Congratulations

 英語には、多くの学習者が混乱したり間違えやすいポイントがあります。その大きな理由が「日本語との違い」です。例えば「単数と複数」の問題は日本人にとっては理解しづらく、馴染みにくい苦労する事項です。日本語では、単数複数で言葉自体が変わってしまうことはほとんどありません。高校生が英語で複数形の “s” の付け忘れはよくあります。また、そんな “s” 以外にも、“Congratulations” や “Thanks”、“Cheers” などにも必ず “s” がくっついてきます。これを高校生の中には間違える人がとても多いんです。英語では “Congratulation!” ではなく、必ず“s”をつけてCongratulations!と複数形で使います。むしろ最後の<z>の音が聞こえるように意識的に発音します。例えば、

Congratulations on winning the award!(受賞おめでとう!)

Congratulations on your graduation.(ご卒業おめでとう)

Congratulations on passing the entrance exam.(入試合格おめでとう)

みたいな感じですね。来日したトランプ大統領高市早苗総理にこの言葉を贈っていました。“s”がつかない “congratulation” も単語としては存在しますが「おめでとう」の意味で使う場合は、いつも必ず “Congratulations” になるので、sが無いととても不自然に聞こえます。この“s”には、元の言葉の意味を強める働きがあり、「強意の複数」と呼ばれています。他にも「ありがとう」を意味するThanks.やMany thanks.などにも“s” がつきますよね。 あふれんばかりの感謝の気持ちが複数形になって表されているのです。“Thanks.” とは言っても、“Thank.” とは言いません。

 このように、いつも複数形s(もしくは es)が付くものは他にも、

Best wishes

Kind regards

My apologies

Cheers

Greetings

Condolences

などがあります。“s”をつけることで意味を強めているのですが、これらを見ていると、ある共通点に気付きませんか?お祝いの言葉だったり、幸せを祈る言葉だったり、謝罪の言葉だったり、挨拶の言葉だったり、哀悼の意だったり、これらを表したり伝えたりするのが上のフレーズや単語です。そこにはたくさんの言葉や気持ちが込められています。お祝いや謝罪の言葉、願いなどがたった一つではなくて、たくさん込められていますよ、という意味で複数形になるのです。「あふれんばかりのたくさんの祝福」という意味合いが込められているのです。これを知っていれば、“Congratulations!”、“My apologies”、“My condolences” の “s”を忘れることはもうないですよね!

 まとめると、Congratulations!“s”「強意の複数」で、「おめでとう」の意味合いを強める働きがあります。加えて「あふれんばかりのたくさんの祝福」が込められているのです。

 それともう一つ。Congratulations!は、努力して目標を達成したり、勝ち取ったことの成果をお祝いするものですから、花婿には使ってもよいが花嫁には失礼にあたるから使わないように、という指摘がこれまでしきりになされてきましたし、私もそのように習いました。「よく努力してあんないい旦那を射止めたね!努力が実ったね!」というニュアンスになってしまうので、避けるべきだということです。しかし私の調査によれば、現在では若い人を中心に祝福の言葉としてごく普通に使われています(中には気を悪くする昔気質の女性もいるようですが)。そこら辺は次の記述を参考にしてください。

〔参考〕  元来は新郎に対して言うものだが、最近では新婦にも言う人が多い。(『ライトハウス英和辞典』第7版)

〔語法〕  Congratulations!は努力して成功した人、めでたいことがあった人に贈る言葉。かつては、結婚式の場合、通例花婿に対して用い、花嫁にはI wish you great [every] happiness./ Best wishes!などと言うとされていた。しかし最近ではCongratulations (on your marriage)!も用いられるようになってきている。新年・クリスマスのあいさつには使われない。(『ジーニアス英和辞典』第6版)

  さらに、カジュアルな場面では、Congrats!とだけ言ったりもします。発音は「カングッツ」でラのところにアクセントを置きます(キャサリン・A・クラフト『簡単なのに日本人には出てこない英語フレーズ600』(青春出版社、2024年))。♥♥♥

   You passed!  Congrats!  合格したのね!おめでとう!

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

go Dutch

 『朝日新聞』11月3日付けの朝刊「特派員通信 とらべる英会話」「割り勘にしよう Let’s go Dutch.」が紹介されました。「相手がオランダ人やその関係者だったら、シャレにならないかもしれない。気持ちよく割り勘にするためにも、お互いをよく知る関係で使いたい表現だ」と結んでいます。しかし、この表現は「差別語」と受け取られかねない危険な英語です。

 その昔、覚えたてのこの英語を得意げに使ったことがあります。Go Dutch、これは「割り勘をする」という意味なんです。これは2人だけでなく、グループで食事などに行ってそれぞれが別に支払をする場合も使うことができます。ただ、これはinformalな言い方で、オランダ人に対して軽蔑的な表現でもあるので、あまり使用はオススメできません。覚えておくのはいいのですが、「割り勘」と言いたい場合は split the billを使いましょう。

 オランダとか、オランダ人を意味するDutchを使った口語英語はこの他にも、今でもDutchを使った“ネガテイブ”な意味合いの慣用語が幾つもあります。例を挙げてみましょう。

do the Dutch・・・自殺する
Dutch treat・・・ go Dutchと同じ、割り勘で行こう

Dutch courage ・・・酒の勢いなどの空元気
Dutch auction・・・セリ下げ競争(次第に下げていくセリ)
double Dutch・・・さっぱりわからない言葉
Dutch uncle・・・ずけずけ批判する人
Dutch bargain・・・一杯やりながら取り結ぶ売買契約
Dutch comfort・・・さっぱりありがたくない慰め
Dutch concert・・・バラバラな合唱
Dutch gold・・・(銅と亜鉛の合金で模造金箔として用いる)オランダ金
Dutch defense・・・退却、降伏
I’m Dutch if it’s true.・・・それが本当なら首をやるぜ
in Dutch・・・困難に陥った
That beats the Dutch.・・・これは驚いた、参った

He is in Dutch with his boss.・・・あいつは社長の受けがよくない

 よくもまあここまで民族を卑しめることができるものだと感心させられますよね。変な意味、あまりよくない意味の言葉が多いのです。結局、これには歴史的な背景が関係しているんです。詳しくはR.Hendrickson, Encyclopedia of Word and Phrase Origins(1997)、Morris Dictionary of Word and Phrase Origins(1988)などを参照ください。イギリス・オランダ両国はシェークスピア時代のずっと後までは友好関係にあったのです。例えば、16世紀にスペインの属国であったオランダが独立を図ろうとした時、エリザベス1世は援兵を派遣しています。しかし、17世紀になると、オランダは海外に勢力を伸ばし英国を脅かし始めたのです。16~17世紀、オランダは海外に向かって大発展を遂げ、強国だったはずのイギリスをも圧倒していきました。イギリス艦隊を破ってジャワを獲得し、東インドからイギリス大勢力を追っ払ってしまいました。それまでのイギリスの優位が逆転してしまったため、オランダに対する恨みや劣等感から侮辱する言葉として盛んにDutchが変な意味に使われた始めたのでしょう。すべての始まりは17世紀。当時、世界の海を舞台に貿易の覇権を争っていたのが、新進気鋭のイギリスと、“黄金時代”の真っ只中にあったオランダでした。三度にわたる英蘭戦争で激しく火花を散らした両国。イギリスは武力だけでなく、言葉の力でもオランダの評判を徹底的に貶めようと画策します。そう、国家ぐるみの壮大なネガティブキャンペーンでした。その結果、「Dutch(オランダの)」という単語には、これでもかというほどネガティブな意味が上塗りされていきました。

