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プロフィール
八幡成人(やわたしげと)
1955年島根県安来市生まれ。英語教師として島根県公立高等学校に38年間にわたり勤務。2015年3月、島根県立松江北高等学校に10年間勤務したのを最後に退職。在任中は、朝は6時半に登校し、図書館で生徒と一緒に勉強に励む。『ライトハウス英和辞典』『ルミナス英和辞典』(研究社)の編集委員を務める。参考書、問題集など著書・論文多数。趣味はカードマジック・クロースアップマジック。自宅の「蔵」には世界中から収集したマジック・グッズ(特にカード)が多数眠っている。小田和正、さだまさし、一青窈、岡村孝子、辛島美登里、西村由紀江、柴田淳、リチャード・クレーダーマンをこよなく愛する。「好きなことをやり、メシが食えて、人から感謝される」(竹内 均氏)職業として教師を選び、「英語は絶対に裏切らない!」を掲げ、英語・読書の面白さを生徒たちに毎日熱く語った。文房具マニア、プロレスファンでもある。2015年6月松江北高に常勤講師として現場復帰。2017年6月より松江北高非常勤講師。2019年4月より米子「勝田ヶ丘志学館」講師。2024年3月松江北高退職。
奈良公園のシカ
奈良は、日本の歴史と文化が脈々と受け継がれてきた伝統的な場所です。奈良公園での鹿との出会い、3つの世界文化遺産、そして豊かな自然が広がる南部や東部。かつて仏教が伝来し、芸術、伝統文化がここから生まれ、日本各地に広がっていきました。奈良を訪れ、さまざまな体験を通じて、過去から現在へのつながりを感じ取ることができます。私の大好きな街です。
奈良時代、春日大社の御祭神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、白い鹿に乗って御蓋山に降臨した社伝に由来します。以来、春日大社の周辺地域では、鹿が神様のお供でありお使いとして神聖視され、大切に扱われるようになり、人間と共生してきました。768年創建の春日大社(かすがたいしゃ)が「神の使い」として保護したことが起源とされます。明治以降は殺傷禁止区域が設定され、「奈良のシカ」として、国の天然記念物に指定されました。狩猟や開拓で鹿のすみかがどんどん減っていく中で、宗教的に保護された集団が独自性を保ったわけです。現在は奈良公園を中心に約1300頭の鹿が生息しており、1957年には天然記念物に指定されました。鹿苑で6月に子鹿公開、10月に鹿の角きりが行われます。角きりは江戸時代の1672年から鹿の角による事故を防ぐために行われている伝統行事です。奈良公園の鹿は野生動物であり、公園内に生えている植物(シバ、葉っぱ、どんぐりなど)を主食としています。日の出の頃に「泊まり場」から「採食場」へ移動して過ごし、夕方前になると「泊まり場」へ戻って反すうしながら休息をとるような暮らしをしています。
奈良公園の鹿の大好物のおやつの鹿せんべいは、消化しやすいように主に米ぬかと小麦粉で作られています。鹿の健康を考えて砂糖などは一切使用されていません。その歴史は古く、すでに江戸時代前期から存在していたと言われています。一束10枚で200円で購入でき、売り上げの一部は、鹿の保護費用に充てられています。鹿にはこの鹿せんべいを与え、それ以外の食べ物(お菓子、パン、野菜、残飯など)を与えてはいけません。鹿せんべい以外のものを食べると健康を害する恐れがあり、特に人が手に持っているビニール袋や紙(地図・パンフレット)の誤飲は危険です。鹿せんべいを与えるときは、じらしたりせずに、1枚ずつ躊躇せずに素早くあげましょう。鹿は目の前に鹿せんべいがあるのになかなかもらえないような場合、噛みついてきたりする危険性があります。鹿せんべいがなくなったら両手をパーのように開いて広げて「もう持っていないよ」と鹿に教えてあげましょう。鹿は野生動物です。無理に触ったり追いかけたりすると、鹿にストレスを与えるため、自然な距離感を保つことが大切です。特に求愛期(秋)や出産期(春~初夏)の鹿は気が立ちやすく、近づきすぎると攻撃的になることがあります。鹿を尊重しながら、安心・安全に魅力を感じてください。奈良公園内では、鹿が誤って飲み込まないようにゴミは必ず持ち帰り、周囲の環境を守ることを心がけることが必要です。また、興奮した鹿は急に動いたり攻撃的な行動をする場合があるため、小さな子どもが鹿に近づきすぎないよう保護者がしっかり見守ることも重要です。鹿と共存を楽しむためには、ルールとマナーを守ることが大切なんです。奈良公園では5月中旬~6月頃に、鹿が出産の時期を迎え、例年約200頭が誕生します。
さて奈良公園の鹿は、「鹿せんべい」を手に持っている人を見かけると、すごい勢いで近づいてきます。そして頭を上下に振り、鹿せんべいをくれと催促します。それがお辞儀をしているようだということで知られていますね。このお辞儀行動を丁寧な日本文化と結びつけて、海外からの観光客にはなかなかの人気です。これが実に可愛らしいんです。それが人気の一つでもあるのですが、その様子を見たいがために、集まってきた鹿に、鹿せんべいをなかなかあげないでじらしてしまい、その結果噛みつかれたりする理由の一つにもなっています。一枚の鹿せんべいでお辞儀をたくさん見たいがために、じらしたりすると、鹿が怒って体当たりをしたり、鹿せんべいごと手を噛んだりすることもあるのだそうです。鹿はなぜ、お辞儀をするのでしょうか?観察報告によれば、おじぎの回数が多い(速く振る)ほど「鹿せんべいをもらえる回数は多かった」といいます。さらに、鹿せんべいを見せると「ほとんどのシカがおじぎをした」が、せんべいを持っていない場合はほとんどの鹿が「おじぎをしなかった」とのこと。つまり、「おじぎすることが、せんべいをもらうのに有利な行動だ」ということが、鹿の間で学習された結果のようです。お母さんジカがお辞儀をしながら、観光客からせんべいをもらっているのをみた子ジカたちが、学習してそれを真似たのでしょう。鹿にとっては間違いなく「催促」の行動なんですが、それを受け取る人間側は「あいさつ」「感謝」などとズレた受け止め方をしているのかもしれませんね。♥♥♥
「夏長崎から2025」
コンサートの間、5分でいいから、あなたの大切な人の笑顔を思い出して欲しい。そして、その笑顔を守るために自分に何ができるかを考えませんか。――「夏 長崎~ さだまさし」で、さださんが伝え続けてきた言葉
シンガー・ソングライターのさだまさしさん(73歳)から、8月6日(水)に長崎市の稲佐山公園野外ステージで開催される無料コンサート「夏 長崎から2025」(午後5時~)のツアーの案内が届きました。「2025年。広島・長崎は被爆80年を迎えます。僕は再び長崎で歌う決心をしました」と。
2025年、広島・長崎は被爆80周年を迎えます。広島原爆の日に、もう一つの被爆地・長崎から、平和と生命の大切さを歌で届けるコンサートを19年ぶりに復活させます。戦後80年の節目で「体力的にもこれが最後」と決意しました。新しく発売になった50枚目のオリジナルアルバム「生命の樹~Tree of Life~」でも平和の尊さを歌いあげています。
