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プロフィール
八幡成人(やわたしげと)
1955年島根県安来市生まれ。英語教師として島根県公立高等学校に38年間にわたり勤務。2015年3月、島根県立松江北高等学校に10年間勤務したのを最後に退職。在任中は、朝は6時半に登校し、図書館で生徒と一緒に勉強に励む。『ライトハウス英和辞典』『ルミナス英和辞典』(研究社)の編集委員を務める。参考書、問題集など著書・論文多数。趣味はカードマジック・クロースアップマジック。自宅の「蔵」には世界中から収集したマジック・グッズ(特にカード)が多数眠っている。小田和正、さだまさし、一青窈、岡村孝子、辛島美登里、西村由紀江、柴田淳、リチャード・クレーダーマンをこよなく愛する。「好きなことをやり、メシが食えて、人から感謝される」(竹内 均氏)職業として教師を選び、「英語は絶対に裏切らない!」を掲げ、英語・読書の面白さを生徒たちに毎日熱く語った。文房具マニア、プロレスファンでもある。2015年6月松江北高に常勤講師として現場復帰。2017年6月より松江北高非常勤講師。2019年4月より米子「勝田ヶ丘志学館」講師。2024年3月松江北高退職。
戸田奈津子さん、叙勲おめでとうございます!
映画字幕翻訳家としておよそ1,500本もの作品を手がけた戸田奈津子(とだなつこ)さん(88歳)に、旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)が贈られました。おめでとうございます!!心よりお祝い申し上げます。外国映画の字幕翻訳の我が国の第一人者です。「私はこの仕事が好きでね、長い間、好きなことをずっとやってきて、それなりに楽しんできましたから。それでもう十分と思ったんですよ。だからなんでそんな今さらご褒美いただくのは恐縮しちゃってる」と笑います。米寿を迎えても、おおらかでスピーディーな話しぶりは変わりません。昔から私の大好きな映画字幕翻訳家です。
大学の英文科を卒業して10年経った頃、映画『アリスのレストラン』(1966年)の記者会見の通訳の仕事が舞い込みます。これが外国人としゃべった初めての機会だったそうで、非常に緊張したそうです。「この通訳という仕事、元来、私は大の苦手。私たちの世代は英語を聴いたり話したりの勉強はいっさい受けていないから、読み書きはできても会話はできない。私も当初は恥をかきかき、通訳の仕事をしていました。なにしろ初めて英語をしゃべったのは三十歳を過ぎてから」と。以降、一年に数本、字幕翻訳をするようになります。大きな転機は、さらに十年後の43歳のとき、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)でした。来日したコッポラ監督の通訳をしたことが縁で、撮影現場にも立ち会わせてもらい、字幕を任せると言ってもらいます。「日本滞在中の監督の案内兼通訳のような役を務めた私を、鶴の一声で指名してくれた」と振り返ります。これで次々と仕事が舞い込むようになり、一週間一本の仕事のペースで字幕翻訳を依頼されるようになったのです。「20年待ち続けて、やっとやりたい仕事ができるようになった」と、無我夢中で仕事に打ち込み、多い時には年間50本の映画を手がけました。その間、字幕の質に関して、かなり辛辣な批判にもさらされましたが、めげることはありませんでした。ハリウッドの名優が来日すると、記者会見でよく隣にチョコンと座って通訳を務めておられるのが戸田さんです。彼らから絶大な信頼を寄せられている証です。「素晴らしい人たちと親密な時間をもてた」と語ります。トム・クルーズさんらとの親交はよく知られています。この度も最新作の「ミッションインポッシブル」(字幕担当:戸田奈津子)をひっさげて25回目の来日をしたトム・クルーズの記者会見の会場でも、「日本の母」として深い敬意をもって紹介されておられましたね。