 今話題にしているgo Dutch と言う表現は、いつも割り勘にするなんて、なんてケチなんだ、という皮肉から生まれた言葉と言われています。「あいつらはおごるという文化がなく、常に個人で支払うケチな連中だ」というレッテル貼りのための言葉です。「オランダ人のおごり(Dutch treat)」と言いながら、実際は「各自で払え」という意味。強烈な皮肉が込められていますね。外国人と食事に行って割り勘にしましょうと言いたいときには Let’s split the bill./Let’s have separate bills.を使うようにしましょう。

 『大学入試瑛熟語最前線1515』(研究社、2024年)には、「イギリスとオランダが軍事や貿易において覇権を競っていた17世紀に端を発するもので、イギリス人がオランダ人を蔑んだことによる。現在ではめったに用いられないが入試では出題される」とあります。『ライトハウス英和辞典』(研究社)には[ときに差別語]という注記を入れておきました。『スーパーアンカー英和辞典』にも同様の語法注記が見られます。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

源助柱

 古くから風光明美な城下町として知られる、水の都・松江。私はその松江に長年住んでいながら、知らないことが数多くあります。「あ~、こんなことも知らなかったのか!」新しく始まったNHK連続ドラマ「ばけばけ」は、そんな松江の歴史を掘り起こして気づかせてくれます。そういう意味で貴重な番組です。松江の観光客の集客に一役買ってくれるといいですね。

 

 

    松江の市街地は宍道湖中海を結ぶ大橋川で南北に分かれており、「松江大橋」はその大橋川に架かる橋で、松江を代表する名所の一つになっています。橋の長さは約130mで、御影石でできた欄干は20個の擬宝珠(ぎぼし)で飾られ、橋の中程には夜になると点灯される4つの灯籠がある風情のある橋です(写真上)。今回取り上げるのは、この町で最も古い橋である松江大橋」の悲しい伝説「源助柱」(げんすけばしら)です。きっと、セツ八雲も目にしたであろう、松江の風景です。

    ドラマの中でトキ松江大橋を渡る時、手を合わせるのが「源助柱」です。友人サワが語るように、架橋のために人身御供ごくうにされた男の話が伝わります。松江開府まで「カラカラ橋」と呼ばれた人がやっと通れるる簡易な竹の橋が1本あるきりだった大橋川に、松江城築城の物資を運ぶ荷車が通れるための頑丈な橋を架けるよう、堀尾吉晴公より命がくだったのは慶長年間(17世紀初頭)のことでした。しかし洪水や軟弱地盤ゆえに失敗が続き、工事は難渋を極めました。柱を支える堅固な川底がないようで、巨石をたくさん投げ込んでも甲斐かいがなく、いったん橋がかかってもすぐに柱が沈み出す始末で、修復してはまた壊れるの繰り返しだったといいます。そこで困り果てた末、人柱、つまり中央の橋脚の下に人を一人、生き埋めにして水神の怒りをなだめることになったのでした。その日の朝一番にマチのない袴をはいて「カラカラ橋」を渡る男を人柱とすることになり、橋とは何の関係もない足軽の源助がたまたまその服装で橋を渡ったために捕らえられ、人柱として生きたまま橋脚の下に埋められました。このような経過を経て、橋は慶長13(1608)年にやっと完成し、これが初代の「松江大橋」とされています。八雲は人柱の伝説についてこんなふうに記しています。

この人柱に立った男は、雑賀町に住む、源助というものであった。なぜこの男が人柱に立ったのかというと、昔から、まちのついていないはかまをはいて、はじめて新しい橋を渡ったものは、橋の下に生き埋めにされるというおきてがあって、たまたま源助はまちのない袴をはいて橋を渡ったところを見とがめられたので、かれが人身御供に上がったというわけであった。そんなわけでこの古い方の橋の、まんなかにあった橋ぐいは、犠牲者の名をそのままとって、三百年このかた、源助柱と呼ばれていた。

 源助のはいていた「まちのない袴」とは、股が分かれていないスカート状の袴のこと。「行燈袴」とも呼ばれて、現代では袴といえばこの形が主流ですが、源助の時代には股が2つに分かれた「馬乗袴」が多数派。珍しい「行燈袴」姿だったために、源助は不運にも人柱にされてしまいました。いわばハズレくじを引いたようなものです。誰をどんな理由で選んだとしても遺恨は残るわけですから、人意ではなく神慮に委ねたのでしょう。まさに「天の神様の言うとおり」というわけです。また八雲は、「源助柱」について、月のない晩など丑満時うしみつどきになると、「源助柱」のあたりにしきりと鬼火が飛んだという言い伝えも紹介しています。

 松江では、「源助柱」の言い伝えはいくつかの説があります。八雲の記したマチのない袴の人物説の他に、横しまの継ぎがあたった袴の人物を選んだという説や、実は人柱の条件を言い出したのは源助自身だったという説も。またお茶どころ、松江らしいこんな話も伝わります。朝、お茶を飲んで出ようとする源助を妻が引きめて2服目をすすめたけれども急ぐ源助は断りました。2服目を飲んでゆっくり家を出れば人柱になることもなかったのに……と。だから松江ではお茶を1杯だけで済ませるのは縁起が悪く、2服は飲むものだといわれます。

 その後、松江大橋は何度も架け替えられ、八雲が松江に来た明治23(1890)年8月は、15代目の架橋工事中。翌1891年3月の開通時、八雲は宿の2階から渡り初めの様子を見たと記しています。北詰から見た松江大橋。潮の満ち引きなどによって流れる方向が変わり、橋脚付近は流れが複雑です。その後も洪水や事故のため、何度も橋の架け替えが繰り返され、今の松江大橋は昭和12(1937)年に完成した第17代目です。かげ石の欄干と唐金の擬宝珠ぎぼしが印象的で、日暮れ時になると4基の灯篭にあかりともります。その南詰の小さな公園には「源助柱記念碑」が建てられ、架橋による町の繁栄の影に尊い犠牲があったことを伝えています。

 松江大橋の南詰めにある「源助公園」には、橋の建設での尊い犠牲者を供養する2つの石碑があります。一つは人柱となった源助の碑で、もう一つは現在の橋の建設中、落下した鋼鉄製のバケットで頭を打って亡くなった深田清技師の碑です。深田技師が事故にあったのが、源助が埋められたとされる橋脚の側であったため、当時の新聞に「痛ましい昭和の源助」と報じられたそうです。大橋近くのスティックビルの筋向かいにある龍覚寺には、源助の木像と石の源助地蔵が祀られています。♥♥♥

▲深田技師の記念碑も

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

『WiLL』と『Hanada』

 本屋さんに行くと、『WiLL』『Hanada』という2冊の月刊雑誌が同じ売り場に並べて置いてあり非常によく似た表紙でもあり、紛らわしいと思ったことはありませんか?雑誌『月刊WiLL』(ワック出版)は、2004年11月に創刊された日本の政治系月刊雑誌であり、主に保守的な観点からの論説や記事を掲載しており、編集方針としては、自由主義や市場経済、伝統的な価値観を支持する内容が多く、保守層からの支持を得てきました。雑誌の創刊の際に、社長がホテルニューオータニで相談を持ち掛けたのが、故・渡部昇一先生でした。「総合雑誌ですか、この時期にそれは剛毅ですね」とのお返事が。創刊号には堂々8ページにわたる渡部先生の論考が掲載されています。誌面には、著名な政治家や学者が執筆する記事が並び、特に日本の歴史や安全保障問題、外交問題について深く掘り下げていることでも知られています。私は創刊時からずっと定期購読をしていました。『WiLL』というタイトルはワック社がすでに「ウィルアライアンス」(willalliance)という社名の広告会社を設立していたからでした。 創刊時から一年間は赤字でしたが、スクープや時々のタイムリーな特集で徐々に部数が増えていき、オピニオン誌として存在感を増していきました。ここで大騒動が起こります。