さださんが、このコンセプトで無料コンサートを初めて開催したのは昭和62(1987)年8月6日のことでした。当時35歳だったさださんは、長崎市の市営松山ラグビー・サッカー場で野外コンサートを開きました。タイトルは「夏 長崎から さだまさし」。入場料は無料。「広島原爆の日に、長崎から広島に向かって歌う。それだけで伝わる人には伝わる」声高に「平和」を叫ぶことなく、集まった人々の心の中にある平和への想いを再確認する場にして欲しい、というさださんの思いです。彼は意識して「平和コンサート」という表現を避けて、「夏 長崎から」という名前にこだわりました。ステージ上からこう呼びかけます。「このコンサートが終わるまでの間に、ほんの僅かな時間でよいから、あなたの一番大切な人の笑顔を思い浮かべて欲しい。そうしてその笑顔を護るために自分に何ができるだろうか、ということを考えて欲しい。実はそれが平和へのあなた自身の第一歩なのです。」 それを入場料無料で始めたのです(当時彼は莫大な借金の返済に苦しんでいました)。それは、広島原爆忌の晩に長崎で歌うという「平和を願う場所」は誰でも来ることのできる場所であるべきだ、という彼の切なる思いです。「500円でも1,000円でも料金が発生すると、子供たちは家で留守番になるでしょうが、無料なら家族連れで夕涼みがてら出掛けようという気になる。家族そろって音楽を聴く。これこそがまさに平和の姿だと思います」と無料開催の意義を語りました。毎年、この言葉だけを観客に伝えてきました。そこに政治的な意図はありません。ただ歌を届けよう。これに共感し、第1回に村下孝蔵、来生たかお、翌年には松山千春が出演。第3回から元号は平成に替わり、谷村新司、都はるみ、小田和正、泉谷しげる、加山雄三ら、毎年大物アーティストらが続々出演してきました。さださんいわく「フェスの元祖」、長崎の「夏の風物詩」として定着しましたが、このイベントはたくさんの人に支えられて20年も続きました。私も毎年夏訪れています。
ところが、一部の心ない人たちの間では「売名行為」「ただとは何か別の意図があるのではないか?」「長崎県知事になるための事前運動だろう」「いや長崎市長を狙っているらしいぞ」と心ない言葉が飛び交いました。当時、舞台制作費、交通費、宿泊費、スタッフ費用に1回に3,000万円ほどかかりました。映画「長江」製作の借金返済で苦しんでいた当時のさださん(28歳で金利を入れて35億円!)にとって、この金額は決してたやすいものではありませんでした。借金を増やしてまで血の出る思いで、それでも始めたのは、どうしても伝えずにはいられないさださんなりの平和への熱い思い・信念があったからだと思います。以降何と2006年まで、20年間も続きました。いつの間にか「長崎の夏の風物詩」と呼ばれるようになり、毎年稲佐山公園野外ステージに2万人前後が集まりました。回を重ねる毎に誹謗中傷も消え、徐々に理解ある協賛企業も現れ始め(パナソニックなど)大規模になっていきます。それでも毎年費用1億円の半分近くはさださんの持ち出しでした。
「夏 長崎から」が10回を超え、「夏の風物詩」として定着した頃、第1回目からボランティアスタッフとして手伝っていた長崎県庁職員の男性が、コンサート会場の稲佐山公園で偶然ある母子の会話を聞きました。幼い子が母に聞きます。「お母さん、なしてこげんばいっぱい人がおると?」母は、「今日はね、平和を考える日やけんよ」と答えますが、子どもには「平和」の意味がよく分かりません。お母さんはその場にしゃがみこみ、子どもに向き合ってこう付け加えます。「こんなにたくさんの人が集まって、良い音楽を聞くことが平和なんだよ」さださんはその夜、打ち上げの席上でスタッフからこの話を聞きました。「まっさん、伝わっとるばい」スタッフは涙を流しながら喜んだといいます。さださんも「頑張ってきて本当に良かった」と実感したそうです。彼の思いはちゃんと伝わる人には伝わっていました。
ただ、初めから8月6日を想定していたわけではありませんでした。さださんは当初、8月9日に長崎で歌えないかと考えていたのです。8月9日は、長崎に原爆の落ちた日です。1945年8月9日午前11時2分、米軍が投下した原爆が長崎の上空500メートルで炸裂。熱戦と爆風で市街地は一瞬にして焦土と化しました。その年だけで約74,000人がお亡くなりになっています。毎年長崎ではこの日は街中が「祈り」に包まれます。そんな中で歌うことで「平和」について考える最も適した日だと、さださんは考えていたのです。
1987年春、コンサートの合間に故郷・長崎に帰郷したさださんと弟の繁理(しげり)さんは、父・雅人(まさと)さんの友人だった地元有力者・衆議院議員西岡武夫(1936~2011)さんと喫茶店で待ち合わせます。「8月9日、平和を考える野外コンサートを故郷・長崎でやりたい―」さださんは西岡さんに構想を語り、協力を依頼します。西岡さんは趣旨に賛同し、できる限りの協力を約束してくれましたが、8月9日の開催にだけは猛反対しました。この日は、平和記念式典や集会、関連行事に出席するために世界各地から多くの関係者が集まる。宿泊施設はいっぱいの上、交通規制や警備を担当する警察の許可を得るのは簡単ではない。「祈りの日」の野外ライブは市民から迷惑がられる可能性もある。さらにはさださんの取り組みが政治利用されたり、集まった右翼や左翼のイデオロギーを持った人間から妨害されたりすることも予想されるし、必ず何か言ってくるぞ。西岡さんはそう語り、代わりに8月6日に開催することを提案したと言います。「広島原爆の日に、長崎から広島に向かって歌えばいい。さだ君、それで君の思いは伝わるよ。それに右の人も左の人もみんな広島に行っているから、何も気にせず、ただ歌えばいい」「夏 長崎から」のコンセプトは、さださんと西岡さんのそんな対話から生まれたものでした。
この「夏の風物詩」は20年間続きました。しかしさださんは、「切迫感が薄まった」として、「2006 夏 長崎から さだまさしファイナル」をもって20年の歴史にピリオドを打ったのです。さださんの表情には無力感がにじんでいました。「僕のメッセージが伝わっているのか、いないのか?それを確かめるために現場を一度離れてみようと思う。「夏 長崎から」を20回で辞める決心をした」9/11のテロ以降、世界に広がった混乱はおよそ終息する気配がなく、自衛隊もイラクに派遣されました。「僕もお客さんも一呼吸置き、原点を見つめ直す時期だと思う。そのために一度、現場を離れることにした」「少なくとも達成感はない。以前は、主催者であると僕がいなくなっても続くコンサートになってくれれば、と思っていたが、その願いもかなわなかった。無力感のほか、悔しさもある」さださんは、自問します。
●最も借金していた頃に始めた思いはあれから20年を経て変化していないか?風化していないか?