「字幕翻訳は直訳ではない」と強調します。字数が限られているうえに、「エモーション(感情)に訴えるのが映画」だからです。「コンピューターではなく、感情を理解できる人間の頭を通過させたのが、字幕翻訳の言葉だと思う」と。
戸田奈津子さん、言わずと知れた日本の映画字幕翻訳の第一人者です。津田塾大
学・英文科時代は、一人映画館に通う毎日でした。大学三年、そろそろ就職を考えなくてはならない時になって、映画の字幕をつけている人の存在を知ります。しかもそれを職業として。当時の第一人者清水俊二さんに手紙を出して、お目にかかります。「とにかく難しい仕事だよ」と言われましたが、決してあきらめませんでした。とりあえず大学の紹介で、第一生命の社長秘書室に勤め、英語文書の翻訳を主にしますが、9時から5時まで拘束されることと、制服を着せられることが苦痛でたまらず、わずか一年半で退職します。組織の一員として働くのは性に合わないのでした。フリーで雑誌記事の翻訳や単行本の翻訳などをやりながら、清水先生に「まだあきらめてはいません」と年賀状を送っています。年頃なので、母親からは縁談を勧められますが、結婚願望はなく、好きでもない人と結婚するなんてまっぴらごめん、と断り続けます。何としても映画の字幕を仕事にしたい、その一心でした。この頃の自分を回想して、次のように語っておられたのが目を引きました(『PHP』2月号、2014年)。
「追い続けていると、夢はいつか必ずかなう」などという人がいます。でもこれは、非常に危険な考え方です。夢がかなうかかなわないかは、五分五分、追い続けても、かなわずじまいで終わってしまうことも、決して珍しくありません。「かなわないこともある」という現実を直視することも大事です。私がホームレスを覚悟しつつ、一方では、目の前の仕事にも精を出していたのはそうした意識があったからです。(中略) 夢や目標を成就させるには、何よりまずその対象が好きなことが大切です。好きでないと長く続けられない。私は映画が好きだから英語を勉強しました。そうでなかったら、英語は勉強しなかったでしょう。(中略) 現実を見据えつつ、好きなことに打ち込む。結果がついてきたら、ラッキー。そう思って前を向き続ける人生もまた、素敵ではないでしょうか。
「映画にドラマを感じることが少なくなった」と気づき、手がける映画の本数を5分の1に減らしました。自由な時間が増え、海外旅行やドライブを楽しみ、今はタップダンスに夢中です(『読売新聞』)。「全盛期のようにあれもこれもやると負担になる。体と相談しながら、老後を楽しまなくちゃね」と、笑顔で語ります。
2014年9月に、戸田さんの自叙伝とも言うべき本が出ました。戸田奈津子・金子裕子『KEEP
ON DREAMING』(双葉社)がそれですが、そこには、「このように内臓的にはいたって健康なのですが、唯一、眼にだけは酷使のツケが回ってきました。もともと超ド近眼だったのですが、それも原因で、左目が最近iPS細胞の移植ですっかり有名になった「黄斑変性症」になりました。左目の中心部がドーナツ状に真っ暗で、字も読めないのですが、幸い、眼は2つある!片方の目だけでなんとか今日まで過ごすことができ、かなり怪しくなったけれど運転も続けています。」(pp.176-177)とありました。これまで語られることのなかった素顔が見える、とっても面白い本でした。「映画だけで終わった人生なんて、単細胞かもしれませんけれど、ほかに行きたい道がなかったのだから仕方ありません。」という言葉に、戸田さんの映画字幕人生への自負を見た気がしました。