 数年前に、月刊誌『WiLL』(ワック社)の元編集長、花田紀凱さんが飛鳥新社に移籍して、新しく作った月刊誌『Hanada』の創刊号の表紙デザインやレイアウトなどが、WiLL』に瓜二つで非常によく似ていると話題になりましたね。私も二冊を今井書店から届けられたときにビックリしたのを覚えています。確かに『Hanada』の表紙のデザインや配色などは、WiLL』とそっくりです。『WiLL』の編集部は、ツイッター上で「表紙から本文レイアウトまで模倣する行為は、不正競争防止法2条1項3号『商品形態の模倣』としかいいようがありません」と噛みつきました。花田氏は、『WiLL』編集部員を引き連れて飛鳥新社に移籍しようと企てたとして、ワック社の取締役を解任され、編集長職も退いていました。花田氏はその後、編集部員を全員引き連れて本当に飛鳥新社に移籍しました。

 2016年4月、飛鳥新社から『WiLL』の編集長だった花田編集長が創刊した『月刊Hanada』6月号を本屋で見てビックリしたものです。表紙もそっくり、内容・執筆陣もほぼ同じような雑誌でした。「一体何があったんだろう?」と驚き、不思議に思いながらも、事情が語られることもなく、これも今井書店に定期購読をお願いし、毎月届けてもらっていました。これまでの『WiLL』のような雑誌が2冊になったというわけで、しかも発売日も同じで市場を食い合うことになるのですが、今後、この市場が果たして2冊分あるくらい大きいものなのかということが疑問でした。書き手もかぶっているし、一体これからどうなるか興味深いところもあるなと思って注視していましたが、今のところ両誌とも好調のようです(毎月並列された新聞広告の大きさに驚いてはいますが)。あれから年月が経ち、少しずつ裏の事情が分かるようになり、納得したことを今日は取り上げたいと思います。

 『Hanada』は、『月刊WiLL』から分派した政治系月刊誌であり、2014年に創刊されました。同じ保守的な立場を取る雑誌ですが、より強調された形で日本の文化的価値や国益を重視する記事が目立ちます。月刊『WiLL』から『Hanada』が分裂した主な背景には、編集方針の違いがあると言われています。特に、月刊『WiLL』がやや穏健な保守を標榜するのに対し、『Hanada』はより過激な視点からの論調を取り、戦後史や日本の教育に関して鋭い批判を展開しました。

 3月18日付で『WiLL』の発行元「ワック」鈴木隆一社長)は、『WiLL』編集長でもあった花田紀凱常務取締役を解任。結果的に、花田さんと『WiLL』編集部全員がワックを退社。飛鳥新社から新雑誌を発行することになりました。一方、ワック側は今後も『WiLL』を発行し続けることを宣言しました。しかし、花田さんは連載陣も含めて新雑誌に移行するとしており、双方から執筆陣への働きかけがなされたようです。

   ご本人の説明はこうです。《2015年8月26日、突然、鈴木社長が「花田さんが私のストレスになっている。だから部員一同を連れてどこかの会社に移ってくれ。何なら広告担当のMさんも連れて行っていい」と言ってきたんです。僕は青天の霹靂というか、びっくりしました。実はその頃、鈴木さんは精神的にナーバスになっていて、言動もおかしなことがたくさんあったんです。そういうことがあったので、気が高ぶってそういうことを言っているのかもしれないから、僕はしばらく放っておいたんです。そうしたらまた何度もそういうことを言ってくる。「年内でどこか出版社を決めてくれ」と。移行には時間がかかりますからね。そうしたら「4月発売号をめどに替わってくれ」と。こういう話だったんです。そう何度も言われるんじゃしょうがないなと。それで僕は、出版社にも知り合いが多少いますから、いろんな方に話をして、飛鳥新社の土井尚道社長がぜひということで決まりました。決まったものですから、12月の初めに鈴木社長に報告したんです。飛鳥新社という名前はその時は出さずに、「ある出版社に決まりました」と。すると、いきなり鈴木さんは「花田さんもその出版社の社長もビジネス感覚がないね」と言うんです。まあ実際僕はビジネス感覚はないんですけどね(笑)。鈴木社長は「私はタダで持って行けとは言ってませんよ。そんな虫のいい話がありますか」と言う。「売る」と言うんですよ。「売ると言ったって鈴木さん、あなた出てってくれと、しかもしつこく言ってきたから私は探しただけだ」と。その間に売るなんていう話は一度も出ていませんでした。「そんなことは聞いてない」と言っても「それじゃビジネス感覚がない」と、この一点張りです。「じゃあ念のために伺いますが、いくらで売るんですか?」と訊いたら「5億円だ」と。今の出版大不況の中で、5億円も出して私と4人の編集部員とDTP担当1人を入れた5人を引き取って雑誌を継続しようなんていう出版社はないですよね。だから「そんなところないですよ。だったら鈴木さんが探して下さい」と言ったんです。》 《そのうちにいつの間にか、5億円という話は曖昧になってしまいました。一方で飛鳥新社には既に話はしているから、そちらはそちらで進んでいくしかない。それで、ワックで仕事をしながら飛鳥新社とも話を進めていました。一応5月号まではワックでやるということになっていたので、それまでは私は淡々と雑誌を作ろうと。よしんば別れることになっても、泥仕合ではなく淡々と別れましょうということはしきりに言っていて、その時は鈴木社長も「そうしよう」と言っていたんです。だけど、だんだん鈴木社長の言動もおかしくなるし、言っていることもエキセントリックになってきたんです。》

 《昨年8月に鈴木社長から「花田さんは私のストレスだ」と、辞めることを申し渡されたのが騒動の発端なのだが、「私のストレス」とはどういうことなのか。あの会社で鈴木社長より年上なのは私だけでした。ワンマン会社だから、他の連中は異常なことがあっても何も言えないんです。これまでにも次々と社員を辞めさせてきました。でもそういうことについて、おかしいとか変だとか、誰も言えないんです。ところが私は多少言える。私は経営能力はないから、経営に関しては何も言わないようにしてきたんだけど、この10年間で、鈴木社長が営業ですね、広告。私が編集。そういう分業でやってきた。時には鈴木社長がいろいろ言ってくることもありましたが、私はそれがいいと思えばやったし、そうでなければ従わなかったんですよ。そういうことが、ワンマン社長の彼にとっては面白くなかったのかもしれません。》 《そういう中で騒動の遠因となったのは、鈴木さんが病気を患って入院したことでした。もし鈴木さんに万が一のことがあったら、この会社はたちまち立ち行かなくなる。そうしたら30人近い社員とその家族が路頭に迷うことになる。だから、鈴木さんが信頼できる人、どこかの会社のOBでもいいし、経営がわかる人を連れてきておいて、顧問でも社長でもいいですが、置いておかないと、万が一の時に大変になる。そう何度も言ったのです。でも彼は全然聞かない。そういうことがきっとストレスと言えばストレスだったのかもしれない。さっき言った編集のこともあるし、病気になってからそういうことを言ったのも嫌だったのかもしれない。でもそういうことを言えるのは僕しかいないわけですよ。他は全員年下で、言うことを聞かざるをえないわけだから。》結局、花田さんはワック出版を辞めることを決意したのですが、もしかすると鈴木社長の誤算だったのは、花田さんだけが辞めるのかと思っていたら、編集部全員が一緒に移籍することになったことだったかもしれません。《鈴木さんから「編集部員を連れて出て行け」と言われた後に、僕は若い編集部員と相談したんです。こういうふうになった、私は出て行かざるをえないが、あなたたちはどうする?と。そしたらみんな「一緒に辞めます」と。それで私が一応上司だから、3月いっぱいで辞めるというみんなの退職願を預かって、鈴木社長に渡したわけです。》 《編集部員には編集部員の考え方がある。鈴木さんと近しい人もいたし、僕とずっと長い人もいた。だからいろいろ考え方はありますよね。だからそれは彼らの判断なんです。「私は残ります」と言われたら僕はしょうがないわけです。だから部員に説明して訊いたら「私たちも辞めます」ということになった。鈴木社長は少なくとも一人くらいは残ってくれると思っていたんじゃないでしょうか。》 《結局、編集部員は全員辞めたわけです。それからずっと担当だったDTPも辞めた。『歴史通』の編集長を建前上の編集長にして、部員は誰もいないんだけど慌てて募集しています。でも集まったにしても、それをまとめていく役がいませんから難しいでしょうね。というか、私は筆者の方々にはお話して、連載は全部持って行くんですから。》花田さんとしてはもちろん『WiLL』という雑誌に愛着があるし、できれば雑誌そのものを持って移籍し、『WiLL』を編集発行し続けたかったのでしょうが、ワック側が了承しない限りそれは難しいのです。