●心の熱は下がっていないか?これが本当に必要なのか?
●お客さんはどうなのか?これが本当に必要なのか?
●20年間訴えてきた平和への思いは伝わっているのか?あるいは無駄だったのか?
●子どもでも成人すれば(20年)親の手を離れてもいいのではないか?
●自分が永遠に続けられるものでもないだろう?
これらを自分でもう一度客観的に見つめ直すために、一度現場を離れてみようという決意でした。長崎県は感謝状をさださんに贈ったり、稲佐山の野外コンサート会場を大規模ライブができるように改装したりの協力はしていましたが、コンサート自体は全部さださん任せでした。長崎市民にとって「夏の風物詩」と言われるまでになった特別のイベントなのですから、行政ももっと協力してあげてもよかったのではないか。私はそんなことを思いながら、灼熱の太陽の下、長崎を後にしました。あの時のさださんは確かに苛立っていました。「これまで一つのことを訴えてきた。『コンサートが終わるまでの間に、あなたの大切な人の笑顔を思い浮かべて欲しい。そしてその笑顔を守るために、自分に何ができるのかを考えて欲しい』と。でも、2004年自衛隊がイラクに派遣された。大した議論もデモも暴動もなく、自衛隊はイラクに出て行った。強烈な無力感、喪失感にさいなまれた。だから、最後に言い足した。『大切な人の笑顔を守るためになにができるか分かったら、自ら行動してほしい』と。もう少し早く言えば良かったと思っている」
長崎からの祈りや平和のメッセージは多くの人に届き、次の世代に必ずや生きるものと私は信じています。21年目には、今度は長崎に原爆の落ちた日に、広島から(旧広島市民球場)平和への思いを歌い上げています。「長崎っ子の意地で始めたコンサートだけど、一度も「長崎原爆の日」に歌っていない。8月9日に歌って初めて僕の「行(ぎょう)」は終わると思っている」と。そして「行」を終えるにあたり、今度は長崎に原爆の落ちた8月9日に、広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるとして、2007年8月9日、旧広島市民球場に、約3万2000人が詰めかけたのでした。「20年の思いを収めるためにも広島でやりたかった。長崎の原爆の日に広島で歌って長崎と広島をつなげたい」 「ちょっとだけでいいから、あなたの大切な人の笑顔を思い出してください」 「その大切な人の笑顔を守るために何ができるか、何をすべきかを一人一人が考えてほしい。それが平和への一歩」 「反戦のためにすべきこと。思うだけでなく行動を起こそう」 「僕は長崎をあきらめない。僕は平和をあきらめない」と訴えかけました。そして、超満員の会場から鳴り止まないアンコールに応えて、最後にさださんが歌ったのが、「遙かなるクリスマス」でした。21年間の平和祈念コンサートを締めくくるには、まさにふさわしい反戦の思いのこもった熱唱でした。
「今年は戦後80年。この節目に、もう一度立ち止まって広島の空に向けて歌おうと思った。戦争反対や核兵器、原発など(政治的なことは)一切触れない」伝説のコンサートを、昭和100年、戦後80年の節目となる今夏、令和7年8月6日に復活させます。そして、さださんにとっては最後の「夏 長崎から」になります。「僕としては今後、誰かが受け継いでほしいなと思っています」と語り、今回でラストにする考えです。果たして受け継いでくれる人は現れるのでしょうか?♥♥♥
双頭レール
朝、JR米子駅の0番線(境線)のホームを歩いていて、ちょっと天井を見上げると、柱にこんな表示看板を見つけました。今まで何度も通っている場所ですが、全然気が付きませんでした。「双頭レール」という言葉を初めて知りました。
「双頭レール」とは、レール断面の上部と下部が同じ形状のレールです。上下左右対称のI字型のもので、列車の車輪によって、レール上部が摩耗すると、上下をひっくり返して利用することにより寿命を延ばすことのできる大変エコなレールです。明治5年(1872)の新橋・横浜間の鉄道開通にあたり、イギリス製のレールが使われました。このレールは1837年イギリスのロック(J.Locke)が考案し、イギリスで広く用いられ、我が国でも鉄道開通当時に導入されました。「ダーリントン・アイアン社製」のものです。
鉄道創業時の日本では、レールを輸入に頼っていたために、寿命の長い「双頭レール」が使用されていましたが、国内でのレール生産が可能になると、安定の悪い「双頭レール」は敬遠されるようになりました。その後のレールは、平底レールが主流になっています。下部が広がっているため平底レールは重さにも強く、安定性の高い形状となっています(図下)。
役目を終えた「双頭レール」は、各地の駅のプラットホームの屋根や跨線橋の骨組みなどに再利用され、今も残されている場所があります。米子駅もその一つでした。1902年(明治35年)米子駅開業時の建築材料として用いたもので、現在12対残っているそうです。♥♥♥
プロレスの「アングル」
プロレスの試合においては、試合前に勝ち負けはあらかじめ決まっています。マッチメイカーが事前に双方の選手に通知し、最後の決め技だけを確認しておいて、後は両選手がお互いの技を受けながら、決着(フィニッシュホールド)へとつき進んでいくのです。子どもの頃からプロレスに熱狂していた私は(毎週プロレス専門週刊誌を2冊定期購読し、「大阪スポーツ」を毎日読み、アメリカからは専門誌を購読)、こんなことも知らずに真剣勝負だと思って一喜一憂したものです。新日本プロレスでメインレフリーを務めたミスター高橋の暴露本『流血の魔術最強の演技~すべてのプロレスはショーである』(講談社、2001年)で全ての内幕を知り大きなショックを受けました。このようなプロレスの試合における段取りや勝敗のつけ方についての筋書きを「ブック」と言います。さらには「ブック」を際立たせるためのキャラクター設定や、興業を盛り上げるための「仕掛け」のことを「アングル」と言います。古い英語の言い回しでアングル(angle)には「魚を釣る」「魚釣りをする」という意味があり、プロレスファンたちの興味・関心を「釣る」という意味にピッタリですね。あの強豪の故・ブルーザー・ブロディは、マッチメーカーの筋書きに従わず、「自分が、自分が」と我を通すことで有名な扱いづらいレスラーでした(仙台駅でマッチメーカーと喧嘩別れして失踪事件を起こし新日本プロレスを離脱しましたね)。結局、プエルトリコの試合会場でマッチメーカーに刺殺されてしまいました。ここで有名なアングルの例を見ておきましょう。
タイガー・ジェット・シンのコブラクローで猪木さんが喉から出血したことがある。蔵前国技館での試合だった。シンの手を自分の喉元からふりほどくようなふりをして、自分で持っていたカミソリで喉を切った。後でビデオの録画を見たら、まさにシンの指が喉に刺さっているように見えた。リング内で見ているより迫力があった。ああやって、何ていうことのない技を最大限に迫力あるものに見せかけて、タイガー・ジェット・シンという選手の商品価値を高めていったのだ。自分の身を切り裂いてまで、徹底的に相手の凄みを引き出していく猪木さんの執念と上手さは、見ていて身震いするほどのものだった。(pp.156-157)