彼女の体験に基づく参考になる本は『字幕の中に人生』(白水社、1997年)や『字幕の花園』(集英社、2009年)などいくつかあります。若い頃、戸田さんの字幕映画(ジェームズ・ボンド物は戸田さんが多いです)を見るたびに読み返したものです。かつて、戸田さんがアメリカの人気マンガ「ガーフィールド」の翻訳をされたことがあり(研究社)、私がその推薦文を書かせていただいたことがあります(写真下)。今となっては懐かしい思い出です。
その戸田さんが今までの人生を振り返った本が『枯れてこそ美しく』(集英社、2021年11月)でした。戸田さんが対談相手に選んだのは、米国在住の村瀬実恵子(むらせみえこ)さん。85歳の戸田さんより一回り上の御年97歳。コロンビア大名誉教授や、世界的収集家のメアリー・バーク夫人のアドバイザー、メトロポリタン美術館の特別顧問などを務め、日本美術の素晴らしさを世界に広めた方です。しかし、日本ではほとんど知られていませんでした。オンラインでの2人の対談では、海外暮らしが長い村瀬さんが語る“言葉”の美しさに驚いたと言います。「しぐさやものの考え方も、日本人としてのアイデンティティーを失っておらず、感銘を受けました。おしゃれで、いつもすてきな靴を履いている」と。
戸田さんは海外の映画の魅力を日本に、村瀬さんは日本の美術の魅力を海外で伝える仕事に長年携わってきました。「人の心を打つ、人が感動する仕事に携わってきたことは共通していて、私も村瀬先生も仕事一筋。一人で生きてきた女性として、とても共感したんです」。また、「お互い運がよかった」とも感じました。「村瀬先生は日本の美術がそれほど評価されていない時期に活動された。私も字幕翻訳者になるまで20年かかったけれど、好きなことに生きて、一生続いた。長く続く好きなものに出会えたことはお互い幸せだった」他にも対談では「美」や「おしゃれ」「キャリア」「人との付き合い」「楽しみ」など多彩なテーマで語り合い、当然、「終活」も。「80、90歳なんてとんでもないおばあさんと思うかもしれないけど、自然体で全然飾ってませんから、年齢も意識しない。こういう生き方もあるって、思っていただけたらうれしい」。先駆者たちの流儀は、かっこいいものでした。その二人がニューヨークで初めて出会い、戸田さんが村瀬さんに「深い感銘を受けた」ことによって生まれたのが、対談集『枯れてこそ美しく』でした。好きなことを貫いてきたお二人の軽やかで深いスペシャルトークには、人生を最後まで楽しく、美しく生きるヒントがびっしりと詰まっていました。
若い人たちには、次のような言葉が印象に残りました。戸田さんならではの金言です。♥♥♥
夢が叶うか、叶わないか?いわゆる確率的には五分五分だから、大きなリスクですよ。それをわかってて、やっぱり覚悟していたのですから我ながら思い込みが強かったと思います。つまり字幕翻訳者になれないこともあると最初からわかっていて、どんな結果も受け入れる心構えがありました。覚悟を決めて、絶対にブレなかったから、情熱が長続きしたんだと思います。私は若い子たちから人生で重要なことは何かと聞かれたときには「自分がやりたいことをきっちり見極めて、自分で選択しなさい」ということをいつも言います。人の意見を聞いてもいいけど、選択するのは自分自身。最後の決断は自分で下すべきだと。人の言うなりになったり、右へ倣えしては絶対にダメよときつく言っています。
戦争とミステリー作家