 《『WiLL』はロゴも私が考えたし、タイトルもiは小文字にするというのも私が考えた。それから私は『LIFE』という雑誌が好きなんだけど、あれを真似て赤地に白抜きにしたし、文字の太さも同じようにした。だからすごく愛着はありますよ。だからそれでやらせてくれと頼んだのです。》 《別れるにしても11年間苦労してやってきたし、僕も最後じゃなくなっちゃったけど、最後の場を与えてもらった。だから鈴木さんに恩義は今でも感じているんです。だから少なくとも泥仕合はやめましょうと。そう言っていたにもかかわらずこういうことになって、非常に残念なんです。》

 ワック社側の訴えはこうです。

①まず、際限ない増ページについて。『WiLL』は特別号を除いて256ページが適正頁ですが(最初は240ページ)その後、増ページが常態化しピーク時には334ページに膨らみました。およそ100ページ増です。当然印刷費、用紙代はもとより、原稿料等も嵩み雑誌の収益を圧迫したのです。金額にすると年間約三千万円以上の損失になりました。編集の内容でみれば、本来の『WiLL』にそぐわないエンターテイメント系の連載が増えつづけました(AV監督の人生相談、爆笑問題の対談、等々)。

②編集経費について。年間、千五、六百万円をほぼ花田氏が一人で費消していたので、削減を申し入れました。しかしながらこれもまた聞き入れられませんでした。媒体の性質にもよりますし、花田氏は役員でもあるのでプラスアルファ分をみてもその二分の一が小社の適正範囲と考えます。

③他業と本業とのバランスを欠く。花田氏はWeb番組のレギュラー番組二本、紙媒体のレギュラー連載数本を持ち社外で活躍していますが、ここにきて社でその姿を見かける機会が減り簡単な打ち合わせにも不便を感じさせるほどでした。まったく報告のない週もありました。社長ならずとも本来の社業は大丈夫かと思わせるほどでした。

 月刊『Hanada』の発刊に至った背景には、月刊『WiLL』の編集方針や理念に対する不満が一因とされています。特に、政治的な立場や報道のアプローチに関する違いがきっかけとなったと言われています。月刊『Hanada』は、これまでの月刊『WiLL』とは異なる視点での記事や特集を取り上げ、独自の編集方針を貫いてきました。この新しい雑誌は、より多様な読者層をターゲットにし、内容的にもより広範囲な社会問題を扱っています。

 当時「ワックとは編集方針の違いがあった」とコメントしていましたが、「編集方針の違いなんてないんですが、あの時はそう言わざるをえなかった」というのです。改めて聞くと花田さんはこう答えました。「鈴木さんと路線の対立は全くないですよ。両方ともちょっと右寄りですから」月刊『Hanada』は、『月刊WiLL』と同じく政治や社会的なテーマを扱う雑誌ですが、その発刊にはいくつかの背景があります。『月刊WiLL』は長い間、保守的な立場からの発信をしてきましたが、その運営方針や編集方針が変更された時期に、『Hanada』が登場しました。『月刊WiLL』から月刊『Hanada』に関わる編集者やライターが移った経緯については、当時の編集方針の違いや、編集者間の意見の食い違いが関係しているとされています。しかし、「喧嘩別れ」という表現が使われることが多い理由には、編集部内での意見対立や方向性の違いがあったからとも言われています。

 花田さんが生涯で一番好きな雑誌が、アメリカのグラフ誌『LIFE』で、この題字が“赤に白抜き”です。彼が『WiLL』を創刊した時に、その題字を赤に白抜きにしたのは、『LIFE』をオマージュしたものでした。また赤枠で囲んだのは、『TIME』誌へのオマージュでした。

 この分裂騒動の際に、故・渡部昇一先生の自宅に「『WiLL』は飛鳥新社に編集部ごと版元を移すことになりました。つきましては、今後は飛鳥新社『WiLL』の編集部へ……」というファックスが送られてきました。これは一体どういうことでしょう、という連絡が渡部先生からワック社に入ります。このようなファックスが今までの執筆者や関係者多数に送られていたのでした。鈴木社長「有り体に申し上げれば『WiLL』を丸ごと持っていきたいのでしょう。それができると考えている。当たり前ですが、『WiLL』は弊社の商品です。自分が壮観編集長として立ち上げた雑誌であることはわかりますが、私物ではありません。ただカリスマ性のある編集長でしたので、そのようなことができるのかと信じた方もおられるかもしれません。移籍さきの会社も信じておられたのか、『WiLL』編集部の座席表や方名刺まで作っているのです」と事情を説明されました。その後、トーハン日販の取次会社に対して『WiLL』という雑誌名を申請までされ、さすがに弁護士に依頼し対応が取られることになりました。渡部先生は、「こんなことが出版界で許されるべきではありませんね。その雑誌にはもう書きません」と宣言されました(実際に渡部先生はその後『WiLL』のみに執筆されました)。「花田さんは、『WiLL』は自分がつくったと言っているそうですね。私は創刊の準備段階から知っていますから、そんなことはありませんね。鈴木さんが、こういうコンセプトの雑誌をつくりたいとおっしゃたし、私は鈴木さんがつくったと思っています。雑誌の編集長をやったから、それはオレのもの、なんて誰も言わないですよ。それにしてもいろいろ言われたそうですね」(病気でおかしくなったとか、女性問題があるとか、社内で怒鳴り、暗い雰囲気になるとか、『WiLL』花田氏にタダであげると言ったとか)とおっしゃいました。「晩節は矩をこえずが一番なんですが」と才を惜しんでおられました。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

さだまさし「母標」

     母標

          作詩・作曲 さだまさし

彼女は息子のために石ころを積み上げて
祭壇を作り赤い花を植えた
昔花畑だったが今は何もなく
墓標がいくつも雨に霞んでいる
三年が過ぎても戦は町から去りもせず
今日もドローンが群れをなして東へ飛ぶ
あのひとのキャビアがテーブルにこぼれた頃
町外れで彼女の息子は死んだ

名もない兵士なんてひとりも無いけれど
名もない一人の兵士として消えた
アンダンテ・カンタービレが聞こえていたらしい
戦場は日暮れ間近だったそうだ
ひざまずく石の下には何一つないけれど
彼は彼女の祈りの中に棲んでいる
誕生祝いの時計一つ残さなかったけど
彼は母の祈りの中で生きている

彼女は若い頃に子供を授かった
幸せな日が無かったわけじゃない
彼女の好きなカヴァレリア・ルスティカーナが聞こえる
ただ彼女の耳にはもう音が無い
しあわせがずっと続くなんて思わなかったけど
不幸ばかりがずっと続くはずもない
ひざまずく石の下には何もないけれど
彼は母の祈りの中に棲んでいる
ひざまずく石の下には何もないけれど
彼は確かにそこに居る