プロレスファンなら誰でも知っている「新宿伊勢丹事件」。猪木が奥さんの倍賞美津子さんと新宿の伊勢丹百貨店で買い物している所をタイガー・ジェットー・シンが襲い、猪木を血だるまにして警察が出動しました。これも猪木が発案してシナリオを書いた芝居だったことが暴露されています。
さて、日本のプロレス史上で最も成功した「アングル」は、1982年に長州力が一躍スターダムにのし上がるきっかけとなった「かませ犬発言事件」でしょう。リング上で「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない!!」と反旗を翻し、以降の名勝負数え歌へと展開したものです。それ以前にも何度も藤波辰實vs長州力の試合は行われていましたし、ファイト内容がさほど変化したわけではありませんでした。しかし、しっかりと「アングル」が浸透した以前と以後では、ファンの熱狂度が全く違います。1974年アマレスの世界的選手として鳴り物入りで入団し、新日本プロレスでも将来のスター候補生として育ててきたところで、米国に武者修行に出かけ、メキシコでUWA世界ヘビー級チャンピオンになった長州が帰国します。しかし素質は十分持っているのにプロレス的なはったりが下手くそで、しかも外国人レスラーと手が合わず、実力を発揮することができないままでいました。イマイチファンにアピールできないでいる長州をスターにするためにどうしたらいいか、幹部は頭を抱えています。そんな時に興業会議で「長州をどうするのか?」という議題が上がりました。外人レスラーが苦手な長州には日本人相手の方がいい、藤波の存在をその時以上に輝かせるためにも長州というライバルの登場は好都合でした。この藤波と対立させるという図式は故・アントニオ猪木のアイデアでした。興業会議で決まったアングルを長州に伝え、そのアドバイスを受けた長州が、さらにそのアングルを発展させました。「このチャンスを生かさなければ、いつ俺はスターになるんだ」という強い思いのあった長州は、藤波に反旗を翻して突っかかっていき大乱闘になりました。これをきっかけにしてスター街道へと歩んでいったのです。
つい最近も、みえみえの「アングル」が出現しました。新日本プロレス2月11日の大阪大会で行われたIWGP世界ヘビー級王座戦は、挑戦者の後藤洋央紀(45歳)がザック・セイバーJr.(37歳)を撃破し第12代王者に輝いたのです。IWGP世界王座の前身であるIWGPヘビー級王座に8度挑戦し一度も手が届かなかった荒武者が、2016年2月以来、実に9回目の団体最高峰王座挑戦でついに悲願を達成します。序盤からザックの関節技地獄に苦しみながらも、ベテランの意地でギブアップだけは許しません。超満員札止めの会場から巻き起こる特大の「後藤」コールに後押しされて反撃に出ます。強烈なラリアートから「昇天・改」をさく裂させた後藤は、必殺のGTRを狙います。これを回避されるとヨーロピアン・クラッチを仕掛けられますがラリアートで再び攻勢に。GTRをさく裂させると、最後はリストクラッチ式の「GTR改」で栄光の3カウントを見事奪ってみせました。
そして、試合後のリングで後藤は、「今日の勝利を、亡き父に捧げます。知ってる方もたくさんいるでしょうが、俺はバカです。長男でありながら稼業を継がず、プロレスラーを目指した。でもそんなバカな俺でも貫き通せば王者になれるんです。親父!取ったぞ!」と、昨年2月に死去した天国の父に勝利を報告。さらには応援に駆けつけていた長男と次女をリング内に呼び込むと、「一生に一度のことだぞ。子どもたちよ、この光景よく見とけよ。これがパパが目指した光景だ。この光景が見れたのは、家族のおかげ。そして仲間のおかげ。そして、何よりも俺の後押ししてくれた今日のお客様がた。そして最後に22年間、ここまでやってきた自分自身の体にありがとうございましたと伝えたいです」とアピールしました。くさい芝居です。ついに頂点にたどり着いた後藤は、「後藤革命はまだ始まったばかりだ。最後の最後まで後藤革命について来い!」と豪語すると「IWGPのGは後藤のG!!」の大絶叫で大会を締めくくりました。負けても負けても這い上がり夢を掴んだ後藤。臥薪嘗胆の末、新日本プロレスの歴史に新たな1ページを刻んでみせました。会場は興奮のるつぼ大熱狂です。「9回目のIWGP挑戦。これが最後になるかもしれない、という覚悟はできてます。過去8回負け続けてきましたが、9年前とまったく同じ2月11日で大阪府立体育会館。何か運命的なものを感じる。格好つけることもないし、オレの格好悪いところはみなさん散々見てきてるだろうし、今は無理して格好つける必要もない。自分だけでなく応援してくれるファンの方々と一緒に夢を見たいですね。オレらの世代、結構追いやられてるイメージがあると思うんですけど、ここはオレが先頭に立って、若い世代のヤツらに見せつけなければいけない。そういう風に思ってます。新しい技っていうのはないです。ただ出してない技、彼の知らない技っていうのはまだあると思うので」こうして苦労人が夢を叶えるという図式が完成したのでした。その後、棚橋弘至、永田裕志、デビッド・フィンレー、カラム・ニューマン、ザックセイバーJr.相手に防衛を果たしています。果たしてこのようなくさいアングル、今後も長くファンの心を掴むことができるかどうか、私は疑問なところです。♥♥♥
アキトの「ミルクジャム」
◎週末はグルメ情報!!今週はミルクジャム
JR元町駅から歩いて約5分ほど、神戸南京町からもほど近い交差点の角っこに「patisserie AKITO(パティスリーアキト)」という大人気のケーキ店があります。私が大好きで通っている松江駅南口の「Ciistand」のご主人が修行されたお店です。彼女からこのお店の一番人気商品が「ミルクジャム」だということを聞いていました。オーナーパティシエである田中哲人(たなかあきと)さんの代名詞ともいえる「ミルクジャム」をはじめ、精巧かつ絶品スイーツを求めて、遠方から足を運ぶ観光客の方も多いのです。かくいう私も、先日このお店にお邪魔してきました。そんな「patisserie AKITO」の看板商品「ミルクジャム」に、今ハマっています。

「patisserie AKITO」(以下「アキト」)のオーナー田中哲人さんがパティシエになったのは、「神戸ポートピアホテル」での勤務がきっかけです。料理人の世界を目指して入社したホテルで製菓部門に配属され、そこから田中さんのパティシエとしての人生が始まりました。「食べることは好きでしたが、それまでケーキなんて一度も作ったことはありませんでした。けれど、スイーツ作りに携わる中でフランス菓子に興味をもち、各国の文化やスイーツの名前の由来、歴史を調べていくうちに、どっぷりと製菓の世界にハマってしまいました」と語る田中さん。