我が国のトラベルミステリーの第一人者・西村京太郎(にしむらきょうたろう)先生は、2022年に91歳で惜しまれつつ逝去されました。発表された著書は649作にのぼります。私がかつて湯河原でインタビューさせていただいた時には、東京スカイツリーの634mを上回る635冊を書くのが夢だとおっしゃっておられましたから、目標を優に達成されたことになります。熱狂的西村ファンの私はそのほとんどを読んでいます。この2月に西村京太郎『戦争とミステリー作家 なぜ私は「東条英機の後輩」になったのか』(徳間書店)が出版されました。もともとの文章は、「東京新聞」の夕刊に2019年8月1日から10月31日にわたって連載された記事で、それらをまとめて一冊にしたものです。サブタイトルの「東条英機の後輩」というのは、戦争中に西村先生が「東京陸軍幼年学校」に入っていたからです。東条英機もその学校の出身です。短編のエッセイを連ねていくような形で、戦前、戦中、戦後の歩み、ミステリー作家として下積み時代から成功するまでを淡々と綴っておられます。戦争に対する子どもながらの矛盾や複雑な思いが綴られていて、西村少年の葛藤を感じることができます。戦後80年の年に問う、この国の在り方と、独りのミステリー作家の深き半生。奇跡の発掘。戦前に生まれ多感な時代に迎えた開戦。西村少年は陸軍幼年学校に入学、一気に冷めていく、この不思議さは何だ? 敗戦を経て作家の道を歩んだ。 往時を振り返り記した自伝的超克の書になっています。最後に収録された特別編では、京都時代の故・山村美紗さんのことにも触れておられました。巻末の文芸評論家の山前 譲氏の手になる詳細な年譜も大きな魅力です。
私は西村先生の熱狂的ファンで、若い時からその著作のほとんどを読んでいましたが、晩年(2015年~)の作品群には、大きな傾向の変化が見られました。十津川警部が活躍する設定は同じなんですが、作品中には必ず戦争の事実の記述や体験談が盛り込まれ始めたのです。この時期の作品には必ずといっていいほど戦争の記述が見られます。日本推理作家協会の「嗜好と文化」Vol.46に登場した西村先生は、その理由をはっきりインタビューで語っておられました。
戦争ものを書いておきたいと思いまして。B29などをデスクに置いておくと、この爆撃機に校庭で追いかけまわされたなあ、と当時のことが思い出されますから。最近の作品に、戦争中や戦後社会のことを書いています。戦後70年の今年出版される十津川作品にはすべて戦争、戦後のことが入っています。特攻隊員の生き残りなど、事件の関係者の祖父、祖母の経験したことを回想として描いています。元軍国少年としては、今の視点で書くのではなく、当時生きていた人間がその時どう感じていたか、を伝えたいという思いがある。表現上難しいところもありますが、これが実際にあったことだ、ということを伝えたい。でないと、戦争を忘れちゃうでしょう。最近の若い編集者と話していると、B29を見て、『これは何ですか』と聞く。戦争や戦後のこと、知らないんですね。がくぜんとします。
「赤旗」日曜版にも、西村先生は語っておられました。
終戦の時は15歳でした。陸軍幼年学校にいたので、あと何年か戦争が続いていたら、小隊を率いて死んでいたでしょう。怖いのは、戦争になると死を恐れなくなること。戦争のための教育をたたきこまれたから、死ぬのは全然怖くなかった。戦争末期は爆撃も激しくなり、誰も勝てるとは思わなかった。でも上の人は”勝てないけど負けない”と言う。そんなおかしな理屈をのみこみ、自分は勇ましく死ぬんだと思いこんでいた。狂気にかりたてられていたというか、狂気が”普通”になっていました。僕は『戦陣訓』が嫌いです。陸軍刑法には、捕虜になったときの規定がある。法律上は、捕虜になってもよかったんです。でも、『戦陣訓』のせいで、死ななくてもとかった人がたくさん死んだと思います。日本人は家庭ではいい人です。でも実際は、戦争中の話をいろいろ読んでいくと、違いますよね。兵隊になったとたん、おかしくなっちゃうんです。僕は戦争したくないけど、なかには戦争したい人もいるんだよね。不思議なんだけど。アニメやマンガの中には、戦争を何か勇ましいことのように描くものもある。だけど実際の戦争は違う。首相も政治家の多くも戦争を知らないんです。昔は自民党の中にも戦争を知る政治家がいて歯止めになっていた。そういう人たちがいなくなっちゃうのは困るんだ。