呂合わせ」で教室で紹介した同僚がいましたが、この単語がセンター試験の長文読解問題に出た時には、狂喜乱舞したことでしたね〔笑〕。

 こんな具合にして、英単語が全部覚えられるものなら、苦痛も半減するのでしょうが、なかなかどうしてそんなに上手くいくものではありません。しかし眠い目をこすりながら呪文のごとくひたすら「丸暗記」では、すぐに忘れてしまいます。そこに少しでも何らかの手がかりを工夫して、記憶しやすい方法を見つけるようにしたいものです。私は「音声」「語呂合わせ」「カタカナ語」「語根」「派生語のルール」「音と意味のイメージ」(例:gl-, fl-, dr-, sp-, shr-)などもフル活用して繰り返し、繰り返し徹底を図っています(この反復というのが重要です)。少しでも受験生の暗記の負担が軽くなる方法を模索しながら指導しているんです。すべり台を滑り落ちるとそのまま下まで滑り落ちてしまいますね。ところが途中に何か突起物があるとそれにひっかかって止まります。これと同じで記憶も何かひっかかりがあると脳に記憶されるのです。「箸にも棒にも掛からず」覚えられないような単語を、どこかに引っ掛けるようにするのです(写真下)。最新刊のすずきひろし『語源×語感×イメージでごっそり覚える英単語事典』(ベレ出版、2025年4月)はそんな見事な試みの一冊でした。

 私が高く評価する竹岡広信(たけおかひろのぶ)先生の単語集『LEAP』(数研出版)でも、所々に竹岡流のギャグが登場したり、語源にまつわる情報、単語の使い方に関するワンポイントアドバイスが細字で挙げられていて、読むのが楽しくなります。私は通勤電車の中で楽しみながら読んでいます。かつて松江北高の英語科職員室に掃除にやって来る生徒たちに、この単語集の感想を聞いてみたことがあります。単語にまつわるウンチクが小さい文字でいろいろと書かれていることに対して、英語の得意なできる生徒たちはこれを「読んでいて面白い」と言い、苦手な生徒たちは「面倒くさい」と反応が見事に分かれたのは興味深いことだと思いました。私は「語根」を活用した勉強法を強く薦めているのですが、「単語の記憶」に使えるものは何でも使おうというスタンスです。単語集もそのような姿勢のものを使おうと思っています。それにピッタリなものが竹岡先生『LEAP』なのです。昨秋に改訂版が出ました(⇒単なる改訂版ではありません。相当変わっています。私の紹介記事はコチラコチラです)。今、本屋さんに並んでいます。♥♥♥

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