その後、「ホテル阪急インターナショナル」を経て、「ホテルピエナ神戸 菓子Sパトリー」へ。「ホテルの看板メニューになるものを」と、試行錯誤をしていた時に生まれたのが「ミルクジャム」でした。雑誌『BRUTUS』の「お取り寄せ&手みやげグランプリ」に、商品化前の試作品だった「ミルクジャム」を送ったところ、審査員を務めていた秋元 康さんが絶賛し、テレビや雑誌などのメディアからも注目が集まり、爆発的な人気となりました。

そして2014年に「ミルクジャムを売りにしたパティスリー」として、神戸の元町に「パティスリーアキト」をオープンします。現在は、エキゾ神戸三宮、エキマルシェ大阪にも出店しており、看板商品の「ミルクジャム」をはじめ、ケーキやプリン、シュークリーム、焼き菓子などのスイーツを販売しています。
「パティスリーアキト」の看板商品である「ミルクジャム」(950円/小瓶380円)は、兵庫県淡路島産の牛乳を使用しています。すべて手作業で、2時間ほどかけてじっくりと煮詰め、手間ひまかけて作っているのがこだわりとか。濃厚なミルクの風味が感じられるジャムは、まさに「ここでしか食べられない」唯一無二の味わいです。「いまはコンビニやスーパーに行けば、安価でおいしいスイーツがたくさんありますからね。僕たち菓子職人が差別化を図るには、効率化を追求するのではなく、あえて手間がかかることをやる。その分、一度に大量に作ることは難しいのですが、商品ひとつひとつをじっくり丁寧に作っています」と田中シェフ。芳醇な香り、濃厚なコク、とろけるような食感は、考案当初から,少しずつ改良が重ねられており、その時の最高の逸品をいただくことができます。最高の食べ方を聞くと、田中シェフ曰く「やはりパンにつけて食べるのが一番」。焼いていないふわふわの食パンにも、トーストしたカリカリの食パンにもとてもよく合います。定番の「ミルクジャム」はもちろん、ピスタチオやアールグレイなど味のバリエーションも豊富にあり、スタッフに声をかければ試食することもできるので、ぜひお気に入りのテイストを探してみてください(写真下)。
店内で、面白い形のジャムを見つけました。こちらの「2層ジャム」(1,200円)は、2種類のジャムを組みあわせたひと品です。食べる時には、まずは上の層にあるジャムの味を楽しみ、そのあとは真ん中で2種類のジャムを混ぜ合わせ、最後は下の層のジャムを食べれば、一度に3つの味が楽しめます。港町神戸のランドマークである「神戸ポートタワー」をイメージした鼓型のボトル(写真上)も素敵で、神戸土産にもぴったりですね。
「アキト」が作るスイーツのようなミルクジャムには次のような特徴があります。

山と海に囲まれた自然豊かな兵庫県淡路島産の牛乳を使用しています。


大きな銅鍋で2時間かけてじっくり煮詰めて手作業で作ります。


味はキャラメルに近いですが牛乳を煮詰めることでミルクのコクが出ます。濃厚な味となめらかさが特徴的です。
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まずはパンに塗って食べてみてください。相性が抜群ですよ。
このお店で修行された「Ciistand」のご主人は、毎日この「ミルクジャム」の瓶詰め作業をせっせとやっておられたそうですよ。彼女が最近島根県産のレモンを使って「レモンジャム」(1,000円)を作ったというので、早速いただいて帰りました。カリカリにトーストしたレーズン食パンに先ほどの「ミルクジャム」を塗った上に、重ねてこの「レモンジャム」を塗って食べています。実に最高です。♥♥♥
決意する
昭和40年頃、京都の中小企業経営者たちが集まった講演会に招かれた故・松下幸之助(まつしたこうのすけ)さんが、「ダム経営のすすめ」についてお話しをされたことがありました。「ダム経営」というのは、川にダムを作り水を貯めるように、企業も余裕のある経営をしよう、という松下さんの持論でした。
堰き止めたダムの水によって干ばつがしのげるように、会社経営にも資金や設備あるいは在庫といったさまざまな面に「ダム」があれば余裕のある経営ができる、というのが松下幸之助さんの「ダム経営理論」です。講演終了後、質疑応答の時間となりました。400人ほどいた経営者の中の一人が、松下さんに質問します。「松下さんのおっしゃるとおり、余裕があればそれにこしたことはないが、我々はその余裕がないから困っているのだ。どうしたら余裕が出来るんか、それを教えて欲しい」 すると松下さんは少し考えた後で、こう答えました。「そうですなぁ。簡単には答えられませんが、やはりまず大切なのは、ダム経営をやろうと思うことでしょうな」この答えに、会場では聴衆から拍子抜けしたような失笑がもれます。もっと具体的な回答を期待していた経営者たちにとっては、「な~んだ」ということだったのでしょう。
しかしその時、思わず身体に電流が走り、身の震えるような感動と衝撃を受けた人物が会場にたった一人だけいました。故・京セラ名誉会長の稲盛和夫(いなもりかずお)さんです。当時の京セラは、まだ創業から数年しか経っておらず、稲盛さんは今後の経営に大きな悩みを抱えながら、この講演会に参加していたのでした。「そうか、まず思うこと、信じることが何にもまして肝要なのだ。その思いが経営に反映されるのだ。松下さんも今までそうしてきたからこそ、今日の松下電器があるのだ…」「そのとき、私はほんとうにガツンと感じたのです。何か簡単な方法を教えてくれというような生半可な考えでは、経営はできない。実現できるかできないかではなく、まず『そうでありたい、自分は経営をこうしよう』という強い願望を持つことが大切なのだ、そのことを松下さんが言っておられるんだ。と、そう感じたとき、非常に感動したんです」 やはりすごい人は違いますね。
稲盛さんは、松下さんのこの一言によって、経営に対する信念を根本から思い直したと言います。400人の経営者が同じ話を聞いています。しかし、そのように受け取った人はたった一人しかいなかったと言ってもいいでしょう。稲盛さんには、そのように受け止めるだけの力量があったということです。この後の京セラの飛躍的な発展は、改めて説明する必要もないでしょう。
私は、何ごとによらず、それをなし遂げるために最も大切なことは、まずそのことを強く願うというか、心に期することだと思うのです。なんとしてもこれをなし遂げたい、なし遂げなければならないという強い思い、願いがあれば、事はもう半ばなったといってもいい。そういうものがあれば、そのための手段、方法は必ず考え出されてくると思います。 ―松下幸之助『経営のコツここなりと気づいた価値は百万両』(PHP)
松下さんは言います。「なあ、きみ、人間の心は広がればなんぼでも広がっていく。縮まればなんぼでも縮まって、しまいには自殺までしてしまうんや。それはどの間を大きく動くわけやね。だからどんどん知恵が出ておるときには、非常にいい知恵が出る。しかし知恵が閉ざされてくると、どんな知恵も出ない。それで失敗してしまう」そのような特質を、人間の心は持っているのです。心が変われば行動が変わり、成果が変わります。さて今、私たちの心は、風の音を聞いても悟ることができるほど、問題意識を持っているでしょうか?活き活きと動いているでしょうか?