戦争中、東条英機首相の暗殺計画があったんです。それを踏まえて考えると、いまの日本は平和だけど、上の人(首相)がおかしくなって日本が戦争に突き進もうとするようになったら、首相を暗殺しようとする動きが出てくるかもしれない。現実はもちろん許さないことだけど、小説だから、そんな話も考えています。世界中が戦争になっても日本だけはたたかわない方がいい。たたかわない国が、一国でもないと、まずいんだ。日本は第2次世界大戦の時のスイスのように、したたかな外交力を発揮すべきです。アメリカと一緒になって戦争に巻き込まれるのはまずいと思うな。誰から何をいわれようと、日本は戦争はしない。その道を突き進めばいい。そういう国がないと、戦争の仲裁とかもできないでしょう。
十津川警部シリーズでおなじみの鉄道ミステリーの第一人者・西村京太郎先生は、昭和24年4月にエリート将校養成機関である東京陸軍幼年学校に入学し、その四ヶ月半後に終戦を迎えました。当時の自身の生々しい戦争体験や、それに基づく独自の戦争観、日本人論について自伝的ノンフィクションという形で書き下ろされた異例の本が、『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』(集英社新書、2017年)でした(先生には終戦工作秘話をテーマにした小説『D機関情報』という作品もあります)。昭和から平成にかけて出版してきたベストセラー作家が、なぜ今戦争体験を振り返るのか?8月15日の敗戦までの、短くも濃密な4ヶ月半。「天皇の軍隊」の実像に戸惑い、同級生の遺体を燃やしながら死生観を培い、「本土決戦で楯ととなれ」という命令に死の覚悟を決めました。戦時下での少年は何を見て、何を悟ったのか。そして戦後の混乱をどのように生き抜いて作家となったのか。本書は、自身の来歴とともに、今こそ傾聴したい、戦中派の貴重な証言となっていました。西村先生の著作としては異色の内容ということもあって、刊行直後から大きな話題となり、出版社にも予想以上の反響があり、テレビ、新聞、雑誌、ウェブ媒体などから多数の取材依頼が舞い込みました。酷暑の中、多忙なスケジュールに追われた西村先生ですが、「取材はどんどん受けますよ」と言って精力的に対応しておられました。マツコ・デラックスさんのバラエティ番組「アウト×デラックス」に出演したり、「報道ステーション」に出演したり、と飛び回っておられました。そんな一つが、『スポーツ報知』に「西村京太郎さんの戦争体験」と題して掲載されました(写真下)。
B29の空襲で校舎を焼き尽くされ、本土決戦が迫り来ようとしていると信じる中でも、「盾になって、天皇陛下をお守りするのだ」と覚悟していた軍国少年の西村先生。玉音放送を聞いた日から80年たった今、確信するのは日本人は戦争に向いていないということです。「日本人は権力に弱く、戦争を叫ぶ権力者の声に従ってしまう。そして一番恐れるのは『臆病者』『ひきょう者』と言われること。戦争は始まってしまったら一刻も早く止めるべきなのに、勝算のない戦いをダラダラと続けてしまったんです」「最近はなんとなくきな臭いからね。安倍総理もそうだけど都知事の小池さんも『右』だからね。走り始めるとずーっと右へ行っちゃう。怖いですよね。子供の頃、皆が読んでいたのは『新戦艦高千穂』とか『見えない飛行機』という小説。読むと日本は戦争に勝てるんじゃないかと思うようになる。日本人は空気に弱いですから。総理大臣の話も威勢がいいほうが受けますけど、政治家がそういうことを言っちゃいけないんですよ」 2015年に「安保法案」が国会で可決され、西村先生には戦前・戦中の悲惨な記憶が蘇ってきます。2015年(平成27)は、太平洋戦争の終戦からちょうど70年となります。十津川警部シリーズの2015年以降の作品から、突如として戦争の話が組み込まれていくのは、そういう事情からなんです。西村先生は「このままでは、だれも戦争のことが分からなくなる。だから、書いておかなくてはならないと思ったのです」(会報『十津川エクスプレス』vol.31)と。