 2022年2月24日に始まったロシアによる一方的なウクライナ侵攻からもう3年が過ぎていますが、未だに戦禍は激しく停戦の兆しも見えません。このロシアとウクライナの戦争を歌った反戦歌です。さだまさしさんの最も新しいアルバム『生命の樹』(写真上)の中の9曲目に入っている「母標」(ぼひょう)です。嶋村英二さんのドラム、木村“キムチ”誠さんのパーカッションに、さださんのギターだけで凄惨な戦場を表現しているのが印象的な曲です。迫り来る迫力・力強さも感じます。今年の 「夏長崎から2025」でもドラムとギターだけで歌われました。アルバムのライナー・ノーツには興味深い記述がありました。

 戦死者の中には何一つ残せないひとも多い。だから墓標の下には遺品の一つも無い。それでも泣きながら弔う親にとってそれは立派な墓なのだと思う。かつて新井満さんはナバホ族の詩を訳した「千の風になって」という名曲で「そこに私はいません」と歌った。素晴らしい歌だが一つだけ僕の考えとは違う。僕は何もないそのお墓に「私は居る」と思っているのだ。悲しみ、弔うひとの心の中にきっとその魂は棲んでいると思っているからだ。  ――アルバム『生命の樹』 「母標」ライナーノーツより

 自分はこういうことを一度も考えたこともなかったので、ハッとしました。戦争や災害で、ひょっとしたら亡骸もなく遺品もないような悲惨な状態だとして、遺族の気持ちとしては何らかの形でその人が生きていた証を作ることが拠り所になります。そういう意味で「お墓」が弔う人には大切なものだというのは理解できますし、石ころの下には何もないけれど、間違いなく母の心の中にはそこに彼がいると語る、この歌は心を揺さぶります。この母がもし自分だったら、と思うと胸が痛みます。きっと、そうせざるを得ないことは想像することができます。被爆地・長崎に生まれ育ち、全国の被災地をあちこち救援活動に回ったことなどから、さださんなりの死生観があると思います。今は外国での悲惨な戦争のニュースが連日報じられているからこそ、そして人として、親族を亡くして悲しむ人に寄り添う気持ちがあるからこそ、このようなテーマの「母標」という歌が生まれたのでしょう。これは実にいい歌です。

 さださんには、戦争をテーマにした歌も多く、パッと思いつくだけでも、「防人の詩」「遙かなるクリスマス」「広島の空」「キーウから遠く離れて」などが挙げられますが、コンサート会場では来場者に向けて、「音楽はすべて反戦歌である。私は音楽家だから、音楽家の武器は音楽だけ。大切な人を守る方法はただ一つ、戦争をしないことだ」と語りかけています。「人間の心に浄化作用がある限り、必ず浄化される。我々が願う良い方向に、いつか向く日が来ると信じなくてはダメだと思う。」

 20年間も続いた「夏長崎から」では、常に「このコンサートが終わるまでの間に、ほんの僅かな時間でよいから、あなたの一番大切な人の笑顔を思い浮かべて欲しい。そうしてその笑顔を護るために自分に何ができるだろうか、ということを考えて欲しい。実はそれが平和へのあなた自身の第一歩なのです。」と訴え続け、今年の「夏長崎から2025」では、「そして、自分が何をなすべきかが分かったら、そこへ向かって歩きだそうじゃないですか」と付け加えたさださんです。分断と対立が続く今日の世界の中、自然と言葉に力がこもりました。♥♥♥

 

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

やっぱりラーメンは「太平楽」!

◎週末はグルメ情報!!今週はラーメン

 松江駅南口にある大好きなケーキ屋さん「Ciistand」に電動自転車で向かっていると、途中にあるラーメン屋「太平楽」が珍しく「営業中」ということに気が付きました。久しぶりに早速入ってみます。松江市では老舗中の老舗で、いつ行っても超満員です。カウンター5席と3つのテーブル席だけというとても狭いお店で、テーブル席もコロナ禍時代のような「×」印で座れない椅子もあります。営業日も月・木・金の週のうち3日間のみですから、よほど運がよくないと食べることはできません。スープがなくなり次第店じまいをされます。歌手のあの一青 窈(ひととよう)さんが訪れた際に、「スープがない」と断わられたというエピソード(コンサート談話)のあるお店です。

 厨房では年配の方が2人で切り盛りしておられます。中は、いたってレトロな雰囲気。テーブル席は相席が原則。左端のカウンターを見てください。ラーメンの鉢が置けるか置けないかという狭さです。一瞬目を疑いますがイスがあるので、きっと満席の時にはこのイスがあの狭さでも活躍するのでしょう。何度も修復されている年代物のイスが目立ち、長い歴史を感じさせます。開店直後から満席のお客さんは、ほとんどが地元の常連さんたちばかりです。

 メニューはたったの3種類だけです。「ラーメン」「大盛」「特大盛」の3種類のみ。この時代、す~麺でもなくチャーシューや具材が乗っているのに、普通盛りで450円という破格のお値段。今時こんな値段でラーメンが食べられるお店を私は知りません(ただ最近訪れた境港「黄金」(こがね)が450円でした!このラーメンが堪らなく美味しかった)。時代とともに金額が吊り上がっているにもかかわらず、まだ時代に追い付いていないような安さです。私は普通の「ラーメン」(450円)を注文します。テーブルには大きな白こしょう(S&B)が置いてあるのでお好みでひと振り。ピリッとした香りと出汁が重なり合うのがオールドスタイルにピッタリはまります。スープは濃いめのしょうゆ風味。クセのない豚骨清湯出汁に香ばしい醤油の香りと塩分、そしてガツンとしたうま味。いつもどおりにシンプルですがガツンと旨味が伝わる中毒性の高い味わいです。常連さんにはこれがたまらない一杯なんですね。「松江クラシック」の中でも、うま味が脳天に突き刺さるのは他にはありません。これが今でも多くの松江人を虜にする伝統の味ですね。麺は中隆製麺の「太平楽」スペシャルの中加水中太縮れ麺に、脂味の少ないチャーシューもほどよいホロホロ感で味わい深いです。トッピングはチューシュー、メンマ、モヤシ、青ネギのみでいたってシンプル。レンゲはないので直接どんぶりからスープをすすります。メンマはめちゃくちゃ柔らかいです。一見量が少ないように思われますが、意外とお腹いっぱいになります。松江の代表的な「中華そば」の味、懐かしい味って感じです。開店時間の午前10時過ぎから常に満席で昼までには売れ切れ閉店となるのでご注意を。松江市民に非常に人気のお店であることと、営業日が限られていること(月・木・金)、そして午前中でほぼ閉店となってしまうことから、ラーメンをこよなく愛する人々からは、「幻のラーメン」とも呼ばれています。

▲太平楽の「ラーメン」

 店内は相変わらず地元のお客さんが多いですね。女性も含めて、ほとんどのお客さんが「大盛」「特大盛」をオーダーしておられます。私は普通盛で十分お腹いっぱいになります。私が大好きな広島「つばめ」「陽気」と同系の「中華そば」です。いつまでも長く続いて欲しい老舗名店です。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