松下さんは、「何としても二階に上がりたい、どうしても二階へ上がろう、この熱意がハシゴを思いつかせ、階段を作り上げる」と、「熱意」の大切さを語っていました。今できないものを何としてでも成し遂げようとすることでしか、高い目標を達成することはできないのです。
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生徒:「八幡先生、僕、「共通テスト」で100点を取るにはどうしたらよいでしょうか?」―――八幡:「そうですなあ。簡単には答えられませんが、やはり、まず100点を取ろうと思うことでしょうな」〔笑〕
最近ある公立高校で、難関大学合格に向けた指導のヒントを教えていただきたい、という講演を先生方にしたんですが、これに対しても「そうですなあ。簡単には答えられませんが、やはり難関大学に合格させたいと思うことでしょうな」と答えます。♥♥♥
「ジェットストリームシングル」
昨年3月、ジェットストリーム(三菱鉛筆)に、よりかろやかな書き心地の新型「ジェットストリームシングル(ライトタッチインク搭載)」が出た、との噂を聞きつけて、文具好きの八幡は早速入手してきました。王者・ジェットストリームは「低粘度油性ボールペン」の先駆けで、「クセになる、なめらかな書き味。」のキャッチコピーで、世界中で大好評のシリーズです。従来のジェットストリームのサラサラ感、しっかりとした濃さなど、良い点を引き継ぎながらも、より軽く、よりサラサラ書け、ストレスが減るように新開発されたインクが、この「ライトタッチインク」です。この新インクは試行錯誤を繰り返しながら数年かけて開発したといいます。初代のジェットストリーム発売が2006年ですから、18年を経た新シリーズとなります。以下は「文房具の八ちゃん」の詳細レポートです。
「シングルボールペン」は、事務的な印象を受ける今までと違い、プレーンなデザインと爽やかな印象を受ける、流行のパステルカラーを合わせて、女性にも受けやすいおしゃれなデザインになったと思います。特に、グリップ部分もボディ同色にすることで、野暮ったさをなくしており、疲れにくさにも考慮されており、秀逸です。しかも、よくよく見ると、グリップ部が少し太く設計されており、その辺の持ちやすさもよく考えられています。それだけではありません。クリップ部分も改良され、よりしっかりホールドしてくれるだけでなく、根元の取り付け位置が変わったため、胸ポケットなどに差した時に出っ張る部分が少なくなり、よりスマートに見えるようにもなっています。細かな点にまで気配りがなされています。仕事にもプライベートにも馴染みやすい、丸みのあるボディデザインで、カラーラインナップも周りの風景や雑貨に溶け込む優しくナチュラルな色合いが揃っています。クリップにまで同色のシームレスな洗練されたデザインは◎です。
今までの無骨さはまるっきりなく、非常に可愛らしく、シンプルなフォルムになっています。それでいて本体自体も軽く、実用性におしゃれさ・使いやすさを加えた、非常にコスパに優れた一本になったと思います。それだけでなく、本体自体も従来版よりも短くなっていて、携帯性にも優れています。このように、女性がオフィスで使ってもおしゃれだと思えるボディに、軽い身のこなし(書きやすさ)で、選んで・使い倒して間違いない、本命の一本だと感じました。ノック棒には筆記時の振動や異音を抑える機能を搭載しており、より心地よく使える工夫を施しています。クリップは手帳や胸のポケットにすっきり収まるように、飛び出し部分がすくなくなるような形状を追求しており、細かな改良が施され、みんなに愛される存在になっています。
書き出してみて、思うのは「本当に軽い」です。ボディが軽いとかそういうことだけではなく、油性ボールペンを思わせないくらいスラスラ書けます。この感覚、元々通常のジェットストリームでも感じるものでしたが、今回の新モデルは「ライトタッチ」の言葉通り、今まで以上に軽く書ける感じがあります。水性ボールペンのようなスラスラ感ともまた違い、なんというか、本当に「軽い」です。書き味のいい上質な紙に、上質な鉛筆で書いているような感覚でしょうか。それでいてジェットストリームらしく色も濃く、低粘度油性ボールペンの一つの完成形のように感じます。
「よりかろやかな」というキャッチフレーズには、もう一つ重要な改善点がありました。「紙すべり」の軽減です。ジェットストリームはなめらかすぎて、紙によっては滑ってしまい、かえって書きづらいという現象が起きて、苦手だというユーザーが一定の割合でいました。よりかろやかな書き味にするために、この「ライトタッチ」が発売されたのです。未来の定番を目指し、「クセになる、なめらかな書き味。」を実現する、世界初の画期的なインクシリーズから、よりかろやかな書き味の『JETSTREAM Lite touch ink』を新開発。従来のインクよりさらに筆記抵抗を減らし、よりかろやかな書きごこちを実現しました。またインクのボテや紙すべりをさらに改良し、よりストレスの無い安定した筆記を提供します。時代や環境により「書く・描く」シーンが多様化する中で生まれた、ジェットストリームの新しい選択肢です。
筆記時に振動や異音を抑えたノック棒、ポケットに挿した時に収まりのよいクリップ形状など、使い心地にもこだわりました。このインクでしかできない表現があるので、それを知ってもらう企画を色々と考えています。気軽に試して、既存のジェットストリームと書き比べてみてください。(商品開発部)
ここまで書くと、いいことばかりなのかと思いますが、個人的に気になる部分もあります。それは、「従来比で色が薄い気がする」「軽すぎる故、力を入れて書けない」という点です。色に関しては、従来のものと黒色で比べると、今回のほうが少し黒さは薄いように感じました。世の中の評価を見ていると、むしろ濃くなったという話もありますので、ペンの太さや紙など、状況にもよるのかもしれません。次に、力の問題ですが、特にマルチだと顕著なのですが、ボディも含めて軽い分、剛性感が薄く、とても力を入れて書けません。「日本語を美しく書く」ために強弱をつけて、止め・はね・払いを意識して書こうとすると力が入りますが、そうするとなんとなく折れそうになります。