貧家生まれの少年が、立身のため将校を志して「陸軍幼年学校」に入学するのは戦前は珍しくありませんでした。しかし敗戦で「陸軍幼年学校」が廃止され占領下の社会に投げ出された少年は、統制もなく自由に生きられる良い占領と受け止めました。軍人の夢破れると作家になりたいと願い、どんな苦しい生活にあっても夢を諦めなかった彼がベストセラー作家となれたのも、この敗戦があったからでしょう。そんな西村京太郎先生が山村美紗という得難いパートナーと出会い、時代の変化など平然と無視する京都人の心意気に触れたのは第二の人間修業と言えるでしょう。最後まで売れる作家であり続けた理由はそこにあるのでしょう。戦後80年経ち、世界各地でキナ臭い戦争が繰り広げられている今、もう一度じっくりと考えてみたい問題です。♥♥♥
使えるものは何でも
「英語の勉強の8割までは単語の勉強」が私の持論です(「花より単語」)。そして生徒が毎日一番苦労しているのもこの「単語の暗記」です。暗記の作業はとにかく苦痛です。覚えてもすぐに忘れます。私は授業の中で、時々「語呂合わせ」を持ち出すことがあります。代表的なものは、dictionary(辞書)を「字引く書なり」、kennel(犬小屋)を「犬寝る」、deny(否定する)を「そうでない」、lawyer(弁護士)は「牢屋に出入りするに関係があるから」などです。あ、結構面白いぞ、となってきたらしめたものです。その他にも、killは人を「切る」から「殺す」です。quarrelは人間関係が「コワレル」から「けんか、口論」です。私はよく机をバンッ(ban)と叩いて「禁止する」と教えます。その昔、ベストセラーになった『英単語連想記憶術』(青春出版)なる本には、これでもかというぐらい例が挙げられていました。続編・続々編が出たくらいですものね。かつて、barnという結構レベルの高い英単語を、「晩納屋でね」といった意味深な「語呂合わせ」で教室で紹介した同僚がいましたが、この単語がセンター試験の長文読解問題に出た時には、狂喜乱舞したことでしたね〔笑〕。
こんな具合にして、英単語が全部覚えられるものなら、苦痛も半減するのでしょうが、なかなかどうしてそんなに上手くいくものではありません。しかし眠い目をこすりながら呪文のごとくひたすら「丸暗記」では、すぐに忘れてしまいます。そこに少しでも何らかの手がかりを工夫して、記憶しやすい方法を見つけるようにしたいものです。私は「音声」「語呂合わせ」「カタカナ語」「語根」「派生語のルール」や「音と意味のイメージ」(例:gl-, fl-, dr-, sp-, shr-)などもフル活用して繰り返し、繰り返し徹底を図っています(この反復というのが重要です)。少しでも受験生の暗記の負担が軽くなる方法を模索しながら指導しているんです。すべり台を滑り落ちるとそのまま下まで滑り落ちてしまいますね。ところが途中に何か突起物があるとそれにひっかかって止まります。これと同じで記憶も何かひっかかりがあると脳に記憶されるのです。「箸にも棒にも掛からず」覚えられないような単語を、どこかに引っ掛けるようにするのです(写真下)。最新刊のすずきひろし『語源×語感×イメージでごっそり覚える英単語事典』(ベレ出版、2025年4月)はそんな見事な試みの一冊でした。