細坪基佳さん

 スカパーの「ミュージックエア」で、「おんがく白書」というシリーズ音楽番組をやっています。1960年~1970年代にデビューし、現在でも活動を続けているベテラン音楽家を毎回1組取り上げて、インタビュー&最新ライブを紹介するドキュメンタリー番組です。最近、私の好きな元・「ふきのとう」細坪基佳(ほそつぼもとよし)さんが登場したので観ました。横浜赤レンガ倉庫で収録された最新ライブ、ふきのとう時代のヒット曲「白い冬」「春雷」から、ソロ時代の名曲まで聞くことができました。音楽との出会い、ふきのとう」のデビュー時代から解散、そしてソロ活動まで本人自ら語りおろしたロング・インタビューと合わせて楽しみました。「ふきのとう」は、共に北海道出身の山木康世さん(同じ大学の2年先輩)と細坪基佳さんの2人組で、1974年のデビュー曲「白い冬」がヒットしました。デモテープを作った段階で、CBSソニーがシングル用に提示してきた3曲の1つが「白い冬」でした。自分たちとしては別の曲(「夕暮れの街」)に自信があったのですが、当時さだまさしさんたちグレープ「精霊流し」がヒットしていたので、それとは別の路線でロックっぽい「白い冬」を売り出すのがレコード会社の戦略だったのでした。編曲は中島みゆきさんの曲を担当した瀬尾一三さん、ギター演奏は石川鷹彦さんと超豪華な録音布陣です。とても緊張したと言います。1992年に解散するまでの18年間で「雨降り道玄坂」、「風来坊」、「春雷」など記憶に残る素敵なメロディーを世に送り出しました。私は細坪さんのハイトーンボイスと曲のメロディーが大好きで、若い頃にはよく聴いていました。この番組の画像が公開されています。

 ふきのとう」として活躍した細坪基佳さんが、昨年デビュー45周年を迎えました。ふきのとうとして18年間、その後はソロのシンガー・ソングライターとして、昭和・平成・令和と時代を越え、多くの人々にその歌声を届けてきました。昔から変わらない温かみのあるメロディーから、疾走感のあるロックチューンまでさまざまな楽曲を歌っておられます。その多彩な楽曲に、ふきのとう」時代から定評のあるハイトーンボイスが冴えわたり、年齢を重ねて、肉体の衰えとのギャップに苦しむアーティストが多い中、デビュー時よりも力強さを増した、つややかで張りのある歌声を聴かせてくれました。 

細坪基佳

 今から45年前の1974年、札幌のライブハウスでアマチュアで歌っていたところ、細坪さんの元に、東京のレコード会社のスタッフが現れ、その誘いを受け、軽い気持ちで上京しました。9月にはふきのとうとしてデビューし、「白い冬」「風来坊」「春雷」「やさしさとして想い出として」などのヒット曲を次々と発表していく中、1984年に行った日比谷野外大音楽堂でのコンサートには、定員をはるかに上回る数万人の応募があるほど大人気を博し、1986年には日本武道館でコンサートを開催。1992年に解散するまでの18年間、日本の音楽史に大きな影響を与えてきました。そんな細坪さんに歌手人生の大きなポイントを挙げてもらうと、ふきのとう」解散後ソロで活動し始めた頃を挙げてくれました。

 歌手としてデビューして、それが仕事になってくると、当然のどに負担がかかってくる。若いころはそれを無理やり力でねじふせて、声を出していた時期もありました。声出なくても、リハーサルやれば大丈夫だったし、またそれで酒飲んで、大声出して盛り上がって(笑)。朝になって『声出ないなー』って思っても、またリハやって声出して…って生活を繰り返していて。でも、そのうちだんだん治りが遅くなっていくし、どうも自分の描いた歌い方と違うし。グループを離れソロになってみるとそれが顕著になってきて、のどを痛めて声が出なくなる時期があったんです、その時に初めてその後(歌手として活動)できなくなる可能性があると思ったんです。それで自分ののどに対して意識を持ったんです。『お前(のど)のおかげで俺は(歌手として)生きているんだ』って。それが、酒だタバコだ、夜更かしだって、何をやっているんだという話ですよ(笑)。活動始めて20年くらいたってからかな……。遅すぎますよね。

 歌手として長く歌っていきたいという思いは、のどのケアだけではなく、自身の表現方法にも大きな変化をもたらしています。

 のどへの意識が変わると同時に、歌声の表現や発声にもより意識がいくようになったんです。まず、周りから私のハイトーンを褒められる機会が多いんだけど、もっと深みを出すために、低音を磨くことにしたんです。例えばAメロってサビに向かうメロディーだから、低く歌って、サビでスコーンと突き抜ける曲が多い。それまでは、『自分の売りはハイトーンだから、サビでスコーンと掴めばいい。この辺(Aメロ)はどうでもいいや』って思いがどっかであったかもしれない。でもそのAメロを低音できちんと聴かせられると、サビで今まで以上に『おっ』と思わせることができる。世界が広がったんですね。そのことに気付いてからは、表現がより面白くなったんだよね。今まで歌ってきた歌も、違うアプローチで表現してみたら面白かったり。それまでトレーニングとかケア、研究的なことをやってこなかったのが、急にやり始めて歌ってみると違う世界が見えてきて、表現の幅を広がりましたね。より音楽にのめり込みました。

 僕を応援してくれるファンの皆さんは、僕と同年代が多い。歌い始めたころは、みんな少年少女だったけど、今はもう70歳近く(笑)。地方に行って僕が歌うのであればまだ来られると思うんですけど、野音に全員集合っていうと今の年齢がギリギリだと思ったんです。元気なうちに『今までここまでやってきたな俺たち』と振り返ると同時に、ここからもう一歩なにか踏み出すきっかけにもしてほしい。だから誤解を恐れずに言えば、僕のことを知らない若い人たちに訴えていこうという気はあまりないんです。老人たちの希望になってやるって思っています(笑)。音楽を通して、共通の思いを抱いて生きてきたファンの方々が全国にいらっしゃると思います。そういう方々と一緒にお祭りをやって、また明日に向かってそれぞれの道へ散っていく。そういうイベントにしたいと思います。自分でもワクワク、ドキドキしています。でも心配はしていない。なぜなら、失敗しても言わなきゃわからないってことを45年間で学んできたから(笑)。会場で会えるのを楽しみにしています。

 (45年間の集大成とも言えるこのライブが終わった後)僕はどうなるのかわからない。終えてみて、『よし、次』というモードになるのか、『ここらで一息入れるか』となるのか。ただ、今は目の前の野音に全力で臨みたい。

 私の大好きな曲「春雷」(しゅんらい)は、メンバーの山木康世さんの実母が病に倒れ、病気回復の願いを込めて制作された曲です。当初は男女の別れをテーマにした歌詞でしたが、マネージャーが「メロディーは文句なし。でも詞はこれじゃない」と却下されました。当時の山木さんは、実母がガンで死期が迫っていることに頭がいっぱいであり、歌で恩返ししたいという意味合いを込めて、現在の歌詞になりました。私は詞の至る所に母を思う気持ちを感じています(下線は八幡)。下のコンサート画像は、私の大好きな「春雷」からデビュー曲の「白い冬」に歌い継ぎます。1992年の解散コンサートの一場面です。♥♥♥