今回のライトタッチインクは、ジェットストリームの良さを活かしながら、現代のニーズにピッタリ合ったものにうまくアップデートされているな、と思いました。シンプルで使う人・シーンを選ばないデザイン、サッと書くのに適した軽い書き心地など、コンセプト通りの製品になっています。さすがですね。発売後の反響は予想を上回るものでした。ただし、先述の通り、少し軽すぎる印象はあるので、ゲルインクや水性インクのようなサラサラ感より、油性ボールペンならではのねっとりとした感じを好む方は従来型の方が好みになると思いますので、その点はご考慮ください。このように、なかなか面白い一本となっていますので、ぜひ一度体感してみてください!なお、ライトタッチインクの芯(リフィル)はそれぞれ(0.7mm、0.5mm共)一本132円で買うことができます。私のお気に入りの色は限定色の「ブルーブラック」のインクです(写真下右)。
ちなみにこのボールペンは「2024年Bun2大賞」で第3位を受賞しています。『文具屋さん大賞2025』(扶桑社ムック、2025年2月)では「機能賞」を受賞しました。また、文具王・高畑正幸さんがスポンサーとなって開催している、お気に入りのボールペンを選ぶ「第14回OKB48総選挙」(投票期間:2024年10月1日~12月31日)では、絶対王者「ジェットストリーム スタンダード」(三菱鉛筆)が第1位で14連覇を達成し、今回ご紹介した「ジェットストリーム シングル(Lite touch ink搭載)が第2位に輝きました。当面「ジェットストリーム」の栄華は続いていくのでしょう。恐るべし!「ジェットストリーム」!!♥♥♥
小倉総合車両センター移転
JR九州は2024年7月24日に、同社の車両工場「小倉総合車両センター」(北九州市小倉北区)を移転する、と発表しました。開設からすでに130年以上が過ぎていることから別の場所に新しい車両工場を建設し、施設や設備の老朽化に対応するとのことです。移転先は同じ小倉北区内の東小倉駅。小倉駅から約1.8kmほど門司寄りにあるJR貨物の貨物駅ですが、2002年に営業を休止しています。JR九州はJR貨物から東小倉駅の用地を取得し、「小倉総合車両センター」の機能を移転する考えです。私は昨年の3月にJRのツアーでこの地を訪問してきました。

▲私が訪れたJR小倉総合車両センター
JR九州は新しい車両工場の基本コンセプトとして、「新技術の導入及び効率的な検査ラインの構築によるコンパクトな車両基地」や「検査日数の短縮及び省人化による効率的な車両検査の実現」などを挙げています。敷地面積は現在の「小倉総合車両センター」が約15万8,000平方メートルに対して(「みずほPayPayドーム福岡」3個分)、移転候補先の東小倉駅はおよそ半分ほどの約7万8,000平方メートル。2031年度末ごろの完成を予定しています。投資額の想定は約480億円。今のところ、現在の「小倉総合車両センター」跡地の用途については検討中です。
「小倉総合車両センター」は、JR九州が保有する全ての在来線車両を対象に、車両の検査や製造、改造などを行っています。1891年(明治24年)、門司まで開通した九州鉄道の車両整備工場として開設されました。創設当時はたった60人程度の小さな工場でしたが、1907年の九州鉄道の国有化で国鉄の小倉工場になり、1987年の分割民営化でJR九州の車両工場になっています。この地に工場が立地されたのは、敷設を予定していた日豊本線の起点であること、車両の陸揚げを行う港が近いこと、蒸気機関車の燃料である石炭の産地が近くにあったことなどが理由でした。最初は、海外から輸入した車両部品の組み立てを主な業務としていましたが、やがて業務を拡大していき、D51、「ゆふいんの森」「SL人吉」「指宿のたまて箱」「ななつ星in九州」など、JR九州特有の個性的な車両も数多く手がけています。2011年の組織改正で現在の名称に変わりました。昨年2024年で開設から133年になり、全国有数の規模を誇る車両工場に成長しましたが、施設や設備の老朽化が課題となっていました。現在はJR九州の社員約140人、グループ会社を含めると1,000人以上の従業員を抱え、おおよそ1,700両の車両の検査や修繕を引き受けています。技術力の高さは海外にも知れ渡っており、インドネシア国鉄へ技術者を派遣するなどもしています。
このJR九州の「小倉総合車両センター」には、普通一般人は立ち入ることはできませんが、JRの限定ツアーで入場することができます。日本における鉄道開業150年を迎えたことを記念し、この地には「小倉工場鉄道ランド」が2022年4月23日にオープンしているんです。私も早速訪れてきました(⇒私の詳しい訪問記はコチラです)。ここでは、2022年に開所50年を迎えた「ドーンデザイン研究所」の主宰者・水戸岡鋭治(みとおかえいじ)先生の作品を一堂に集めたミュージアムやショップ、小倉工場の歴史の展示、「小倉総合車両センター」の社員が今も利用する現役の「つばめ食堂」での昼食などを楽しむことができます。また200点以上のデザインパネルや試作した家具、ボールプール、ブランコ、新幹線用の実物シートが配置され、小さな子ども向けのミニトレインと三輪車も用意されています。オリジナル・グッズの販売もショップで行われていました。ここは現時点では、JRの限定ツアーでのみ公開されており、全国の鉄道ファンが憧れる聖地でもあります。♥♥♥
柴田紘一郎先生ご逝去
尊敬する医師の柴田紘一郎(しばた・こういちろう)先生が、2月19日にお亡くなりになりました。84歳でした。宮崎大宮高校から長崎大学医学部に進学し、長崎大医学部を卒業後、30歳代の頃(1971年~1973年)、同大熱帯医学研究所員としてケニアに渡り、過酷な環境下で医療活動に従事しました。そのケニアでの経験や思い出を聞いて、親交のあるシンガーソングライターのさだまさしさんが作詩・作曲したのが楽曲「風に立つライオン」です。この曲のモデルになった先生です。柴田先生は、さださんが設立した慈善活動を支援する「風に立つライオン基金」の永久名誉顧問にも就任しておられます。さださんは「半世紀以上のお付き合いでした。大好きな、素晴らしい兄貴でした」と追悼のコメントを寄せました。
生前、柴田先生は、ケニアでの経験は、医師として自分がどうあるべきか、また患者とどう向き合えばいいのかにつながっていると話しておられました。
「医者が患者から奪ってはいけないもの。それは命ではない。心なんだ『希望』なんだと。命が心につながってきますから、その心を大切にするような医療を続けていきたいし、そういう今からの医療であってほしいなと」