私が高く評価する竹岡広信(たけおかひろのぶ)先生の単語集『LEAP』(数研出版)でも、所々に竹岡流のギャグが登場したり、語源にまつわる情報、単語の使い方に関するワンポイントアドバイスが細字で挙げられていて、読むのが楽しくなります。私は通勤電車の中で楽しみながら読んでいます。かつて松江北高の英語科職員室に掃除にやって来る生徒たちに、この単語集の感想を聞いてみたことがあります。単語にまつわるウンチクが小さい文字でいろいろと書かれていることに対して、英語の得意なできる生徒たちはこれを「読んでいて面白い」と言い、苦手な生徒たちは「面倒くさい」と反応が見事に分かれたのは興味深いことだと思いました。私は「語根」を活用した勉強法を強く薦めているのですが、「単語の記憶」に使えるものは何でも使おうというスタンスです。単語集もそのような姿勢のものを使おうと思っています。それにピッタリなものが竹岡先生の『LEAP』なのです。昨秋に改訂版が出ました(⇒単なる改訂版ではありません。相当変わっています。私の紹介記事はコチラとコチラです)。今、本屋さんに並んでいます。♥♥♥
『谷村新司詩集』
令和5年10月に74歳でお亡くなりになったシンガー・ソングライターの谷村新司(たにむらしんじ)さん。『谷村新司詩集 ―夢のその先―』(扶桑社、2024年、3,300円)が、谷村さんの誕生日である12月11日(2024年)を記念して扶桑社より発売になりました。私はすぐにアマゾンで取り寄せました。50年にわたるアーテイスト活動の中で、日本の音楽史に燦然と輝く、谷村さんがこよなく愛した日本語で綴られてきた珠玉の作品を集めた、本格的な初の詩集の誕生です。谷村さんの想い、後世に伝えたいメッセージがここに詰まっています。「冬の稲妻」、「いい日旅立ち」、「チャンピオン」、「昴-すばる-」、「サライ」など、ぜひ記憶にとどめておきたい全61篇です。人生の応援歌とも思える詩の数々を、行間に思いを馳せ、じっくりと味わい後世に語り継いでいきたいものです。谷村新司さんのファンだけでなく、全ての音楽ファンが傍に置いておきたい一冊です。その内容は次の通りです。
●1972年のデビュー曲から遺作までの軌跡を振り返る61篇の詩。
●谷村さんのことを『お兄ちゃん』と呼んで慕い兄弟のような関係だった、長年の友代表としてさだまさしさんからの特別書き下ろしメッセージ「さあ、歌いたまえ!」を収録しています。
●生誕からアリス結成、名曲の数々、伝説のライブ等々。谷村さんの数々のエピソード満載の圧巻の年表完全版が36ページに渡り編集されています。
谷村新司さんの一周忌(10月8日)を迎えるにあたって、『アリス コンサート2024 ALICE FOREVER ~アリガトウ~』と題して思い出の場所、日本武道館(9月18日)と大阪城ホール(10月13日)でアリスの追悼コンサートが開催されました。オープニングの「冬の稲妻」から“3人のアリス”は、谷村新司さんの歌と映像をシンクロさせた特別な演出で、まるで谷村さんがそこにいるかのようで会場は歓喜と感動の涙につつまれました。谷村さんは、アリスのリーダーとして、「冬の稲妻」「チャンピオン」など数々のヒット曲を発表し、また、ソロとしても、「昴」「いい日旅立ち」「サライ」といった、いつまでも歌い継がれる名曲を生み出し、日本の音楽シーンを長きにわたり牽引してきました。本書は、自身初となる本格的な詩集として、1972年のデビュー作から遺作までの軌跡を振り返り、時代を超えて心に響き続ける名曲となった詩の61篇を1年かけて編纂しました。
谷村新司さんといえば、私には二つほど心に残っていることがあります。その一つ目。漢字の“友”という字をよ~く見てみてください。じ~っと見ていると、2つの「人」という字が見えてきます。左上の傾いた“人”を、右下の“人”が支えている。倒れそうな人を懸命に横から支えている。これが字源なんです。その昔、谷村新司さんの著書『こころに響く言葉』(講談社、1996年)という本を読んでいて、心に残った言葉があります。次の言葉でした。当時担任していた生徒たちによく語ったものです。