    春雷        作詞・作曲 山木康世

突然の雷が  酔心地 春の宵に
このままじゃ夜明けまで野ざらし  ずぶ濡れ
春の雷に  白い花が散り
桜花吹雪  風に消えてゆく

過ぎた日を懐かしみ  肩組んで涙ぐんで
別れたあいつは 今 寒くないだろうか
春の雷に  帰るあてもなく
桜花吹雪  家路たどるふり

声なき花の姿 人は何を思うだろう
まして散りゆく姿  この世の運命を
春の雷に散るな  今すぐに
桜花吹雪  命つづくまで

春の雷に散るな  今すぐに
桜花吹雪  命つづくまで

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

バカになる

 数学のノーベル賞と言われる「フィールズ賞」を受賞した広中平祐(ひろなかへいすけ)さんという偉大な数学者がおられます。フィールズ賞を獲ったくらいですから、数学界のたいへんな権威です。ある時、広中さんは、今までに誰も解いたことがない難しい問題に挑戦していたそうです。数学者というのは、それこそ一か月も二か月も三か月も、こうではないか、ああではないかと、一つの問題について真剣に考え続けるのだといいます。広中さんも何か月もその問題について考えに考え抜きましたが、なかなか解答に到達することができませんでした。そしてある時、同僚から一本の電話が入ります。「ドイツのだれだれという若い学者が、その問題を解いたみたいだよ」同僚も数学者ですから、解き方のアプローチを広中さんに説明しました。広中さんも一瞬にして、その解き方が正解だと分かったそうです。「そうだったのか。それか!!」何か月も、四六時中、この問題のことを考え続けていただけに、広中さんは悔しくて悔しくて、一晩中眠れなかったと言います。実は広中さんも、かつてその方法に近づいたことがあったのですが、何かのきっかけで、そのアプローチはやめて他の方法に行ってしまっていました。だからこそ悔しさは人一倍だったのです。でもそれを引きずってばかりはいられません。そこで広中さんは最後にこう思った、と言っていました。「自分はバカだから、あの命題が解けなかったんだ。だからもっと勉強しようフィールズ賞までとった大家が、「自分はバカだ」と反省する。この謙虚さこそが、成功する人のすごさです。何かの分野で「一番」のお墨付きをもらった人が、「自分はバカだ」とやすやすと言えるでしょうか?でも、広中さんはそう思ったそうです。そして自分の考えが足りなかったことを素直に認めて、「もっと勉強しよう!」と、前向きに己の気持ちを切り換えたのです。

 もしこれが悔しさだけで終わっていたらどうでしょうか。「ドイツの若造が自分を出し抜き、あの命題を解いたなんて許せん!」と悔しがっていただけでは、それ以上前に進むことはできません。悔しさや反発心だけでは、大きな成長は生まれないのです。もちろん悔しいと思ったり、「何くそ」と反発したりするのは決して悪いことではありませんが、それだけでは限界があります。悔しさや劣等感をバネにして、それをエネルギーにしている人は、バネの分しか伸びません。バネは縮んだ分しか伸びることはないからです。広中さんが悔しさだけをバネにして、「ドイツ人のあの若い数学者を負かしてやろう」と思っていたら、ドイツ人学者のレベルまでしかいけないのです。でもそれ以上伸びたいと思ったら、悔しさをバネにするのではなく、謙虚に省みて自分が足りないことを認め、どこをどう補えばいいかを反省しなければいけません。そして次へのステップにするのです。「自分はバカだ」と言えるのは、謙虚さの証です。謙虚だからこそ、自分の足りないところが分かる。自分はまだまだ至らないところがある、と思えるから、「自分はバカだ」と言えるのです。

 広中さんのようなフィールズ賞をとったほどの第一人者であっても、「自分をバカだ」とおっしゃる。何年同じ仕事に就いていようが、年齢を重ねていようが、どんな立場になろうが、謙虚に「自分はバカだ」と思えるかどうかです。さらに広中さんがすごいのは、何か月もずっと、一つの問題について考え続けたことです。そして問題解決の先を越されたと知って、悔しくて眠れなかった。これは見方によっては、「数学バカ」なのかもしれません。でも、この驚異的なまでの対象への取り組みが、広中さんを数学の権威者にしたゆえんであると思えてならないのです。バカになれる人は、バカではない。バカになれることは実に素晴らしいことなのです。

 漫画家の赤塚不二夫(あかつかふじお)さんがこんなことを言っておられました。

 「自分をバカだと思え。」そう思えば、自分の知らないことでも、人に聞くことも教えてもらうこともできます。いわゆるエリートは、これができない。新人なのにヒットやホームランばかり狙う。犠牲バントもできないのに。

 あのウォルト・ディズニーも言っています。「正直に自分の無知を認めることが大切だ。そうすれば、必ず熱心に教えてくれる人が現れる。」♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

恐ろしや、AI時代

 受験生に英作文の指導をしていて、普通名詞を裸で使うミスを犯す生徒が多いので、私は「名詞にはパンツをはかせてやってちょうだい」と言います。「パンツ」には3種類あって、「a(n)」「the」「~s」の3つです。「ノーパンは絶対にダメ!」と〔笑〕。そうしたら女生徒がやってきて、aはなぜ次に来る語が母音で始まる時にはanになるのですか?という疑問があると言います。なぜだと思う?と聞き返します。ヒントは、「a⇒an」それとも「an⇒a」?だよ、と付け加えておきました。すると彼女は「ChatGPTに聞けば何でも解決する」と言います。じゃあやってみてごらん、と言ってその場を収めました。「もしそうなら来週から僕が来る必要はなくなるね」と付け加えて〔笑〕。次の週にやって来て、ChatGPTの検索結果を報告してくれました。やはりまだまだですね。以前、松江北高でこの問題を「英語のなぜ?」という「学問探究講座」で扱った時の私の解説記事(one→an→a)を渡して解決しました。

 私が若い頃と違って、インターネットが普及して何でも調べることができるようになりました。先日、プロ野球の「ドラフト会議」で、有力投手が複数球団の指名となり抽選になった時、ロッテのサブロー新監督は前日にChatGPTに相談したところ、「上のくじを取るように」とのアドバイスをされそれを実行したところ当たりくじを引いた、という新聞記事を読みました〔笑〕。英作文も簡単にインターネットの翻訳ソフトを使えば、簡単に解答ができる時代になりました。先週もテキストの『システム英作文』(桐原書店)で今やっている12課「否定」の問題の一つで、「台所は、アメリカの歴史のなかでは必ずしも自慢すべきところではなかった」(大分大学)という問題を取り上げて、これは一体どういうことなんだろう?と疑問を呈しました。生徒たちは「女性差別」「奴隷」といったキーワードを挙げて考えているようでした。私もかつてはそうでした。「実は自分もこれが一体どういうことか分からずに、原典にあたってみようと苦労して赤本を学部別に10年分以上調べたんだけれど、結局出て来ずに分からなかった。あきらめかけようとした時に偶然この文章を見つけて解決した。みんなはChatGPTなどのAIを使えば何でも分かると言うから、どんな解答が返ってくるか自分で調べてごらん。僕はこの件の苦労話を「チーム八ちゃん」のブログに数年前󠄂に書いたけれど、このブログの過去の記事を一つ一つ遡るような暇人はいないだろうから。」と宿題にしておいたんです。すると次の時間には、みんな私の該当のブログ記事を読んで解決していました。ちなみにChatGPTでは不十分な解答でした。「どうやって?」と聞くと、「台所」「チーム八ちゃん」などのキーワードをスマホに入力したら、該当記事が出てくるんだそうです。私があれだけ苦労して調べた事柄がこんなに簡単に調べることができる時代になっているんですね(⇒「台所」に関する私の該当記事はコチラです)。恐ろしや、インターネット&AI時代

 最近では、生徒はChatGPTを利用して大学入試の「志望理由書」を作成する、という話を聞きました。ユーザーからの質問や指示に対して、自動で回答や文章を生成するAI(artificial intelligence)サービスを利用するのです。与えられた情報に基づいて一貫性のある文章を生成することができるんだそうです。この機能を使って、個人の経験やスキルを反映させた志望動機の作成に有効活用することができます。生成した文章をそのまま写すとバレバレですから、丸写しではなく自分自身の言葉で置き換えて、それをベースにして自分の言葉で再構築すれば立派な文章が出来上がります。恐ろしい時代ですね。