かつて英語を教えていた松江北高二年生(当時)の安樂万智子(あんらくまちこ)さん(現在は薬剤師として活躍中)を、中国ブロック代表として、2013年8月22日(木)、宮崎市民ホールで開催された「第33回高校生英語弁論大会」(全国国際教育研究協議会主催)に引率しました(全国第4位⇒コチラに詳しく)。そこで私はこの柴田先生と「運命的な出会い」をすることになります。この大会のゲスト講演講師に、あの柴田紘一郎先生がいらっしゃったのです。さらに運命とは恐ろしいもので、安樂さんのお父さんは、当時「松江日赤」のお医者さんだったんですが、長崎大学の学生時代に、柴田先生に直接ご指導を受けておられたのです。こんな偶然って本当にあるんですね!そんな不思議なご縁で、私も柴田先生とお知り合いになることができました。宮崎から帰ってから、後日先生に講演のお写真をお送りしたところ、丁重なお礼状もいただきました。また、このブログも見ていただき、身に余るお言葉をいただくことができました:「先生のホームページも拝見させていただきましたが、英語科の教師としてすばらしい英語教育に、またあまたの一般事象への高いご見識を常に発信されている姿勢に感銘いたしました。」(柴田紘一郎)
さだまさしさんのコンサートでは、いつもアンコールに歌われることの多いこの曲の壮大なスケールとエネルギーに圧倒されるばかりでしたが、柴田先生は「僕もいつか風に立つライオンのようになりたい」と謙虚です。「まさしさんはこれは僕の歌だと言うけど、これは『風に立つライオン』という歌であって、自分はこの歌のヒントになったに過ぎない。だけど僕はあなたの描いたライオンに一歩でも近づくために、これからもがんばっていきます」と、実にカッコいいのです。映画化の際のさださんのコメントです。
ケニアにある長崎大学熱帯医学研究所から帰ってきたばかりの柴田紘一郎先生に出会ったのは僕が二十歳の頃です。40年以上も昔のことです。
彼の語るケニアを聞き、その言葉のひとつひとつに憧れ、いつか歌にしたいとプロの歌い手になってからずっと思っていました。そして、ようやく15年かけて自分なりのケニアが身体の中に育ち、「風に立つライオン」という歌ができあがりました。
歌い続けるうちに、その歌は驚くほど多くの人達の心に強く働きかけるようになっていきました。この歌を聴いて医療従事者を志したり、青年海外協力隊に参加する若者がたくさん現れました。日本を離れ、海外で頑張っている医師も少なくありません。また、ある女性 はケニアでマサイ族の勇士の夫人となりました。少しずつ、沢山の人々の人生を変えていきました。そんな歌を僕は他に知りません。
大沢たかおさんもこの歌を愛してくれる一人で、彼の熱い思いによって、ついに映画になりました。
自分で作った歌というより、神様にいただいた歌なのだと感じていますが、これほど多くの方に愛され、影響を与えた歌を書いたという責任も感じていますし、少しでも海外で頑張っている人達の応援をしたいという思いで、今回、28年振りに歌い直したシネマ・ヴァージョンを配信でリリースして、売上の一部をチャリティとして寄付することにしました。
再録にあたり、新たに渡辺俊幸くんにリアレンジしてもらいました。元々8分半もある長い曲なので、映画の主題歌としてエンドロールで使っていただくには長すぎると思い、短くするつもりでしたが、オーケストラを使ったより雄大なアレンジになり、逆に40秒も長くなってしまいました。にもかかわらず、三池監督はフルコーラス、エンディングの一番いいところで使ってくださり本当に感激しています。ただ、映画に感動して泣きたいのに、自分の歌を聴いて泣いているように思われるのは嫌なので、できれば映画は、誰もいないところで、一人きりで見たいなとつくづく思います。(さだまさし)
医師を目指した理由を聞かれると、「非常に月並みですよ。何も変わったことは思っていないんですよ。小学校一年生の頃、親同士が国鉄ということで仲がいい女の子がおったんですよ。その女の子のお父さんが五右衛門風呂に入とってですね、板から出ていた釘が足に刺さって、七日後に死んだんですよ。今でいう破傷風ですね。まあ、元気で身近な人がいきなり亡くなると、悲しいですよね。皆さんと一緒で、非常に月並みな理由なんですよ。子供心に、非常に悲しかったんですよ。」と。さらに医者の良い点、悪い点を聞かれると、こう答えられました。
医者の良い点というのは、我々はどこにいても、例えば無医村にいても都会にいても、相手となる患者さんというのは尊厳価値においては同一じゃないですか。どういう所にあっても全力で仕事ができるというところでしょうか。悪い点は、医者の中には“自分が治している”と勘違いしている人がいる、ということでしょうね。患者さん自身が治ろうと、治そうとしているのに、医者はそれを神様と共にちょっと手助けするだけなのに、“自分が治している”と思い上がった心を持ってしまう…。まあこれは僕だけの意見ですけどね。
「理想の医者」を聞かれると、「僕の独断と偏見ですけど、臨床医は芸者ですよ。患者さんは心身ともに悩んでいるのですから…。医者は常に向学心を持ち、芸の心をもって、患者さんに尽くすこと。これが理想ですね。」と。
柴田先生が若い頃の、ガン患者の奥さんの話が映画の中にも出てきました。これは実話です。肝臓ガンが見つかりすぐに処置しなければ危険な若い奥さんが、「大学病院にしか入らない」と言い張ります。当時病院のベッドが一杯で、ベッド一つ空けられないくらいのペーペーの頃の柴田先生は、自分の信頼する他の病院を世話しようと、再三再四、自宅に足を運んでまで入院を説得。でも、その奥さん、頑なに「ベッドが空くまで待つ」と言い張り、二ヶ月経ち、三ヶ月経ち、半年が経ち、結局、手遅れで亡くなりました。柴田先生は、周りの反対を押し切り、よせばいいのに、責任を感じ、その奥さんの通夜に行くのですが、お焼香もさせてもらえません。悲しみに怒り狂う旦那さんが「お前が家内を殺した!」と罵倒、「力足らずで申し訳ありませんでした」としか言えませんでした。その重荷を生涯、ずーっと心に抱き続ける、そんな素敵な先生です。
毎年、教え子の多くが医学の道を志します。彼らに柴田先生の大好きな一言を贈ります。自戒したいですね。
突然の事故。救急車で運ばれ、病院到着。
ドクター、ナースの顔を見てホッとする私に
「最悪だよな」
「先生と当直すると最悪の患者ばかりですね」と一言ずつ。
そんな中、「もう大丈夫ですから頑張ってくださいね」
看護学生のその一言に、
思わず涙が一粒こぼれた。 (児島美恵子)
