生意気に、いつも粋がって、 ひとりで生きてきたような顔をしていたけれど、 何もできなかった。 いくら感動しても、片方の手だけでは感動の拍手すら表現できない。 そう、ひとりじゃ、何もできなかった。
二つ目。私の大好きなさだまさしさんのヒット曲「防人の詩」(さきもりのうた)は、『二百三高地』という東映の戦争映画で、しかも勝利した戦争の主題歌を歌ったことで、「右翼的」だというレッテルを貼られました。歌もちゃんと聞かずに、「防人」というタイトルだけに反応して、「戦争賛美」「好戦的」「好戦的な右翼思想だ」と短絡的に批判されたのでした。この歌のどこが「戦争を賛美」なんでしょうかね?「本当に、ちゃんと聴いてくれたの?こんな反戦歌、他にないでしょう」と思ったさださんです。さださん自身は「いまの緊迫した世界情勢の中で、日本という国を愛するたった一人の“人間”として『自分の中の万葉集』『自分の中の防人の歌』というつもりでつくりました」と述べ、「いさなとり 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ」(万葉集)という歌に触発されて作ったと言います。いわれのない批判だと思いつつも、「これが伝わらないところでやっていてもしょうがない」と、あまりのひどさに同郷の文芸評論家・山本健吉(やまもとけんきち)先生に弱音を吐きます。「僕なんか、たかが歌だと思っているんですが、人格まで非難されるんですね」すると山本先生は、「いや、詩歌というのは、そういうものなんだよ。自分の人生観を賭けて歌を歌ってるわけだから、そういうことを言う人がいるのは当然のこと。ただ君は、もういなくなった人を歌うのが非常に上手だ。「精霊流し」も「無縁坂」にしても、あたかも亡き人を謳っているかのような、そんな印象を受ける。「みるくは風になった」も「防人の詩」にしてもそうだが、いなくなった人の歌を歌うのは、挽歌といって日本の詩歌の伝統であって神髄である。君は知ってか知らずか、心のどこかで日本の詩歌の本道をちゃんととらえている。それでいい。君はまちがっていないんだから、何を言われてもやりつづけなさい。ひるむ必要はない。詩歌に生きた人は、そんなことでひるんだ人は一人もいない」と勇気づけてくださったのです。その言葉を聞いてさださんは、肚をくくります(『やばい老人になろう やんちゃでちょうどいい』)。この映画『二百三高地』の音楽監督は、故・山本直純(やまもとなおずみ)先生でした。「戦争の勝った負けた以外の小さな人間の営みを、ちゃんと浮き彫りにしていきたい。そういう映画なんだ」と言われ、引き受けた曲です。185分という大作で、途中休憩となる前の、死屍累々たる戦地の惨状の中を、あおい輝彦さんが血みどろになり地獄絵図の中を歩く、戦争の無惨さ、生命の尊さを問うシーン、そこに流れてきたのがこの主題歌でした(この歌に感動した監督が、後からこの曲のために付け加えたシーンだと聞きました)。
この「防人の詩」騒動の直後、東宝映画『連合艦隊』の主題歌を、谷村新司さんでお願いしたいとの依頼がきました。さださんのことを「あれで叩かれるとは世の中おかしい」と擁護した谷村さんは、すぐ「やりましょう」と二つ返事で引き受けます。「いろい
ろな雑誌から、いろいろな叩かれ方をするかもしれませんよ」と言われましたが、谷村さんは「望むところじゃないですか」と答え、敢えて「火中の栗を拾い」、さださん以上に叩かれたことがありましたね。戦争を賛美する人などいないし、いいと思っている人など一人もいない。それでも起こってしまうのが戦争。谷村さんは、戦争があるがゆえに、親よりも先に逝ってしまう子どもたちの悲しさ・運命を主題歌にしました。それが「群青」(ぐんじょう)という歌です。哀しいピアノの旋律が胸を強く揺さぶります。谷村さんの数ある曲の中で、私が一番好きな曲がこれです。



