 インターネットに関していえば、これが出現してから、「論文の書き方」も変わってきました。論文の下書き原稿さえも作ることのできる時代です。また、英文科の論文に参考文献をいくら付けても意味がなくなってきました。以前は、論文末尾にある参考文献を見ただけで、この人は本をよく知っていてよく調べているな、勉強しているな、とある程度は判断することができたものです。しかし最近では、どんなに文献が列挙してあっても、それがそのまま、その研究者が本をよく知っていて、実際に手に取って読んでいるという保証にはならないのです。そのような情報は、インターネットでいくらでも引き出すことができる時代だからです。また、インターネットが出現したことで、ますますはっきりしたこともあります。つまり参考文献の列挙が無意味化したことによって、結局、その論文で言いたいことは何なのか、何を証明したいのかという論理の骨格に、より焦点が当てられるようになったと言えるでしょう。ですから、かえって純粋なものが見えるようになった、という印象を受けます。このことは、喩えてみれば写真と絵画の関係とよく似ています。写真機が発明される以前は、絵画にとって「対象を正確に写す」ことが使命の中心でした。ところが、写真機ができると、「正確に写す」ことは必ずしも絵画の一番重要な仕事ではなくなってきました。写真が出現した以後の絵画の世界は印象派へと向かいます。画家がどういう印象を頭の中にとどめたか、それを見せることが絵画の存在理由になっていったのです。鳥の羽根一本にいたるまで正確に描くというのは、写真機の仕事になりました。ですから、写真の出現によって近代絵画、特に印象派が始まったのと同様に、ある意味では、インターネットによって本当の人文系らしい論文の時代に入るのではないか、というのが尊敬する故・渡部昇一先生のお考えでした。短くきっちりとした主張と論拠が求められ、以前のように参考文献をいくら積み上げても、それには意味がなくなったのですから。

 いくらインターネット万能時代と言えども、誤った情報があふれているというのも事実ですから、注意が必要です。かつて、故・渡部昇一先生ウィキペディアの記述は誤りだらけであったことを、ご本人の先生自身が書いておられました。ここ数年「共通テスト」の問題に、「事実」「意見」を識別する設問が出題されるようになった背景は、ここら辺にあると八幡は見ています。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする

やはりミスで負けた!

 ちょっと話は遡りますが、巨人のDeNAベイスターズとのクライマックスシリーズ第2戦。「すげえ、試合だったな…。勝たせてあげたかった。本当に総力戦の素晴らしい試合だった。敗戦の責任は俺にある。選手は必死にやってくれた」 「野球って恐ろしいな」阿部慎之介監督)としみじみ。初回いきなり5点を先制するという巨人にしては初めての猛攻に、これで第3戦に持ち込めるな、と安堵したのもつかのま、先発の戸郷が直後に2本のホームランを打たれ5点を返されて同点となりました。今年の戸郷はいかにも自信がなさそうに投げていて、ここ数試合も全部初回に失点していました。もうこの時点で負けたなとの予感がありました。やはり今年は開幕投手・戸郷のKOで幕を開け、戸郷のKOで終戦となりました。この日は4回から必死の継投策でしのぎ、同点の7回途中には大勢、8回途中のピンチにはなんと守護神のマルティネスを投入してまで、共に回またぎで助け合いながら絶体絶命のピンチをしのいでいました。引き分けも許されない中で、11回に1点を勝ち越し。しかしその裏、回またぎとなった田中瑛がツーアウトランナー無しから4連打でサヨナラ逆転されてジ・エンド。終了時点で残る投手は宮原だけという総動員体制でした。あと一人アウトを取ればよかったのに。

 延長11回裏。6-5と巨人が1点リードし、あと1人を抑えれば勝利という場面でした。阿部監督は8番手の田中瑛斗を続投させました。田中の被打率を見てみると、対右2割3分6厘、対左2割7分8厘。11回の先頭打者、牧秀悟と次の山本祐大は右打者で、これをどちらも内野ゴロに打ち取っています。DeNAは代打・度会隆輝を打席に送りました。度会はシーズンの対左打率1割9分4厘と苦手傾向があり、回またぎで疲れの見えている田中に代えてここで、ワンポイントで唯一残っていた左投手の宮原を投入していれば、まだ抑えていた可能性がありました。故・野村監督なら絶対に手を打っていたと思います。ベテランの長野を最後に登録した影響で、巨人はDeNAよりも投手枠が1人少ない布陣となり、延長戦で投手継投の余力を失っていました。長野は出場機会のないままシリーズを終え、これが「思い出起用」「その1枠が命取りに」との評価がSNS上で出るのは致し方のないところかもしれません。

 DeNAは主砲オースティンのほか、宮﨑敏郎ビシエドといった主力選手を欠きながらも、筒香の復活や若手が奮起しました。林蒼汰度会らが粘り強くつなぎ、蝦名が試合を決めました。相手打線の穴を突けなかった巨人との差が、短期決戦の明暗を分けた格好です。とにかく初戦同様DeNAはよく打ちました。打線の差ですね。

 ただこの日も、大きなミスを巨人は幾つも犯していることを忘れてはなりません。先発の戸郷の大乱調。リチャードは8回無死一塁からの大勢の速い牽制球を後にスルーしてしまいました。記録は大勢の悪送球となっていますが、気を抜いていたリチャードのボーンヘッドです。1点を勝ち越した直後一死満塁の場面で、若林はカウント1-2からワンバウンドする低めのチェンジアップを気のない空振り三振。ここで食らいついていれば、もう数点取れていた場面でした。前日にホームランを打っていたのでそのまま行かせたのでしょうが、代打・長野もありでした。取れる所で取っておかないから、その裏の劇的なサヨナラ逆転劇へとつながっていきました。回またぎとなった田中瑛も2死一塁から、一塁走者をノーマークにして楽々盗塁されてしまいました。注意不足です。故・野村監督「負けに不思議の負けなし」と喝破しましたが、まさに今年の巨人軍はその通りの展開ばかりでした。リーグ優勝した昨年の失策はリーグ最少の58失策と鉄壁の守りでした。それが今年はリーグワーストの78失策。これだけではなく記録に残らないミスも沢山見ました(特に外野手)。走者二塁から単打で本塁を狙った暴走気味の走者をアウトにできず、みすみす生還を許す場面がほとんどでした(完全に肩をなめられています)。反面、巨人の走者はヒットが出ても一つずつしか進むことができない走塁が目立ちました。盗塁数も無様。足が遅いのに加えて、リード面や打球判断のミスがほとんどでした。バントの成功率(7割2分5厘)はリーグワースト。投手陣は無駄な四球から崩れていきました。明らかに練習不足でしょう。ミスしたら必ず負けます。「負けに不思議の負けなし」の格言が身に染みた2025年シーズンでした。「自分自身も何が足りなくて勝てなかったのか、課題として自問自答したい。選手にも同じことを言った。大きな糧として来年にぶつけてほしい」阿部監督)。

 実は「受験」も同じで、ミスをしたら負けます。先日、志学館を訪ねて話をしてくれた卒業生がいろいろと語ってくれた言葉の中で八幡が最も印象深かったのは、「自分が陥っていた誤り」についてでした。難しい問題が解けることが力をつけることだと思って、簡単な問題をすっ飛ばして難しい問題ばかりをやっていたが、それは自分の大きな過ちだったとして、みんなができる基本的な問題をいかにきちんと間違えずに解けることが本当の力だと実感している。みなさんにはそんな過ちを繰り返さないでもらいたい、という言葉でした。八幡がいつも口を酸っぱくして言っている基礎・基本の大切さですね。「当たり前のことをバカになってちゃんとやる(ABC)」です。誰も解けないような難問で差がつくのではありません。誰もが解けるような基本的な問題をミスした人が負けるのです。『蛍雪時代』10月号(旺文社)には「1点が合否を分けるのリアル」として、1点の間に多くの受験者がひしめきあう実態が特集されていました。合否の分かれ目は、1点以下です。科目間の得点調整や部分点の加算があれば、わずか0.1点で明暗が分かれることもあります。合格者と不合格者は、実は紙一重なんだということを、これまで山ほど見てきました。♠♠♠

カテゴリー: 日々の日記 | コメントする